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元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧酒井医院(浜田市旭町市木)

1
市木という地名は、旧旭町と旧瑞穂町にまたがって存在していますが、
もともとは市木村という一つの村だったところを
昭和33年に旧旭村(旭町)と旧瑞穂町とに分離編入されたものだそうです。

以前紹介した旧石見市木自動車駅は旧瑞穂町(現邑南町)であり、
今回ご紹介する旧酒井医院は旧旭町(現浜田市)の市木に所在します。

2
昭和11年の築とされる旧酒井医院の建物です。
県道に面しておらず、県道から脇に入った田んぼ沿いの細い道に面して建っています。
車で通るとなかなか見つけにくいロケーションです。

3
建物の外装は改装されて新建材のボードで覆われているようですが、
一部崩れかけた箇所をみてみると、オリジナルは下見板張りだった様子です。


4
玄関庇はオリジナルを保っているのでしょうか。赤十字マークが医院建築を主張しているようです。

5
閉院してどのくらい経つのでしょうか、だいぶ傷んできています。
かつてはこの地域の医療を一手に引き受けていた頼もしい存在だったのではないかと思います。
今は田植えを終えた田んぼの前で静かにたたずんでいるばかりです。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:酒井医院
竣工:昭和11年
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【撮影】
令和元年5月

【参考資料】
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 平成14年 島根県教育委員会
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  1. 2019/06/10(月) 21:44:05|
  2. 島根県の近代建築・浜田市
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旧米江旅館(松江市伊勢宮町)

1
松江市伊勢宮町は、松江市では橋北の東本町と並ぶ歓楽街であります。
盛り場の中で一軒だけ純和風の建物が残っています。
これが旧松江新地遊郭時代から残るほぼ唯一の建築、旧米江旅館です。

2
旧米江旅館は昭和2年築、新地遊郭の入り口である「黒門」に通じる
本通りに面した建物で、遊郭時代は大変ににぎわったのでありましょう。
戦後転業して「米江旅館」に。現在は「松江巴庵」という和食のお店になっています。

4_2019052617033790a.jpg
遊郭の建物とはいいながら、松江らしく落ち着いた佇まいです。
室内は十分に吟味された資材を使って凝った造りになっておるそうです。

3_20190526170335b9d.jpg
玄関先の造作もなかなか素敵であります。

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旧米江旅館の裏側。

米江旅館は平成14年に登録有形文化財になっています。
その際に表示は表が「米江旅館本館北棟」、裏側の棟は「南棟」とされています。

【松江新地遊郭】
6 松江情緒
昭和13年5月に刊行された「松江情緒」という小冊子に新地遊郭の事が記されていました。
裏表紙には事変の激化で幻となった「神国博覧会」の記念スタンプが押印されています。

この小冊子には松江市内の観光スポットのほか、
料亭、食事処、旅館の紹介などが細かく記されており、
当時の松江の風俗を知る上で大変貴重な資料です。
後半には多くのページを割いて新地の芸妓を写真付きで紹介してありました。
今も地方のホテルなどに置いてある、「夜のスポット案内」のような立ち位置でしょうか。

7_20190526170342fca.jpg
「松江情緒」には松江新地遊郭の略図も掲載されており、妓楼の名前と位置とが記されています。
この中には当然に「米江」の名前も確認できます。

8_201905261703436ce.jpg
現在の松江新地正門付近の様子。
写真正面に「黒門」と呼ばれた新地の門があったそうですが、現在は何の痕跡も残っていません。
遊郭の事を象徴して「黒門」と称する慣例もあったようです(東大のことを『赤門』と呼ぶようなものですね)。

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遊郭正面の黒門より「黒門本通り」をまっすぐ進むと正面突き当りが現在の「松江新天地」です。
遊郭時代は「和多見病院」が建っていた場所です。

11 040725新地黒門t
(昭和4年7月25日付 山陰新聞より)
昭和4年7月、それまでは木造で黒塗りだった「黒門」がコンクリート造りとなり、
あわせて黒門本通りがアスファルト舗装となった際の新聞記事です。
写真には、頂部に灯具をのせたコンクリート造りの黒門が確認できます。
戦前の遊郭内の風景写真も大変貴重です。
当時の新地遊郭には、旧米江旅館のような建物がずらっと建ち並んでいたことが分かります。

12_20190526170348220.jpg
以上、旧米江旅館のご紹介でした。


【建物のプロフィール】
建物名:旧米江旅館(巴庵)
竣工:昭和2年
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【撮影】
令和元年5月

【参考HP】
松江巴庵



  1. 2019/05/26(日) 18:10:50|
  2. 島根県の近代建築・松江市
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旧石見市木自動車駅(邑南町市木)

CIMG9619.jpg
邑南町市木の中心集落から少し離れた県道沿いに佇む、省営自動車の駅の遺構です。

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省営自動車とは戦後の国鉄バス、現在のJRバスの大元と言える存在です。
鉄道未開業のエリアを補完するための存在であり、システム自体は鉄道と変わらず、
沿線には駅があり切符の販売や貨物の取り扱いをしていました。
この建物は省営自動車広浜線の石見市木自動車駅の駅舎として建てられたものとのことです。

090831広浜線開通t
(昭和9年8月31日付山陰新聞より)
浜田と広島とを自動車で結ぶ省営自動車広浜線は、昭和9年9月1日に開業しました。
この建物も昭和9年9月の開業に合わせて建設されたものだそうです。

090831広浜線開通tt
上掲新聞記事からの抜粋です。
このようにバスだけでなく、トラックも常備して貨物輸送をしていました。

CIMG9612.jpg
左の庇がある開口部分に切符売り場や待合室があったのでしょうか。

CIMG9611.jpg
この建物の存在と詳細は中国のバス車庫やバスの研究をされている、「バス車庫めぐり」さまに教えていただきました。
教えていただかなければ省営自動車の遺構とはわからずスルーしていました。本当にありがとうございました。

この時代、島根県では
出雲今市(出雲市)と備後十日市(三次)とを結ぶ雲芸線、石見大田と赤名を結ぶ大田線、
日原と岩国を結ぶ岩日線など、相次いで陰陽を結ぶ省営自動車路線が開設されています。
これによる、特に山間部の経済、産業の発展には計り知れないものがあったと思われます。

以上のような次第で、島根県の近代化を考える上で貴重な遺産であり、
省営自動車時代の遺構と言う点でも、現存するものは殆どないわけで、
この旧石見市木駅は極めて貴重な近代化遺産と言えると思います。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:省営自動車広浜線石見市木自動車駅
竣工:昭和9年頃
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【撮影】
令和元年5月

【参考HP】
「バス車庫めぐり」




  1. 2019/05/20(月) 21:42:21|
  2. 島根県の近代建築・石見地方
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木次村方公会堂(雲南市木次町)

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木次町村方、ホシザキ電機の工場の向かいに建っている木次村方公会堂です。
公会堂と言っても、音響設備の整った大規模なものではなく、
いわゆる集落の集会所といった佇まいの建物です。
「島根県の近代化遺産」には未記載、ブログ主も何度もこの建物の前を通っていたはずですが、
存在に気が付いていませんでした。

100528木次村方公会堂t
(松陽新報 昭和10年5月28日付)

この建物の存在は松陽新報で知りました。
新聞記事では昭和10年5月26日に落成式を挙げた事が報じられています。
建物の写真も掲載されていたことからグーグルで確認したところ、
現存していることが判明しましたので現地を訪問してきました。

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道路から少し階段を上がった小高い丘に建っています。
建物の前の門柱も落成時の写真と同じもののようです。

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門柱の根元には「昭和拾年五月吉日」と刻まれていました。

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玄関部分。

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質実剛健な役場風の建物ですが、玄関庇の持ち送りが唯一のオシャレポイントでしょうか。

100528木次村方公会堂tt

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建具がアルミサッシに変わった以外は原型を保っているようです。
地域の集会所(公会堂)はたくさんありますが、
戦前に建てられたものが原形を保ったまま活用されているという点では
大変貴重な例だと思います。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:木次村方公会堂
竣工:昭和10年5月
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【撮影】
令和元年5月
  1. 2019/05/19(日) 14:37:30|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
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旧松江銀行仁万出張所(大田市仁万町)

またまた前回の投稿から間があいてしまいました。令和の御代になって最初の投稿であります。

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合併で大田市の一部となった、仁万町の中心エリアに現存している、旧松江銀行仁万出張所の建物です。

「島根県の近代化遺産」では、昭和11年築、旧静間商業銀行仁万出張所としています。
この地に静間商業銀行の出張所が開設されたのは明治33年と相当歴史が古いのですが、
当の静間商業銀行は大正12年に八束商業銀行と合併していますので、
この建物が昭和11年築であるならば「静間商業銀行」の建物ではなくなってしまいます。

上掲「島根県の近代化遺産」の説明文と、
中国電力エネルギア総合研究所の「島根県を中心とした産業発展の歴史」より、
静間商業銀行とこの仁万出張所の変遷について整理すると以下の通りです。

明治33年7月  静間商業銀行設立(同年静間商業銀行仁万出張所開設)
大正12年4月  静間商業銀行、八束銀行と合併(八束銀行仁万出張所となる)
昭和2年7月  八束銀行、松江銀行と合併(松江銀行仁万出張所となる)
昭和7年5月   仁万出張所を廃止して宅野支店を出張所に変更し統合
昭和11年8月  仁万出張所と店名を変更し、現在地へ移転
昭和16年7月  山陰合同銀行仁万出張所となる
昭和26年4月 山陰合同銀行仁万支店となる
昭和56年11月 店舗を新築移転

ということで、この建物が昭和11年に建てられたというのが正しいのであれば、
昭和11年当時は松江銀行仁万出張所だったわけですから、
「島根県の近代化遺産」における「旧静間商業銀行仁万出張所」という記述は誤っていることになります。

ただ、ごらんの通り蔵造り風の古風なデザインは、松江に現存する旧第三銀行松江支店や
大田市大森に移築された旧松江銀行本店などの明治期の銀行建築にも似ており、
本当に昭和11年築なのかな?と思ってしまう佇まいではあります。

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元の銀行出張所時代の玄関跡です。昭和56年に銀行が移転した後は改装されて民家となっています。
屋内は改装の結果、銀行時代の痕跡は残っていないそうです。

3 110908仁万出張所
(昭和11年9月8日付 松陽新報より)
松陽新報に戦前の仁万出張所の姿が写っている記事を見つけました。
現在と比較してみると、当時は上げ下げ窓だったものが改装されていたり、
2階の開口部が現在は塞がれていたりなどの変化が確認できます。
記事は昭和11年9月ですから、新築2か月後の姿という事になります。

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手前のショウウインドウ風のものは、合銀時代の名残だそうです。

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以上、旧松江銀行仁万出張所のご紹介でした。本当に昭和11年の築なのだろうか??


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:松江銀行仁万出張所
竣工:昭和11年
構造:木造?
設計者:?
施工者:?

【撮影】
令和元年5月

【参考文献】
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会
エネルギア地域経済レポートNo.467「島根県を中心とした産業発展の歴史(明治・大正編Ⅲ)
                            平成25年  中国電力㈱エネルギア総合研究所


  1. 2019/05/13(月) 17:16:19|
  2. 島根県の近代建築・大田市
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御岳登山鉄道瀧本駅(青梅市御岳)

CIMG8684.jpg
奥多摩の御岳山を目指す際、玄関口となるのが御岳ケーブルカーの瀧本駅駅です。
ご覧のように柱を露出させた山小屋風が印象的な駅舎であります。

かなり歴史のある駅舎のようにお見受けします。
ウィキペディアによれば御岳ケーブルの開業は昭和9年、
戦時中の休止期間を経て昭和26年に運転が再開されています。
現在の駅舎が戦前に建てられたものなのか、戦後の運行再開の折に再建されたものなのか、
御岳ケーブルの古い写真というものがなかなか見つからず確証を得られなかったのですが、
ヤフーオークションで御岳ケーブルの古絵葉書を発見し落札することができました。

img138t
いかがなものでしょうか、飾り気のない駅の雰囲気や写っている人物の服装などから、
昭和9年の開業時に近い時期に撮影されたものと推察されます。

CIMG8673.jpg
現在の瀧本駅の姿です。絵葉書と比べてみますと、1階部分は増築がなされていますが、
建物自体は戦前の姿のままという事が確認できると思います。

拡大1
絵葉書に写っているホーム、上屋の部分を拡大してみました。
この辺りの構造物は現在も原形を保っているように思われます。

拡大2
駅舎部分の拡大。1階部分は板張り、2階部分は柱を露出させたハーフティンバー風です。

CIMG8700.jpg
ホームから観察する駅舎2階部分。
建具は更新されていますが、ほぼ原形を保っています。

以上、御岳ケーブル瀧本駅のご紹介でした。
絵葉書により、現存する駅舎は昭和9年の開業当時に建てられたか、
少なくとも戦前のうちに建てられた近代建築であるということが分かりました。

  1. 2019/04/16(火) 22:15:10|
  2. 島根県以外の近代建築
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日立金属厚生館(安来市安来町)

1
安来市旧市街の町並みに佇む立派な料亭建築、「日立金属厚生館」の建物です。

2
「島根県の近代化遺産」によれば昭和元年築、もとは料亭「ひさご家」として建てられたものだそうで、
このひさご家は現在も盛業中の山常楼とともに、安来を代表する料亭だったそうです。

「安来散歩」によれば、戦時中に日立金属の「厚生館」となり、
勤労学徒の宿舎、女学生の寮などとして使われた後、
戦後の一時期は安来の公会堂として利用された事もあったそうです。

3
増築が繰り返されているのか、複雑な造りをしています。

4
裏手には三階建ての部分も。どのような用途だったのでしょうか、登ってみたくなる建物ですね。

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裏手にも玄関があります。こちらは従業員用の出入り口なのか、別館的な存在なのか。

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玄関棟の奥に見える二階建入母屋の建物も気になります。

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前述の「安来散歩」によれば、
『身延山の久遠寺の橋を模したという朱塗欄干の太鼓橋を渡ると、百三十三敷の大広間がある』とあります。
内部は公開されていませんが、大広間につながる朱塗欄干の太鼓橋、見てみたいです。

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山常楼とともに、戦前の安来の繁栄を偲ばせる、貴重な建物です。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:ひさご家
竣工:昭和元年
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【撮影】
平成26年9月

【参考文献】
「安来散歩」 平成8年 「安来散歩」刊行委員会 
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会


  1. 2019/03/24(日) 21:46:03|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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川本の旅舎(川本町)

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川本町は江の川流域で最も栄えた町の一つで市街地も比較的規模が大きく、古い町並みが残っています。
そんな川本の町でひときわ目立つのが、バス通りに面して大木が天を衝くお屋敷です。

2
前も拙ブログでご紹介したこのお屋敷、川本の有力者の屋敷なのかなと勝手に想像していたのですが、
建てられた当初は旅館として建てられたものだったようです。

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(国会図書館デジタルコレクション 『民家図集第三輯島根県』より一部転載)

国会図書館のデジタルコレクションに所蔵されている「民家図集第三輯島根県」という資料に、
「川本町 旅舎」というタイトルでこの建物が掲載されているのを見つけました。
キャプションを抜粋しますと下記の通りです。

「島根県邑智郡 川本町旅舎」
下の写真は、大森の南方七里江川のほとり川本町にある一旅舎である。
ここは大森ほどの由緒を持たぬ町であるが
近村の農産殊に繭の集散地として石州中央の枢要区である。
この旅舎は30年前の建築で、町では一流といわれ、
地方色をうかがうに足りる家構えである。


「旅舎」とはすなわち「旅館」という事で良いのではないかと思います。
この本の刊行が昭和5年、キャプションに30年前に建てられたとありますから、
おおよそ明治33年ごろに建てられたものと思われます。
明治33年というと、鉄道唱歌が刊行されたり義和団事件が発生したり、そんな昔です。
その頃に建てられた建物が残っていると考えると、とても貴重なものに感じますよね。

4
町の中心にある旅館ですと、通りに面して建物を置く場合が多いように思いますが、
この旅館では母屋を後退させ、立派な門を据えて前庭をおくという余裕をみせていることから、
キャプションにあるように川本町随一の旅館だったことがうかがえます。

5日
塀が真壁造りから板張りに変わっていますが、そのほかはあまり変化がありません。

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「川本新町通」とキャプションがあるこの絵葉書、よく見ると、右側に当該旅館の塀が写っています。

現在でも川本町は今も県の合同庁舎が所在するなど、
邑智郡部では中心的な位置づけにある大きな町ですが、
この本が刊行された昭和5年当時は繭の集散地として大いに栄えていたようです。
この旅館も近郷遠方からの商談客の宿泊や接待で大いに賑わっていたのでありましょう。

図2
絵葉書の風景と同じ場所の現在の姿。Google様より転載しました。

以上、川本町のお屋敷は明治33年頃に建てられた旅館だったというご報告でした。

【参考文献】
「民家図集第三輯島根県」 昭和5年 緑草会 編



  1. 2019/03/24(日) 10:59:37|
  2. 島根県の近代建築・石見地方
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旧江津町役場(江津市江津町)その2

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すでにご紹介している旧江津町役場ですが、竣工当時の新聞記事など確認しましたのでご紹介します。

【当時の新聞記事より】
t150413役場庁舎の竣工式で江津の大賑いt
山陰新聞(大正15年4月13日)

「江津の大賑い」
「役場庁舎の竣工式で四日間は乱舞の巷」
江津町役場竣工式は既報の如く
来る14日午前10時半から新庁舎階上の
公会堂に於て盛大に挙行の筈であるが、
総工費三万円を要し昨年8月起工し
本年3月29日竣工引き渡しを了したもので
請負者は同町出身現在神戸市に在って
大事業を経営しつつある土木請負業田中巌氏で
建物は5間半に11間、
外に付属建物2間に3間のもの1棟合計坪数66坪
全部鉄筋コンクリート造りで階上は公会堂に充て
40坪全部洋風で優に200人を収容し得られ高さ40尺
(以下略)


起工は大正14年8月、大正15年3月29日に竣工引き渡し、
総工費3万円、全部鉄筋コンクリート造りで2階を公会堂に充てているとあります。
請負は江津(嘉久志町)出身で神戸で田中建設を興した田中巌氏です。
平成14年の島根県近代化遺産総合調査報告書では田中岩雄とありますが、
どちらが正式なんでしょうか。 

t150415江津町役場t
山陰新聞(大正15年4月15日) 

「江津役場竣工式」
「春光に恵まれた十四日」「各種の余興に大賑い」
既報の如く江津町役場竣工式を
14日午前10時半から新庁舎会場に於て
(中略)
波多野助役工事報告についで飯田町長の式辞終わって
建築請負業者田中巌氏へ記念品を贈呈し
(後略)


大正15年4月14日には県、江津町をはじめとした関係者を集め、
役場に2階の公会堂にて竣工式が挙行されています。
前掲の記事にもありますが、竣工式の日は全町挙げてのお祭り騒ぎだったようです。


【設計者は?】
竣工式当時の新聞記事より、設計者の名前も明らかになるのではないかと期待しましたが、
記事には請負業者として田中巌氏が記されているだけでした。

ところで、かつて松江市天神町にあった「藤忠ビル」を記録した、
「さよなら、昭和のモダン建築」(藤忠ビルプロジェクト 平成14年)には、
この藤忠ビルの設計者である秋鹿隆一に関する詳細な資料が記されています。
その資料の中には昭和35年に建築事務所の登録を県に申請した際の登録申請書の写しがあって、
秋鹿隆一が手掛けてきた建物について記されている「業務概要書」がありました。
この業務概要書の中に、注文者が江津町長、建物の用途が「町役場」と記載されているのを見つけました。

素直にこの資料を読めば、秋鹿隆一が江津町役場を設計したと読めるのですが・・・。


上掲の資料の中で、江津の町役場の構造が「木造」とされている。
→当該旧江津町役場は鉄筋コンクリート造りである。


上掲の資料では期間は「詳細不詳」とあり、記載されている「町役場」が
大正15年竣工の役場とは限定できない。
→それ以前の町役場は民家を転用したものだったようなので、秋鹿隆一が関わった可能性は低いかもしれないが、
大正15年の新築以降に増築があったとすれば、その増築に関わったという事も言えるかもしれない。


江津町役場の起工は大正14年3月、この時期、秋鹿隆一は県の建築技師をやっている。
→建築事務所を立ち上げたのは大正15年9月1日なので、設計を手掛けたとなると県在職中ということになる。

何とも言えないというのが結論です。

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(川本にあった県立川本養蚕学校の絵葉書)

秋鹿隆一は大正14年に竣工した川本養蚕学校の建築に際して、
県の技師として建築監督に携わっていますので、
そういう意味では江津町役場が建設された時期に、
秋鹿隆一が江津周辺にかかわりがあったという事が言えると思います。

【江津町役場の絵葉書】
絵葉書
江津本町全景を写した絵葉書です。

絵葉書拡大
小さいですが江津町役場が確認できます。


【参考文献】
「中国地方の西洋館」 平成3年 白石直典
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会
「さよなら、昭和のモダン建築」 平成14年 藤忠ビルプロジェクト 
松陽新報記事
山陰新聞記事


  1. 2019/03/03(日) 22:38:40|
  2. 島根県の近代建築・江津市
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旧鹿足郡役所(津和野町後田口)その2

2
以前、津和野町の旧鹿足郡役所をご紹介しましたが、
この度、郡役所が竣工した際の新聞記事を見つけましたのでご紹介します。

t080519鹿足郡役所
(山陰新聞 大正8年5月19日付記事)

「郡庁舎移庁式」
15日鹿足郡庁舎新築移庁並びに津和野町役場移庁式は
新築郡庁舎事務室に於て挙行
(中略)
正午より郡会議事所に於て郡及び町合同の大祝宴会を開く
来会者三百五十余名非常の盛況なりし

当日は門司サクラビール製造元鈴木本店より
ビヤホールを郡庁舎庭園内に設け
ビール数百本を提供して一般に振舞いたり
又町内有志の発起せる懸賞付仮装行列あり

夜は手踊山車等を各町内より出し
殊に後田一丁目は懸賞付きにて電気装飾をなし
昼夜共に煙火を打ち揚げ景気を添えたり

殊に当日は太皷谷稲荷神社の祭日にて
近郷は素より遠く山口県広島県四国地方より参詣者頗る多く
当日の人出1万8千余にて盛況を極めたり

因みに鹿足郡庁舎は大正5年春工を起し
其の間物価騰貴に伴う材料暴騰の為め一時中止せるも
大正7年5月第二期工事を起し本年4月15日全く竣工を告げ
工費2万8千余円を費やせり
又津和野町役場は元大字森村に在りしも狭隘なるため
元郡庁舎を県より無償譲渡を受け内部を改造せるものなり


記事より、竣工・移転の記念式典は大正8年5月15日に開催されたことが分かります。
宴会にはサクラビールが数百本提供され、
町は仮装行列に花火と大変な賑いだったことがうかがえます。

起工は大正5年、物価高騰により工事が一時中断したとあります。
第一次世界大戦勃発によるいわゆる「大戦景気」の影響を受けたものでありましょう。
工事はその後、大正7年5月に再開され、大正8年4月15日に竣工とあります。
鹿足郡役所の建設には、中断も含め3年の時間がかかったことになります。

竣工式ではなく、移庁式典というのが興味深いところです。
元の郡役所の建物には津和野町役場が入居したとあります。
大正15年に郡役所が廃止され、この建物の用途は色々変わりますが、
戦後、めぐりめぐって津和野町役場が再び元郡役所に移転しています。
まさに歴史は繰り返すという言葉そのものでありましょう。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:鹿足郡役所
起工:大正5年
竣工:大正8年4月15日
工費:2万8千円余



  1. 2019/02/25(月) 21:41:52|
  2. 島根県の近代建築・石見地方
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