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元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

御岳登山鉄道瀧本駅(青梅市御岳)

CIMG8684.jpg
奥多摩の御岳山を目指す際、玄関口となるのが御岳ケーブルカーの瀧本駅駅です。
ご覧のように柱を露出させた山小屋風が印象的な駅舎であります。

かなり歴史のある駅舎のようにお見受けします。
ウィキペディアによれば御岳ケーブルの開業は昭和9年、
戦時中の休止期間を経て昭和26年に運転が再開されています。
現在の駅舎が戦前に建てられたものなのか、戦後の運行再開の折に再建されたものなのか、
御岳ケーブルの古い写真というものがなかなか見つからず確証を得られなかったのですが、
ヤフーオークションで御岳ケーブルの古絵葉書を発見し落札することができました。

img138t
いかがなものでしょうか、飾り気のない駅の雰囲気や写っている人物の服装などから、
昭和9年の開業時に近い時期に撮影されたものと推察されます。

CIMG8673.jpg
現在の瀧本駅の姿です。絵葉書と比べてみますと、1階部分は増築がなされていますが、
建物自体は戦前の姿のままという事が確認できると思います。

拡大1
絵葉書に写っているホーム、上屋の部分を拡大してみました。
この辺りの構造物は現在も原形を保っているように思われます。

拡大2
駅舎部分の拡大。1階部分は板張り、2階部分は柱を露出させたハーフティンバー風です。

CIMG8700.jpg
ホームから観察する駅舎2階部分。
建具は更新されていますが、ほぼ原形を保っています。

以上、御岳ケーブル瀧本駅のご紹介でした。
絵葉書により、現存する駅舎は昭和9年の開業当時に建てられたか、
少なくとも戦前のうちに建てられた近代建築であるということが分かりました。

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  1. 2019/04/16(火) 22:15:10|
  2. 島根県以外の近代建築
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日立金属厚生館(安来市安来町)

1
安来市旧市街の町並みに佇む立派な料亭建築、「日立金属厚生館」の建物です。

2
「島根県の近代化遺産」によれば昭和元年築、もとは料亭「ひさご家」として建てられたものだそうで、
このひさご家は現在も盛業中の山常楼とともに、安来を代表する料亭だったそうです。

「安来散歩」によれば、戦時中に日立金属の「厚生館」となり、
勤労学徒の宿舎、女学生の寮などとして使われた後、
戦後の一時期は安来の公会堂として利用された事もあったそうです。

3
増築が繰り返されているのか、複雑な造りをしています。

4
裏手には三階建ての部分も。どのような用途だったのでしょうか、登ってみたくなる建物ですね。

6_20190324203753085.jpg
裏手にも玄関があります。こちらは従業員用の出入り口なのか、別館的な存在なのか。

5
玄関棟の奥に見える二階建入母屋の建物も気になります。

7_20190324203755355.jpg
前述の「安来散歩」によれば、
『身延山の久遠寺の橋を模したという朱塗欄干の太鼓橋を渡ると、百三十三敷の大広間がある』とあります。
内部は公開されていませんが、大広間につながる朱塗欄干の太鼓橋、見てみたいです。

8_2019032420375627b.jpg
山常楼とともに、戦前の安来の繁栄を偲ばせる、貴重な建物です。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:ひさご家
竣工:昭和元年
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【撮影】
平成26年9月

【参考文献】
「安来散歩」 平成8年 「安来散歩」刊行委員会 
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会


  1. 2019/03/24(日) 21:46:03|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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川本の旅舎(川本町)

1_201903241002184a3.jpg
川本町は江の川流域で最も栄えた町の一つで市街地も比較的規模が大きく、古い町並みが残っています。
そんな川本の町でひときわ目立つのが、バス通りに面して大木が天を衝くお屋敷です。

2
前も拙ブログでご紹介したこのお屋敷、川本の有力者の屋敷なのかなと勝手に想像していたのですが、
建てられた当初は旅館として建てられたものだったようです。

3
(国会図書館デジタルコレクション 『民家図集第三輯島根県』より一部転載)

国会図書館のデジタルコレクションに所蔵されている「民家図集第三輯島根県」という資料に、
「川本町 旅舎」というタイトルでこの建物が掲載されているのを見つけました。
キャプションを抜粋しますと下記の通りです。

「島根県邑智郡 川本町旅舎」
下の写真は、大森の南方七里江川のほとり川本町にある一旅舎である。
ここは大森ほどの由緒を持たぬ町であるが
近村の農産殊に繭の集散地として石州中央の枢要区である。
この旅舎は30年前の建築で、町では一流といわれ、
地方色をうかがうに足りる家構えである。


「旅舎」とはすなわち「旅館」という事で良いのではないかと思います。
この本の刊行が昭和5年、キャプションに30年前に建てられたとありますから、
おおよそ明治33年ごろに建てられたものと思われます。
明治33年というと、鉄道唱歌が刊行されたり義和団事件が発生したり、そんな昔です。
その頃に建てられた建物が残っていると考えると、とても貴重なものに感じますよね。

4
町の中心にある旅館ですと、通りに面して建物を置く場合が多いように思いますが、
この旅館では母屋を後退させ、立派な門を据えて前庭をおくという余裕をみせていることから、
キャプションにあるように川本町随一の旅館だったことがうかがえます。

5日
塀が真壁造りから板張りに変わっていますが、そのほかはあまり変化がありません。

img237.jpg
「川本新町通」とキャプションがあるこの絵葉書、よく見ると、右側に当該旅館の塀が写っています。

現在でも川本町は今も県の合同庁舎が所在するなど、
邑智郡部では中心的な位置づけにある大きな町ですが、
この本が刊行された昭和5年当時は繭の集散地として大いに栄えていたようです。
この旅館も近郷遠方からの商談客の宿泊や接待で大いに賑わっていたのでありましょう。

図2
絵葉書の風景と同じ場所の現在の姿。Google様より転載しました。

以上、川本町のお屋敷は明治33年頃に建てられた旅館だったというご報告でした。

【参考文献】
「民家図集第三輯島根県」 昭和5年 緑草会 編



  1. 2019/03/24(日) 10:59:37|
  2. 島根県の近代建築・石見地方
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旧江津町役場(江津市江津町)その2

CIMG0378.jpg
すでにご紹介している旧江津町役場ですが、竣工当時の新聞記事など確認しましたのでご紹介します。

【当時の新聞記事より】
t150413役場庁舎の竣工式で江津の大賑いt
山陰新聞(大正15年4月13日)

「江津の大賑い」
「役場庁舎の竣工式で四日間は乱舞の巷」
江津町役場竣工式は既報の如く
来る14日午前10時半から新庁舎階上の
公会堂に於て盛大に挙行の筈であるが、
総工費三万円を要し昨年8月起工し
本年3月29日竣工引き渡しを了したもので
請負者は同町出身現在神戸市に在って
大事業を経営しつつある土木請負業田中巌氏で
建物は5間半に11間、
外に付属建物2間に3間のもの1棟合計坪数66坪
全部鉄筋コンクリート造りで階上は公会堂に充て
40坪全部洋風で優に200人を収容し得られ高さ40尺
(以下略)


起工は大正14年8月、大正15年3月29日に竣工引き渡し、
総工費3万円、全部鉄筋コンクリート造りで2階を公会堂に充てているとあります。
請負は江津(嘉久志町)出身で神戸で田中建設を興した田中巌氏です。
平成14年の島根県近代化遺産総合調査報告書では田中岩雄とありますが、
どちらが正式なんでしょうか。 

t150415江津町役場t
山陰新聞(大正15年4月15日) 

「江津役場竣工式」
「春光に恵まれた十四日」「各種の余興に大賑い」
既報の如く江津町役場竣工式を
14日午前10時半から新庁舎会場に於て
(中略)
波多野助役工事報告についで飯田町長の式辞終わって
建築請負業者田中巌氏へ記念品を贈呈し
(後略)


大正15年4月14日には県、江津町をはじめとした関係者を集め、
役場に2階の公会堂にて竣工式が挙行されています。
前掲の記事にもありますが、竣工式の日は全町挙げてのお祭り騒ぎだったようです。


【設計者は?】
竣工式当時の新聞記事より、設計者の名前も明らかになるのではないかと期待しましたが、
記事には請負業者として田中巌氏が記されているだけでした。

ところで、かつて松江市天神町にあった「藤忠ビル」を記録した、
「さよなら、昭和のモダン建築」(藤忠ビルプロジェクト 平成14年)には、
この藤忠ビルの設計者である秋鹿隆一に関する詳細な資料が記されています。
その資料の中には昭和35年に建築事務所の登録を県に申請した際の登録申請書の写しがあって、
秋鹿隆一が手掛けてきた建物について記されている「業務概要書」がありました。
この業務概要書の中に、注文者が江津町長、建物の用途が「町役場」と記載されているのを見つけました。

素直にこの資料を読めば、秋鹿隆一が江津町役場を設計したと読めるのですが・・・。


上掲の資料の中で、江津の町役場の構造が「木造」とされている。
→当該旧江津町役場は鉄筋コンクリート造りである。


上掲の資料では期間は「詳細不詳」とあり、記載されている「町役場」が
大正15年竣工の役場とは限定できない。
→それ以前の町役場は民家を転用したものだったようなので、秋鹿隆一が関わった可能性は低いかもしれないが、
大正15年の新築以降に増築があったとすれば、その増築に関わったという事も言えるかもしれない。


江津町役場の起工は大正14年3月、この時期、秋鹿隆一は県の建築技師をやっている。
→建築事務所を立ち上げたのは大正15年9月1日なので、設計を手掛けたとなると県在職中ということになる。

何とも言えないというのが結論です。

img433t
(川本にあった県立川本養蚕学校の絵葉書)

秋鹿隆一は大正14年に竣工した川本養蚕学校の建築に際して、
県の技師として建築監督に携わっていますので、
そういう意味では江津町役場が建設された時期に、
秋鹿隆一が江津周辺にかかわりがあったという事が言えると思います。

【江津町役場の絵葉書】
絵葉書
江津本町全景を写した絵葉書です。

絵葉書拡大
小さいですが江津町役場が確認できます。


【参考文献】
「中国地方の西洋館」 平成3年 白石直典
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会
「さよなら、昭和のモダン建築」 平成14年 藤忠ビルプロジェクト 
松陽新報記事
山陰新聞記事


  1. 2019/03/03(日) 22:38:40|
  2. 島根県の近代建築・江津市
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旧鹿足郡役所(津和野町後田口)その2

2
以前、津和野町の旧鹿足郡役所をご紹介しましたが、
この度、郡役所が竣工した際の新聞記事を見つけましたのでご紹介します。

t080519鹿足郡役所
(山陰新聞 大正8年5月19日付記事)

「郡庁舎移庁式」
15日鹿足郡庁舎新築移庁並びに津和野町役場移庁式は
新築郡庁舎事務室に於て挙行
(中略)
正午より郡会議事所に於て郡及び町合同の大祝宴会を開く
来会者三百五十余名非常の盛況なりし

当日は門司サクラビール製造元鈴木本店より
ビヤホールを郡庁舎庭園内に設け
ビール数百本を提供して一般に振舞いたり
又町内有志の発起せる懸賞付仮装行列あり

夜は手踊山車等を各町内より出し
殊に後田一丁目は懸賞付きにて電気装飾をなし
昼夜共に煙火を打ち揚げ景気を添えたり

殊に当日は太皷谷稲荷神社の祭日にて
近郷は素より遠く山口県広島県四国地方より参詣者頗る多く
当日の人出1万8千余にて盛況を極めたり

因みに鹿足郡庁舎は大正5年春工を起し
其の間物価騰貴に伴う材料暴騰の為め一時中止せるも
大正7年5月第二期工事を起し本年4月15日全く竣工を告げ
工費2万8千余円を費やせり
又津和野町役場は元大字森村に在りしも狭隘なるため
元郡庁舎を県より無償譲渡を受け内部を改造せるものなり


記事より、竣工・移転の記念式典は大正8年5月15日に開催されたことが分かります。
宴会にはサクラビールが数百本提供され、
町は仮装行列に花火と大変な賑いだったことがうかがえます。

起工は大正5年、物価高騰により工事が一時中断したとあります。
第一次世界大戦勃発によるいわゆる「大戦景気」の影響を受けたものでありましょう。
工事はその後、大正7年5月に再開され、大正8年4月15日に竣工とあります。
鹿足郡役所の建設には、中断も含め3年の時間がかかったことになります。

竣工式ではなく、移庁式典というのが興味深いところです。
元の郡役所の建物には津和野町役場が入居したとあります。
大正15年に郡役所が廃止され、この建物の用途は色々変わりますが、
戦後、めぐりめぐって津和野町役場が再び元郡役所に移転しています。
まさに歴史は繰り返すという言葉そのものでありましょう。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:鹿足郡役所
起工:大正5年
竣工:大正8年4月15日
工費:2万8千円余



  1. 2019/02/25(月) 21:41:52|
  2. 島根県の近代建築・石見地方
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「島根県の近代和風建築」を読んで

島根県教育委員会が実施した、島根県内の近代和風建築の調査について、
調査結果が「島根県の近代和風建築」という本にまとめられたので
国会図書館まで行って読んできました。

報告書の中では、何軒かの近代建築の調査結果が掲載されており、
建築年や施工者など、新たに判明した事実もありましたので、下記に簡単にまとめておきます。

旧坪内医院
tubouti.jpg
平成14年の「島根県の近代化遺産」では、築年を大正末としていましたが、
「島根県の近代和風建築」では、棟札より、昭和7年の築であることが分かりました。
施工は来海久義という人です。地元の大工さんでしょうか。

旧美又信用購買販売組合
美又
石見エリアでもかなりの大物物件である美又信用購買販売組合の建物。
あまり情報が無かったのですが、「島根県の近代和風建築」で調査が入りました。

竣工:昭和12年2月11日
施工:柳原寅市

施工した柳原寅市は地元の大工の棟梁だった方のようで、
当時の新聞などから、今福小学校(S3)、今福村役場(S8)などの建設にも携わっていたことがわかっています。

市山興業銀行
市山
これまで拙ブログでも明治44年築としていた市山興業銀行の建物ですが、
桜江町誌に「大正8年に行舎を新築移転」と記載があるとのことでした。
よって、建築年は大正8年、施工したのは和田重三という方だそうです。



  1. 2019/02/17(日) 16:23:35|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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横田相愛教会(仁多郡奥出雲町横田)

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奥出雲といえば神話の故郷として知られた地域ですが、横田町には教会建築が残されています。

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横田相愛教会は大正12年、地元の名士であり敬虔なキリスト教徒であった
岡崎喜一郎氏が私財を投じて建設されたものです。
当時の教会名は「救世軍横田小隊会館」でした。

設計は松江の「山陰道産業」の設計で知られる成田光二郎、施工は内田武之助です。
昭和14年以降、昭和52年まで横田郵便局として使用された後、
横田相愛教会として本来の用途に戻り現在に至ります。

3_20190106221942013.jpg
平成8年には国の登録有形文化財に指定されています。

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救世軍横田小隊時代の絵葉書です。
鎧戸が痛んでいたり、屋根の塗装も一部剥げている様子ですから、完成直後の撮影ではなさそうです。

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アーチの玄関。

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側面。

7 140619横田大火罹災図(松陽新報)t
(昭和14年6月19日付松陽新報記事に加筆)
昭和14年6月17日、横田の中心部は大火によって焼失しましたが、
火は教会の手前でとまり、この教会は焼失を逃れています。
上掲は当時の松陽新報に掲載されていた罹災図です。
新聞記事赤矢印の部分が教会で、ギリギリのところで焼失を免れたことが分かります。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:救世軍横田小隊
竣工:大正12年
構造:木造
設計者:成田光二郎
施工者:内田武之助

【撮影】 
平成25年9月

【参考文献・HP】
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会
「横田歴史文化写真帖」  平成16年 横田町文化協会
山陰新聞記事
松陽新報記事


  1. 2019/01/06(日) 22:48:57|
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稲田神社社務所(仁多郡奥出雲町稲原)

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先にご紹介した稲田神社の参道に架かる神徳橋に関連して、
同時期に建設された稲田神社社務所をご紹介します。

2 071118稲田神社遷宮祭
(昭和7年11月18日付 山陰新聞)
現在の稲田神社は出身の篤志家、小林徳一郎氏の寄進により、
おおよそ昭和7~8年、昭和13年~14年の二期にわたりおおよその建物、諸施設が整えられました。
社務所は昭和7年、第一期工事の間に、本殿、幣殿などと一緒に建設されたものです。

昭和7年11月18日付 山陰新聞記事より
「工事の概要 設計監督平野宇一郎氏」
(前略)
幣殿は基礎を花崗岩にして付属の向拝と通殿ともに総て屋根を銅板張として
之には特に新様式を加味した正殿造りを用い、檜柱に松材をあしらった苦心は
社務所建築に杉材、松材を使用した耐久性顧慮と同一目的で、
殊に社務所の屋根は八束郡意東村産の銀波尾を主として
下部を銅板葺にするを敢えてなし建築の永久性を念願している
社務所には二十二畳敷の客間と次の間を順に本式にしつらえ、
その外に三百坪の住宅を付属建築にしました
(後略)


昭和7年11月18日付松陽新報より
「稲田神社-造営の概要 設計監督平野宇一郎氏談」
本工事は本年4月8日起工式を行い引き続き社務所新築に着手す
桁行7間梁間7間の本屋に1間半の玄関付
基礎はすべてコンクリート工事を以てし、
木造平屋建切妻造り瓦葺き及銅板葺きにして総工費は1万円を要した
(後略)


これ等の記事から建物の概要をまとめますと、
・起工は昭和7年4月8日
・サイズは7間×7間
・基礎はコンクリート
・杉と松を使用
・屋根は瓦葺きならびに銅板葺き
という事が分かります。

山陰新聞にある意東村産の「銀波尾」というのがよくわからないのですが、
松陽新報で瓦葺きとありますから、瓦の一種の名前なのでありましょう。

3 071118稲田神社遷宮祭
昭和7年11月18日付 山陰新聞記事より
新聞記事にも建築当初の社務所の写真がありました。
記事にもあります通り、建築当初は瓦葺きであり、重厚な雰囲気があります。

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現在は瓦葺きではなく、鉄板葺き?に改装されています。

5 071118稲田神社遷宮祭名刺広告
昭和7年11月18日付 山陰新聞記事より
上掲の新聞記事にもあります通り、社務所をはじめとした諸施設の設計、工事監督には、
松江建築事務所の平野宇一郎氏がその任に当たっていました。

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長らくこの社務所はあまり活用されていなかったようですが、近年になって改装され、
「姫のそば ゆかり庵」という地元のそば粉を使った出雲そばのお店として活用されるようになりました。

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社務所内部の雰囲気のある客間でお蕎麦がいただけます。
新聞記事にあった「二十二畳の客間」なのでしょう。

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釜揚げ蕎麦。美味しい!

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割子蕎麦。やっぱり美味しい!

横田へお越しの際は稲田神社参拝がてら、「姫のそばゆかり庵」さんでぜひ、美味しいお蕎麦を食べてください。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:稲田神社社務所
竣工:昭和7年
構造:木造
設計者:平野宇一郎(松江建築事務所)

【撮影】 
平成29年4月

【参考文献・HP】
「聞書 小林徳一郎翁伝」 昭和37年 小林徳一郎翁顕彰会
山陰新聞記事
松陽新報記事



  1. 2019/01/03(木) 22:49:57|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
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神徳橋(仁多郡奥出雲町稲原)

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新年最初の記事は、新春に相応しく神話のふるさと出雲横田の神徳橋から始めたいと思います。

神徳橋は出雲横田の稲田神社参道に架かる橋です。
稲田神社境内の「ゆかり庵」に蕎麦を食べに行く際に見つけました。
橋名板は失われていて現地では名前が分からず、
地図にも橋名の記載がなかったので困ってしまったのですが、
奥出雲町の教育委員会に問い合わせたところ、「神徳橋」と名前を教えていただきました。

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参道の橋に相応しく、親柱のデザインは灯篭風です。

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戦前の橋では戦中の金属供出で金目のものはたいてい剥ぎ取られはぎとられているものですが、
この橋では装飾の金具が残されています。

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橋名板、ベースの金具は残っていますが、文字の部品が欠落していて文字は読めなくなっています。

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なにが書かれていたんでしょうか?

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四基の親柱のうち、一基は笠が外れてしまっています。

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コンクリートベースの人造石洗出しの欄干。この橋では装飾金具がはまっています。

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橋の全体。なかなか素敵なプロポーションです。

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川岸に降りて撮影。桁橋なのでしょうかラーメン橋なのでしょうか。

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橋の中央には橋と一体となった橋脚がありますが、細い。
これはなんという様式の橋なのでしょうか?

【神徳橋の歴史】
神徳橋の架橋は稲田神社の造営の一環で行われたものです。
稲田神社は島根出身の篤志家である小林徳一郎翁の寄付により、
昭和6年から14年にかけて順次整備されたものであります。

「聞書小林徳一郎翁伝」によれば、稲田神社の工事は下記の通り行われたという事です。

第1期工事(昭和6年~8年)
  境内の拡張整地
  参道の新設
  本殿・幣殿・社務所・神橋の建設

第2期工事(昭和13年~14年)
  拝殿・通殿・神饌殿・手水舎・玉垣・石垣・石段・大鳥居などの建設

昭和7年11月の松陽新報、山陰新聞では稲田神社遷座式の記事が掲載されており、
これらの記事に掲載された工事の概況はおおよそ次の通りでした。

大正15年3月     小林徳一郎氏横田を訪問
大正15年4月1日   参道工事起工式
大正15年7月      参道の工事大体終わる
昭和2年3月      村民有志が参道に桜を植える
昭和2年5月      社務所地鎮祭
昭和7年2月      小林徳一郎氏来村、本殿・幣殿・通殿・社務所・神徳橋の造営方針決定
昭和7年7月8日    起工式、社務所着工
昭和7年8月8日    神殿、各社殿着工
昭和7年11月18日  上棟式
昭和7年11月19日  遷座式
昭和8年まで      拝殿、神饌殿等付属施設建設

神徳橋の明確な竣工時期はわかりませんが、新聞記事によれば、遷座式に合わせて、
「神徳橋の渡り初め式」が行われているので、昭和7年架橋という事は間違えなさそうです。

12 071118神徳橋
(昭和7年11月18日付山陰新聞より)

昭和7年11月18日、稲田神社の遷宮祭が執り行われることになりました。
その際の山陰新聞記事には、工事を担当した平野宇一郎氏のコメントが掲載されていました。
神徳橋について言及している部分のみ抜粋します。

「工事の概要 工事監督 平野宇一郎氏談」
(前略)
参道の途中に川が横ぎりますのでここに神徳橋を架しましたが、
之も従来の神橋様式に新味を加えまして鉄筋コンクリート人造石洗出しの欄干に
僅か四間に四間の橋ではありますけれど
実に一千二百円の費用をかけ全く結構の極みであります
本殿、拝殿及び社務所だけの建築費でも実に一万一千円を費やし、
地均しから参道開通に神徳橋の架橋までの全部の費用を加えますと
実に五万数千円の巨費に達しますが、
設計並びに工事監督の衝に当たりました者として特に申し上げたいは、
この工事は最初から予算なるものを組まずに要るに任せて
小林氏がどしどし支出されましたことで
(後略)


コメントしている平野宇一郎氏は、松江に事務所を構えていた、
「松江建築事務所」は松江に事務所を構えていた設計所のようで、
島根県内の小学校、産組事務所、郵便局などの設計、監督に携わっています。
このブログで紹介している中では、加茂町の旧加茂郵便局がこの松江建築事務所による設計です。

ブログ主の調査不足なのでしょうが、今のところ、平野宇一郎氏はじめ事務所の詳細は不明です。
学校建築が多いので、県の技師のOBなどが主体になって設立した団体だったのかもしれません。
ブログ主が戦前の山陰新聞や松陽新報を確認してきた中では、
建物関連の記事で松江建築事務所の名が確認できるのは、この稲田神社がもっとも古い記録です。

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以上、神徳橋のご紹介でした。
調査により橋の名前のほか、架橋年代や設計者までも判明したのはありがたい事でした。
橋名については奥出雲町教育委員会様より情報をいただきました。ありがとうございました。

【橋の諸元】
橋名:神徳橋
竣工:昭和7年12月
形式:RC桁橋?
所在地:奥出雲町稲原
川:?
道路:稲田神社参道

設計:平野宇一郎(松江建築事務所)
工費:1万200円

【撮影】 
平成29年4月

【参考文献】
「聞書 小林徳一郎翁伝」 昭和37年 小林徳一郎翁顕彰会
「横田歴史文化写真帖」  平成16年 横田町文化協会
山陰新聞記事
松陽新報記事




  1. 2019/01/03(木) 19:26:37|
  2. 島根県の近代橋梁
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あけましておめでとうございます

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本年も宜しくお願い致します。

昨年は1月に転職をしたこともあって、なかなか余裕のない一年でした。
そんな状況であまり更新が出来ませんでしたが、
国会図書館通いなど資料集めは継続していましたので、
今年はしっかりアウトプットできるようにしていきたいと思います。
  1. 2019/01/03(木) 14:19:40|
  2. その他
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