元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

山常楼(安来市安来町)

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胃腸炎がつらい・・・。
安来駅すぐ近く、国道9号線沿いに存在感を発揮する山常楼の建物です。

山常楼さんは江戸末期から続く歴史のある料亭です。
現在の建物は昭和9年に改築されたものとのことです。

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玄関部分。和風建築の様々なエッセンスがまじりあい、素敵な雰囲気です。

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大名屋敷の玄関のような雰囲気です。

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宝形屋根がよいアクセントになっています。

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平成26年12月に登録有形文化財になりました。
画像右に見える土蔵も文化財指定、大正年間の築とのことです。

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設計者などについてですが
山常楼HPでは
、「現在の建物は、昭和 9 年に改築され当時 26 歳だった池田大工により随所に意匠を凝らし、
贅を尽くした書院造りとして生まれ変わりました。」
とあります。

島根県立短期大学部が発行している「のんびり雲 第7号」では、
松江の山陰道産業や横田の相愛教会の設計者である成田光二郎の設計として、
この山常楼をあげています。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:山常楼
竣工:昭和9年(土蔵は大正年間)
構造:木造
設計者:成田光二郎?
施工者:池田某(大工)?

【撮影】
平成26年9月

【参考文献】
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会
「のんびり雲 第7号」 平成25年 島根県立大学短期大学部

【参考HP】
山常楼HP
島根県報道発表資料
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  1. 2017/02/18(土) 11:49:11|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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旧郷田郵便取扱所(江津市江津町)

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江津の「江津本町」は、かつては舟運で栄た町であり、
現在も当時の名残をとどめる豪壮な商家など石州瓦の古い町並みが残っています。

近代以降も、江津の中心としての地位を守り、
今回紹介する旧郷田郵便取扱所(旧江津郵便局)や
江津町役場などの近代建築も建てられ、現在に伝わっています。

冒頭の旧郵便局と町並み、駒繋石のある水路の組み合わせ画像は、
津和野の「鯉の泳ぐ水路+武家屋敷長屋」に匹敵する、
島根県に代表的な定番かつ「絵になる」風景であると思われます。

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旧郷田郵便取扱所の建物です。
明治20年頃の築とされています。

当時の郵便局長が神戸まで出かけ、洋館を見学した上で
地元の材木商豊田藤太郎氏に建築を依頼し、
依頼された豊田氏も神戸に洋館を見学してこの建物を建てたそうです。

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正面にテラスが張り出し、窓には鎧戸がついています。
角には石が積まれているように表現されていますが、
このコーナーストーンは漆喰に炭を混ぜて石のように見せているのだそうです。
神戸で見てきたものを、見よう見まねで再現した、まさに擬洋風建築の典型でありましょう。

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郵便局としての使用期間は明治28年頃までと短かったようで、
その後は民家として使用され、近年は空き家となっていました。

平成20年に復元工事がなされ、ペンキ塗りの創建当初の外観に復元、
翌平成21年には国の登録有形文化財に指定されています。

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こちらは改修前、平成15年の姿です。
長年の風雪に耐えた姿も味わい深いものがありました。

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改修前の姿をみると、だいぶ傷んでいることも分かり、
建物保存の上では早期の改修が良かったのだと思います。
きれいすぎて町並みから浮いているきらいがありますが、
時間が経てば色合いも落ち着き、なじんでくるのでしょうか。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:郷田郵便取扱所(江津郵便局)
竣工:明治20年頃
構造:木造
設計者:豊田藤太郎
施工者:豊田藤太郎

【撮影】 
平成15年9月(改修前)
平成26年4月(改修後)

【参考文献・HP】
中国地方の西洋館 平成3年 白石直典
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会
石見潟第25号 平成21年 江津市文化財研究会





  1. 2017/02/12(日) 10:47:05|
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安来節紀念碑(安来市安来町)

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安来市の安来公園に立つ「安来節紀念碑」は、
安来節の隆興を記念した記念碑で、昭和7年5月に竣工、
同月15日に除幕式を行っています。
近代建築の一つとしてよいのではないかと思われます

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正面には「安来節紀念碑」の文字が金属板で設置されています。

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鉾のようにも見える塔頂部の装飾。

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側面の碑の由来文、賛同者の氏名などのプレートが残されています。
あまり解像度の高い画像がなく、詳細が確認できません。
(失敗!取り直しに行かなくては。)

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(昭和7年5月14日付松陽新報)

当時の新聞記事です。

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新聞記事と現在の紀念碑との比較です。
塔頂部の装飾、「安来節紀念碑」の銘板など、
オリジナルと同じままの姿に見えます。

金属製と思われますが戦時中に供出しなかったのでしょうか、
あるいは戦後の復元なのでしょうか。

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(昭和6年8月6日付松陽新報)

竣工の1年前の松陽新報に、このような記事を見つけました。

「盆過から愈よ起工」
「社日遊園安来節の歌碑」
安来節保存会では予て社日遊園地に記念碑の建築を行うべく
曩に桜花の咲き競った四月、これが地鎮祭を挙行したがその後同会では
町出身の東京在住僊石政太郎氏委嘱してこれが装飾一切を設計せしめ
遅くも盆の直後から建設工事に着手する事となっているので、
遅くも今秋頃までには工事の完成を見ることとなろう


「僊石政太郎氏に委嘱してこれが装飾一切を設計せしめ」
という一文に注目です。
僊石政太郎は、戦前に劇場・映画館建築の設計を中心に活躍した建築家で、
日本橋浜町の「明治座(S3年)」などの設計で知られています。
詳細は下記にしますが、僊石政太郎は安来の出身で、
安来にて大工の棟梁となった後、東京に出て、
苦学ののち建築家として大成した人です。

「装飾一切を設計せしめ」とあり、紀年碑全体の設計ではなく、
装飾だけの設計のようにも読めますが、いずれにしても、
紀念碑の設計に僊石政太郎が関わっていたことは確かのようです。

僊石政太郎は多くの劇場建築を設計していましたが、
現存例は(ブログ主は)確認できておらず、
出身地である安来に設計に関わった紀念碑が現存しているのは、
大変貴重な存在と言えるのではないでしょうか。


【僊石政太郎について】
僊石政太郎の生涯については、安来市誌下巻にその詳細が記されています。
簡単に抜粋してみました。

明治12年 安来西灘に生まれる
大工棟梁河井栄八(河井寛次郎の父)に師事し18歳で棟梁になる
明治36年 25歳で単身東京に出る
新橋木工場で働きながら工手学校に通う
工手学校卒業後警視庁に奉職
大正9年 警視庁を退職、僊石建築事務所を開設
昭和19年11月 空襲にて事務所破壊
昭和19年12月 安来へ疎開
昭和20年8月  67歳で死去

「映画館建築のエキスパート」(帝都復興せり!)として活躍した建築家ですが、
警視庁では劇場の建築、設備に関する方面の監督にあたっていたそうですから、
ここから、劇場・映画館建築の設計を手掛けるようになったものと思われます。

仕事をしながら、工手学校の外、国民英語学校中等科、中央工学校高等科を卒業し、
日本建築学会の正会員資格試験に合格して建築士の称号と技師の資格を得ています。

大工の棟梁で満足せず苦学して建築家となり、
帝大出の建築家たちと肩を並べるまでになったその人生、
信念の人、気骨の人だったのでありましょう。


僊石政太郎の設計した作品を、さまざまの文献などから集めてみました。
ほとんど東京の、主だったものだけですが、
各地の松竹系の劇場を手掛けたそうですので、
まだまだ人知れず現存する建物もあるやもしれません。

大正13年 立正大学校舎
大正15年 立正大学図書館
昭和2年 富士館(浅草)
昭和3年 明治座(日本橋浜町)
昭和4年 新宿第一劇場(新宿)・帝国館(浅草)
昭和5年 東京劇場(設計顧問)
昭和6年 帝都座(新宿)・日本倶楽部(大阪)
昭和7年 安来節紀念碑(安来)



【撮影】
平成15年12月

【参考文献】
近代建築ガイドブック(関東編) 昭和57年 東京建築探偵団 
帝都復興せり!「建築の東京」を歩く 昭和63年 松葉一清
島根歴史人物事典 平成9年 山陰中央新報社
安来市誌下巻 平成11年 安来市総務部市誌編纂室
立正大古書資料館通信Vol.2 平成27年 立正大学情報メディアセンター

【参考サイト】
建築学会図書館「建築学会パンフレット」
ぼくの近代建築コレクション
Clocks&Clouds
近代建築散歩~絵葉書に見る或る日の都市景~



  1. 2017/02/05(日) 23:34:40|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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旧制松江高等学校外国人官舎(島根大学旧奥谷宿舎)その2

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以前ご紹介した旧制松江高等学校(淞高)の外国人官舎は、
大正13年の建築で、当初は独語講師用(1号官舎)・英語講師用(2号官舎)と、
二棟の官舎が双子のように並んでいたとのことです。

建築当時の新聞記事などが残っていないか調べようと思ったのですが、
国会図書館に所蔵している松陽新報、山陰新聞は、
なぜか大正期の分がごっそり抜け落ちており、
調べようがないことがわかりました。残念。

代わりにと言っては何ですが、
昭和12年、火災で英語講師用官舎が焼失した際の記事を確認してみました。

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(松陽新報昭和12年3月30日付)

「市民の火の用心」
「奥谷火事に鑑みて松江署が一層喚起する」
例年春先になると一家不在中における火事騒ぎが頻出するので
松江署ではかねてより一般市民に対し火気には一段の注意を喚起していた矢先、
二十八日午後奥谷町高校教師ウッドマン氏の留守宅の風呂場の火の不始末から
同家を全焼するに至ったが消防組の活動によって鎮火し隣家への類焼を逃れたが
もし発見が遅かったのと烈風の際は相当の大事に至ることは当然とみられるが、
同署では今後こうした火災を未然に防止すべく一般市民に対し火の用心について
一層の注意を喚起することとなった


高等学校の官舎が焼けたという事件なのでもう少し大きな記事になるかと思いましたが、
火事への注意喚起と絡めたあっさりとした内容となっていました。

近火見舞
(松陽新報昭和12年3月30日付)

上記記事の下欄にには、関係者の近火見舞いの名刺広告が掲載されていました。
高校の事務方が手配をしたのか、新聞社で定型文を用意していたのか、
外国人名と候文の組み合わせが何とも言えない雰囲気をかもしだしています。

名刺広告にある「カルシュ」、「ウッドマン」は、それぞれ下記の通りです。

カルシュ:ヘルマン・フリッツ・カルシュ(独語講師 淞高在籍T14~S14)
ウッドマン:ハロルド・ジョンソン・ウッドマン(英語講師 淞高在籍S7~S17)


【参考文献】
嵩のふもとに・・旧制松江高等学校史 平成2年 旧制松江高等学校同窓会
島根大学HP



  1. 2017/01/22(日) 22:42:35|
  2. 島根県の近代建築・松江市
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島根県内における農業倉庫の型式の分布

島根県内には、戦前から戦後にかけて産業組合や農協によって建設された倉庫(以下農業倉庫)が複数残されています。
特に戦前に建設された(と思われるものも含む)倉庫はいわゆる「土蔵」の型式がとられています。

この「土蔵」ですが、島根県内の土蔵は、本体の上に木組みをして屋根を別に置いている、
「置き屋根」式の土蔵が出雲地域を中心に目立ちます。
農業倉庫における「土蔵」でも、この「置き屋根」の型式をとっているものが多いように思われるのですが、
石見方面では「置き屋根」式ではない土蔵※の農業倉庫もいくつか見かけています。

島根県内の農業倉庫において、置き屋根式の土蔵と、
そうでない土蔵とはどのような分布の傾向があるのか、調べてみることにしました。

※ここでいう「『置き屋根』式ではない土蔵」とは、関東の一部でみられる、
鬼瓦を盛った装飾性の強い土蔵ではなく、一般的に西日本エリアに見られる塗屋造りに近い、
軒まで漆喰で塗られた土蔵のことを指します(一般的になんていうかわかりません)。

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「置き屋根」式土蔵の一例(飯南町赤名)

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置き屋根ではない「土蔵」の一例(邑南町井原)

土蔵サンプルの抽出は、下記のとおり行いました。
①ブログ主が現地で確認したもの
②グーグルストリートビューで確認したもの
③絵葉書等の資料で確認したもの
④戦前の松陽新報の記事で確認したもの

上記の方法で抽出した土蔵は下表のとおりです。
図1614

更にこれを、白地図にプロットしてみました。
分布図614
(白地図は、テクノコ様のものを使用)

かなりサンプルを集めたつもりですが、地図に落としてみると寂しい状況になってしまいました。
「置き屋根土蔵」を赤丸、置き屋根ではない土蔵を黄丸としています。

サンプルが少ないので、確実なことは言えませんが、
出雲地方には黄丸がなく、大田市以西、すなわち石見地方では、
黄丸と赤丸とが混在することが図から見て取ることが出来ると思います。
では、なぜ石見地方では混在するのか(あるいはその逆で出雲地方尾では置き屋根だけなのか)、
という理由が知りたくなってきます。

いずれにしてもサンプル数が少ないので、「こうだ」ということは確定できず、
あくまでも「傾向があるかもしれない」としか言えません。
もう少しサンプルを増やして傾向を見るという作業が必要なようであります。

(まとめ)
島根県内の戦前築の農業倉庫の形態は、出雲地方では置き屋根式の土蔵が中心であるが、
石見地方では通常の土蔵形式の様態が混在する。と、言えるかもしれない。

  1. 2017/01/15(日) 11:46:34|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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国道54号沿線に残る戦前の橋【その12・坂本橋】

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坂本橋は正確には国道54号に架かる橋ではありません。
三刀屋町乙加宮で54号線から分かれて三刀屋町中野方面へ向かう、
県道51号線(出雲奥出雲線)の橋です。
が、54号線から10mも離れていないところにありますので、
本カテゴリにてご紹介するものであります。

画像で橋の向こう、軽自動車が走っているところが54号線、
右手の小屋は「坂本橋」バス停の待合室です。
坂本橋の停留所名は省営雲芸線時代にもその名があり、
相当歴史の古いバス停と言えましょう。

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(参謀本部S7「木次」より)

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(国土地理院ウオッチ図より)

新旧地図の対比と前回ご紹介した船津橋との位置関係を示します。

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坂本橋の親柱です。
コンクリート成型されたと思われる、シンプルなデザインです。

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54号線シリーズには珍しく、橋名板が新調されています。
現地で昭和11年竣工ということが分かりました。

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(昭和11年10月16日付松陽新報より)

当時の新聞に渡り初めの記事が出ていました。
写真は上流側から現在の国道54号方向を写したものと思われますが、
橋の上には大勢の人がおり、なかなか盛大な式典だったようです。
欄干には縦格子が入っていることが確認できるほか、
川面に目を転ずれば、旧橋のものと思われる、
3本の橋脚らしきものが写り込んでいるように見えます。

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現在の欄干には横に2本鉄棒が入っています。
他の橋と同様、オリジナルの金目のものは戦時中に供出され、
戦後改めて復旧されたものと思われます。

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春の雨に濡れる坂本橋。
親柱と欄干はクリーム色に塗りなおされており、
反射板もあちこちに貼り付けられ、
現役の県道橋らしくしっかり整備されている様子です。

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安定の桁橋です。
1本くらいRCアーチの橋などがあったら楽しいのですが、島根県内は桁橋ばかりです。

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坂本橋バス停側からの画像。
当面は現役でいてくれそうな雰囲気の坂本橋でした。

【橋の諸元】
橋名:坂本橋
竣工:昭和11年10月
型式:RC桁橋
所在地:雲南市三刀屋町乙加宮/三刀屋町坂本
川:三刀屋川
道路:県道51号(出雲仁多線)

【撮影】
平成26年4月




  1. 2017/01/14(土) 16:14:58|
  2. 国道54号線の古い橋
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千住神社神輿倉(足立区千住宮元町)

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千住神社はその創建が平安時代までさかのぼることのできる、

足立区でも最も歴史のある神社の一つです。

歴史の古い神社ですが、昭和204月の空襲により、

本殿をはじめとして神社の主要な建物は悉く灰燼に帰しました。

しかし、一棟だけ焼け残った建物があるのです。

そう、これからご紹介する神輿倉です。。。


1

ということで千住神社の神輿倉です。

昭和5年築としているサイトがありました。


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国土地理院webより

 

国土地理院のサイトより、昭和22年に米軍が撮影した航空写真を確認してみました。

千住神社をはじめとして千住宮元町周辺はほとんど焼野原のままですが、

赤丸の中、神輿倉が焼け残っていることが確認できます。


3 

社務所側から。


4 

同じく社務所側から。

裏側には開口部がありません。


5 

神輿倉を囲むコンクリート塀には丸い痕跡が残っています。

かつては金属製の装飾などがはめ込まれていたのかもしれません。


7 

通気口。ちょっとおしゃれな感じです。

8 

以上、千住神社神輿倉の紹介でした。

この神輿倉のおかげで、江戸時代に作られた神輿が空襲から守られ、

今もお祭りで担がれているわけであります。

 

【撮影】

平成266

平成291





  1. 2017/01/04(水) 22:04:42|
  2. 島根県以外の近代建築
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大宮聖愛教会(さいたま市大宮区)

1
大宮駅西口にこのような教会がありました。

2 
大宮聖愛教会という教会です。
教会のHPによると、昭和9年築、大宮で初めての鉄筋コンクリート建築だそうです。

3 
教会の壁にツタの枝が絡まっておりますので、
夏場はモジャモジャでしょう。観察をするのは冬場がよさそうです。

4 
玄関部分。

そごうなど大きな建物が多い大宮駅の西口に、
このような貴重な近代建築が残っているとは知りませんでした。

【撮影】
平成28年12月





  1. 2016/12/25(日) 21:50:52|
  2. 島根県以外の近代建築
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隠岐中山隧道周辺の道路の変遷について

前回まで初代中山隧道二代目中山隧道と、
二世代のトンネルについてご紹介しました。
 
この回では中山隧道にまつわるルートの変遷について、
古地図等を用いて整理しておきたいと思います。


その1DSCF0047 

旧西郷町側から見た五箇トンネルです。

手前右の坂道は初代・二代目中山隧道に通じる旧道です。

 

 

【初代中山隧道ができるまでの道路はどこを通っていたのか?】

 

明治28年に車道である「北方道」が全通していますが、

それ以前はどのルートを道が通っていたのでしょうか?

 

「中山」隧道というくらいですから、

「中山峠」なる古道があるものと思っておりましたが、

現在の地図にそのような峠は記されていません。

 

文献を当たったところ、五箇村誌(昭和63年)に、

五箇村地域の古道に関する記述がありました。

下記に引用いたします。

 

「小路の作業道」

1.中山街道

永田屋前*から上って又谷口を経て焼杉峠を越し、

上の**都万目出合に至る(西郷に出る幹線道路)。

 

*小路地区の屋号と考えられます

**「上の」とあるのは、この文章の上にある

西郷町都万目地区に至る古道に関する記述にかかります

 

この五箇村誌、固有名詞の説明も、前後の歴史との関連の説明もなく、

唐突に古道の記述がなされていて、断片的にしか情報が入ってこず、

甚だ不完全な内容ではありますが、

「中山街道」と称される古道があって、「焼杉峠」という峠を越えて、

西郷の都万目へ通じていたことは何となくわかりました。


その2明治12年 

次に国会図書館で見つけた、

明治12年の「島根県下隠岐全図」という地図です。

北方道は明治28年に開通していますから、

それ以前の道の様子が記載されているはずです。


その3隠岐国全図角度補正(中山越周辺原図) 

中山隧道周辺部分を抜粋してみました。

等高線ではなく現在の地図とはだいぶ様相が異なります。

画像中央下寄りに「中山越」の文字が確認できます。

(五箇村誌の「焼杉峠」は??)


その4隠岐国全図角度補正(中山越周辺) 

地図にルートを書き込んでみました。

赤い線が12年地図で記されている「北方道」以前の「中山街道?」です。

後に開鑿される「北方道」を黄色で書き込んでみました。

こうして新旧の道路を比べてみますと、

もとの中山の峠は、中山隧道よりも東にあったことが分かります。

中山街道に比べると「北方道」は西に迂回していますが、

これは車を通せるような勾配の道路を通すための選択だったのでありましょう。

「中山越」周辺以外は、ほぼ現在の国道と同じルートである事が分かります。

 

それにしても中山隧道の「中山」は「中山越」からとられたのでしょうけれども、

全然場所が違うというのは意外な感じがしました。

あるいは、西郷と五箇を隔てる一連の山並みを総称して、

「中山」と称していたのかもしれません。

 

【中山街道以降の変遷】


その5昭和10年初代 

(陸地測量部 昭和9年1/50000「北方」・「西郷」より)

 

その後の明治36年、昭和9年に陸地測量部が作成した5万分の1地図では、

中山街道のルートは破線にて記されています。

 

その6昭和9年中山 

上記の地図上、中山街道のルートを赤線、北方道のルートを黄線で記しました。

二代目中山隧道は昭和11年開通ですので、

地図上のトンネルは初代の中山隧道ということになります。


その85隠岐北方S46t 

(国土地理院 昭和46年1/2500「北方」より)

 

時代はぐっと下がって昭和46年の1/2500の地図です。

(昭和9年から昭和46年の間の地図は見つけることは出来ませんでした。)

 

五箇側の中山街道は小路の集落から南へ、峠の手前までは道が記されていますが、

西郷側は道の表記がなくなっています。


その7隠岐北方S46(中山周辺) 

上記の地図上、中山街道のルートを赤線、北方道のルートを黄線、

二代目中山隧道のルートを水色線で記してみました。

 

昭和46年の地図では初代中山隧道も記載がありませんが、

初代がいつ頃に使われなくなったのかは、結局わかりませんでした。


その8国土地理院 

(国土地理院WEBより)

そして現在の中山隧道周辺です。

昭和59年の五箇トンネル開通により、

二代目中山隧道のルートも廃道となってしまいました。


その9現在の中山トンネル付近地図 

 さらにトンネル周辺を拡大してみます。

元の中山越の地点には、現在は尾根伝いに林道が通っており、

おそらく峠道跡は分断されているものと思います。

 

【現在の旧道の状況】

以下に、五箇トンネル開通までに旧道、廃道となった道路についてまとめます。

 

(中山街道)

西郷側は地図上の記載はありません。

15年ほど前、ブログ主が地質調査でこの地域を歩いた際には、

尾根伝いに広めの山道があったような記憶があり、

これが中山街道の跡だったのかもしれません。

五箇側は上述の通り、小路の集落からしばらくの距離が林道として現存しています。

林道の終点から中山越に至る迄の部分に、

道の跡が残っているのかどうかは確認できていません。

 

(初代中山隧道)

西郷側は、二代目中山隧道手前の擁壁の上に道の痕跡が残されています。

五箇側は、林道により削られつつも、

道の痕跡が二代目中山隧道手前から残されています。

 

(二代目中山隧道)

西郷側は廃道になっていますが道は残っています。

五箇側は林道への連絡路として現役です。

 

 

【まとめ】

以上のことから、北方道以前の「中山街道」は、

中山隧道より東のルートを通っていたことが分かりました。

「中山越」周辺に中山街道の痕跡が残っているかどうか、

という点については、今後の実地調査の必要があります。

 



【参考文献】

・隠岐島誌 昭和8年 隠岐支庁

・五箇村誌 平成元年 安部勝




  1. 2016/12/18(日) 23:29:00|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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一畑電鉄の貨車ト60

CIMG5652.jpg

真岡鉄道の真岡駅に一畑電鉄の貨車が保存されています。
 
Wikipedia他の資料によれば、
もともとは大社宮島鉄道(後の一畑電鉄立久恵線)で使用されていたそうです。
昭和10年に日本車両で製造され、大社宮島鉄道で使用されていましたが、
昭和40年に立久恵線が廃止になってから北松江線に転属し、
平成23年頃までバラスト散布などに使用されていました。
 
なぜ真岡に?と思ったのですが、平成23年に一畑電鉄が競売を行って
これをジェイアール貨物・北陸ロジスティクスが落札して整備したところ、
真岡鉄道が購入したもののようです。
一畑で一緒に働いていた同形式のト61も一緒に落札されましたが、
こちらはまだ伏木で販売中の模様であります(欲しい!)。
 
大社宮島鉄道由来の車両となりますと、
米子で保存されているハフ21がありますが、
これは鉄道省からの払い下げですので、
純粋な大社宮島鉄道の車両として現存しているのは、
このト60と伏木で保管されているト612両だけと思われます。
 
【参考文献】
特別展 一畑電車百年ものがたり 平成22年 島根県立古代出雲歴史博物館









  1. 2016/11/23(水) 20:22:07|
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