元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

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旧上府村役場(浜田市上府町)その2

①
以前ご紹介した浜田市上府町の旧上府村役場について、
当時の新聞記事より建築年が判明しました。

②山陰新聞 040714
昭和4年7月14日付山陰新聞

「上府村の役場新築 此十五日着工」
那賀郡上府村では既報の如く村役場庁舎新築の為
過般入札に付した結果、三千四百円にて下府村
森下治三郎氏に落札した
右新庁舎は本館六間半五間半三十五坪五合、
瓦葺二階建、階下は事務室宿直室とし、
階上広間は会議室及び村公会堂とするもので
七月十五日着工、十月三十日竣工の予定


山陰新聞より、昭和4年7月に着工したことが分かりました。
設計者は不明ですが請負は隣の下府村の森下治三郎氏、
いわゆる地元の大工の棟梁という事でしょうか。

一階を役場の事務所スペースとして、二階に村の公会堂の機能を持たせる。
このような部屋割りは当時の村役場で少なくないようです。
現存する旧湯里村役場も、二階が公会堂に充てられています。

③松陽新報 041227
昭和4年12月27日付松陽新報

「大正御即位の記念事業漸く成る」
「上府村役場落成す」
那賀郡上府村は戸数二百四十余戸人口千二百余名の小村ではあるが
大正御即位記念に村役場の新築を思い立って以来無理をせずに村民が
心を合わせて蓄積し得た金によって今昭和四年工費四千六百三十余円を投じ
洋館建ての広壮な村役場を新築し二十四日其落成式をあげ (以下略)


タイミング的に「昭和御大典」の間違いでは?
と、見出しだけ読むと感じてしまうのですが、
そうではありませんでした。

松陽新報では昭和4年12月24日に落成式を挙げた事が報じられています。
前述の山陰新聞記事では10月末日竣工予定とありますが、
実際の竣工日から落成式開催の日までの間が数か月開くことは
当時の建築事情ではよくある事ですので、上府村役場の実際の竣工も、
12月以前だったのかもしれません。

④041227上府村役場
落成式当日?の貴重な写真です。
浜田市教育員会様からの聞き取りで、
戦後になって小学校の敷地の丘の上に移築されたという事が分かっていますので、
この写真はそれ以前、現在の県道のあたりに建てられた当時の写真なわけです。
現場と比べますと玄関の位置が異なります。

⑤
旧玄関が確認できますね。

⑥
移築された際に玄関の位置が変更されたのでしょうか?

⑦
丘の下に建っている上府小学校の校門。

⑧
不鮮明ですが、上府村の写真にも似た姿の門柱が写っています。
現在の上府小学校の校門は上府村役場の門柱を転用したものである可能性があります。


当時の新聞より、移築前の村役場時代の姿を確認することが出来ましたが、
残念ながらこの村役場の建物は解体されてしまい、その姿を見ることは出来ません。
平成27年に上府小学校が廃校となり、校舎・旧公民館(上府村役場)を解体して保育園が建設されています。
戦前からの貴重な物件であり、それこそ地域のシンボルであった建物なのですから、
完全に取り壊さなくても旧役場を取り込んだ保育園の設計も出来たのではないかと思うのですが。。。




【旧上府村役場の年表】
昭和4年  上府村役場新築(7/15着工・12/24落成式)
昭和11年 青年学校校舎に転用
昭和28年 上府小学校敷地拡張・旧役場を丘の上に移築
平成27年 上府小学校閉校
平成28年 上府保育園新築の為解体

【建物プロフィール】
昔の建物名:旧上府村役場
現在の建物名:上府公民館
竣工:昭和4年(平成28年解体)
構造:木造2階建
設計者:不詳
施工者:森下治三郎

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  1. 2018/06/17(日) 12:02:50|
  2. 島根県の近代建築・浜田市
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浜田の絵葉書よりその2

img852.jpg
前回の続きです。

囲い⑥~⑨t
今回は絵葉書の左半分をみてみます。

⑥浜田税務署
⑥浜田税務署
いかにもお役所風な近代建築です。
戦前の新聞記事などから手掛かりを見つけることができなかったのですが、
昭和12年に刊行された「大日本職業別明細図」を確認したところによれば
位置からして浜田税務署だった建物のようです。
現在も大体同じ位置に浜田税務署がたっています。

⑦坂根惣太氏邸
⑦坂根邸
絵葉書の左端には見慣れない洋風3階建ての建物が確認できます。
これは「関西工務所」を経営していた坂根惣太氏の邸宅だった建物のようです。

⑦020707関西工務所t
(昭和2年7月7日付松陽新報より)

昭和2年の松陽新報に、邸宅の写真と坂根惣太氏の紹介がありました。
新聞に掲載された邸宅は、絵葉書の洋館のそれです。

新聞記事によれば坂根氏は邑智郡矢上出身で、給仕から身をたて、
艱難辛苦の上に「関西工務所」という会社を経営するまでになった、
「今では那賀郡内でも長者の佐々田家に次ぐ多額納税者」になった成功者とのことです。

「関西工務所」詳細が今一つよく分かりません。
新聞記事中に「土方の大親分」とある事から、
土木請負業を生業とする会社だったのでしょう。
あまりにも情報が少ないので今後も調査が必要です。

浜田ホテルニューキャッスル
(グーグルマップより)

その後の坂根惣太氏邸がどのような経緯をたどったのかは不明です。
現在の場所でいえば「ホテルニューキャッスル」のあたりになりましょう。
 
⑧那賀医師会館
⑧那賀医師会館
浜田川に面して異彩をはなつ洋館は「那賀医師会館」の建物です。

⑧040510那賀医師会館
(昭和4年5月10日付松陽新報より)

新聞記事より、那賀医師会館は昭和の御大典記念として計画され、
工費五千五百円、昭和3年11月起工昭和4年3月竣工したものとあります。

⑨川口屋
⑨川口屋
看板建築風の建物2件が確認できますが、このうちの
向かって右側は現存する川口屋(昭和4年築)の建物と思われます。

⑨DSCF8493
川口屋の三階部分、バルコニー状の装飾が絵葉書のものと一致しますね。

【参考資料】
松陽新報
大日本職業別明細図 昭和12年 東京交通社
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会

  1. 2018/05/06(日) 21:27:15|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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三成のワキ

1
木次線の出雲三成と亀嵩の間、線路に沿って国鉄時代の貨車が二両保存?されています。
国道432からも良く見えるのでご存知の方も多いでしょう。

2
昭和43年の銘板。

3
二両とも台車が残っており、線路も敷かれていています。

4
この貨車は国鉄のワキ10000形といい、Wikipediaによれば貨物列車の運転速度向上のため、
最高速度時速100 kmで走れるように開発された貨車だそうです。

6
ワキ10120。

5
ワキ10073。

8
橋の上から俯瞰。ワキ10000はおそらく木次線で運用されたことはないかと思いますが、
既に現役を退き、現存する車体もほとんどないので貴重な存在と言えます。

それにしても、川と国道・木次線に挟まれたこの敷地にどうやって運び込んだのか。
トレーラーで陸送したとなると、国道から木次線を狭い踏切で渡らなければならず、
大変な作業だったのではないかと推察します。

【撮影】
平成27年5月

  1. 2018/05/06(日) 17:50:18|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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旧鹿足郡役所(津和野町後田口)

1
水路に鯉が泳ぐ津和野のメインストリートに旧鹿足郡役場の建物が現存しています。
武家屋敷風の門が素敵な風情ですが、これは修景の為に後年建築されたもの。郡役所の建物は隠れがちです。

2
大正8年築の旧鹿足郡役所。和風平屋建ての堂々たる役所建築です。
益田に現存する旧美濃郡役所にそっくりですがこちらの役所の方が2年先輩です。

3
郡役所としては郡制廃止の大正15年まで使用されています。
その後昭和9年から昭和34年まで津和野警察署として使用されたのち、
現在まで津和野町役場として現役で活躍されております。
大正時代の役所建築が現在もほぼ同様の用途で現役というのはかなり貴重な存在ではないでしょうか。

5 (2)
役所の裏側から。
時代の変化に合わせて室内は現代の事務仕事に耐えうるよう、改装されているそうです。


【撮影】
平成26年4月

【建物のプロフィール】
昔の建物名:鹿足郡役所
現在の建物名:津和野町役場津和野庁舎
竣工:大正8年
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【参考文献】
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会

  1. 2018/05/04(金) 22:07:23|
  2. 島根県の近代建築・石見地方
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浜田の絵葉書より(その1)

最近絵葉書ネタばかりですが、やはり今回も絵葉書ネタです。

img852.jpg
せんだってヤフーオークションで浜田市をうつした絵葉書を落札しました。
なかなかクリアな画質で建物がいろいろ確認することが出来る貴重な資料です。
この絵葉書に写されている個々の建物について、
ブログ主が持っている資料を基に考察を加えてみたいと思います。

図1
(国土地理院WEBより)
絵葉書の写真は浜田の北側の山より日本海の方向に向けて撮影されています。
写っている範囲はおおよそ上図の赤枠の範囲内でありましょう。

囲い①~⑤
まずは絵葉書の右上、殿町~松原町界隈の建物をみていきます。


①旧制浜田中学校
①浜田中
大柄の瓦屋根の建物が重なる部分は旧制浜田中学の敷地、現在の浜田市役所付近にあたります。

①img489t
浜田中学校は戦後の学制改革で浜田第一高校となり、
昭和24年には旧浜田連隊跡地へ移転、その後は浜田市役所として使用されたそうです。

①DSCF8512
浜田中学跡地には旧校舎玄関の部材の一部が保存されています。


②松原小学校
②松原小
町はずれにみえる学校のような建物は松原小学校の校舎です。

②080517原井小松原小
(昭和8年5月17日付松陽新報より)
絵葉書に写された校舎は昭和8年に新築されたものです。
絵葉書の写真と全く同じ校舎ですね。


③浜田高等女学校
③浜田高女
松原小学校の手前に写っている大きな洋風建築は浜田高等女学校の校舎です。
現在の石神社の隣、浜田警察署の敷地(平成28年移転)にありました。

③img491
浜田高等女学校の校舎は明治35年に建設されたもので、戦後浜田高女が浜田第二高校となり、
昭和24年に浜田高校に統合されて旧浜田連隊に移転した後は
浜田市立第二中学校の校舎として昭和46年まで使用され、その後解体されました。
絵葉書にも写る校門の門柱は浜田高校と移転した第二中へ移設され現存しています。


④旧浜田町役場
④浜田町役場
浜田高女の手前、入母屋屋根の建物は旧浜田町役場の建物です。

④151102浜田市成立
(昭和15年11月2日付松陽新報より)
昭和15年、浜田市が成立した際の新聞記事にこの役場の建物の写真が掲載されていました。


⑤浜田町立女子技芸学校(浜田町立実践女学校)
⑤技芸女学校
浜田大橋の北詰にある学校建築は、浜田町立女子技芸学校(浜田町立実践女学校)の校舎です。

⑤技芸学校
浜田女子技芸学校は大正9年創立で昭和8年に実践町立女学校と名前を変えています。
この絵葉書ではタイトルがが「技芸学校」となっていますから、昭和8年以前に撮影されたものでありましょう。



【参考HP・資料】
島根県立浜田高校HP
浜田市立松原小学校HP
松陽新報
大日本職業別明細図 昭和12年 東京交通社


  1. 2018/04/21(土) 18:42:38|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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大田の地震のこと

CIMG5991.jpg
先般の大田の地震で被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。

あれだけ大きな地震であったにもかかわらず、NHKニュースでさえもあまり大きく取り上げないので、
被害がどうだったのか、あまり情報が入ってこなかったのですが、
TwitterなどのSNSを通じて刻々と入ってくる建物被害に、
相当現地はご苦労されているだろうと痛切に感じました。

※地震翌日のNHKニュースが地震より先に大リーグを取り上げたのにはさすがに怒りを覚えました。

CIMG6010.jpg
瓦屋根が落ちたり、土壁が崩れたりと、
大田市周辺に点在する古い町並みにもダメージがあったようです。
以前お世話になったことのある三瓶の湯元温泉も被害が大きかったようで、
今後、地域の生活再建には相当の苦労があるように感じました。

CIMG6019.jpg
義援金をおくることくらいしかできないのが申し訳ないのです。

  1. 2018/04/21(土) 10:27:32|
  2. その他
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その6)

T14~S4
松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その3)
先代16代松江大橋に並行する水道管用橋の存在について指摘をしましたが、
今回はその続編です。

水道管
先代松江大橋の時代には、橋の上流側(宍道湖側)に
水道管用の橋が並行して架けられていたことが確認できる絵葉書があります。

水道管無
同じように見える絵葉書でも上記の水道管用の橋が見当たらないものもあります。


先代の松江大橋の架橋が明治44年、松江市における上水道の設置が大正7年ですから、
その間に松江大橋を撮影したものには、この水道管用の橋がないという事になり、
このことは大橋の撮影時期を特定するうえで重要な指標になるものと思われます。

松江市水道局のHPでは、給水開始が大正7年6月とされていますから、
大橋川を渡る水道管もそれ以前に建設されたという事が推察されます。
昭和16年に刊行された松江市誌では、松江市水道の開通について、
大正7年3月主要部分落成・6月給水開始と記してありました。

もう少し詳しく水道管用の橋の架橋時期が分からないかと
当時の山陰新聞を調べてみたところ次のような記事が見つかりました。

t060712水道管架橋
大正6年7月12日付山陰新聞

「市水道工事」
松江市敷設水道工事は殆ど全部終了したれば愈々十四日より
大橋川の難工事に着手の筈にて十日より準備工事に取懸りたる
同所の経費は約一万円の見積にて大橋西側に橋桁と平行に
直径十六吋(インチ)の鉄管を架設すべく
橋材は全部鉄筋コンクリートを用いる由にて竣工迄約四十日を要すと
因みに該工事を終えれば間も無く市内の吸引●成し得る見込み●●と


出てきました。
水道開通の1年前に大橋川を渡る水道管橋の工事が
開始されようとしていたことが判明しました。
・経費1万円
・直径16インチ(約40センチ)の鉄管を架設
・橋材は全部鉄筋コンクリートを用いる
・竣工迄四十日を要する
・大正6年7月14日から着手の予定
等という事が新聞記事よりわかります。

工事開始やその後の経過についても記事があると思ったのですが何故か見当たらず。
次に大橋川架設の記事が出てくるのは翌大正7年1月です。

t070123大橋管架橋
大正7年1月23日付山陰新聞

「水道は今に出来る 問題の架管橋工事も終わる」
(前略)大橋架管工事も頃日来の大雪の為に工事を休んでいたところへ
二十二日は久しぶりの快晴に街中の雪は殆ど消えてしまうほどの日和ときたので
早速工事を開始したので中央部の未成工事もようやく目鼻が付いて
同日午後にはついに最后のカアダア(ガーター?)を上げたから
23日には直ちに鉄管を上げてそこにめでたく問題の大橋管架橋も
まず完成することになった(後略)


大正6年7月の着工を伝える新聞記事では工期を40日としていたのに、
予定をはるかに上回る6か月後にようやく工事の目途がついたようなので、
相当の難工事だったのでしょう。
タイトルの「問題の架管橋工事」とあるくらいですから大変だったようです。

この新聞記事より、水道管を渡す橋を「架管橋」と呼んでいたことと、
大正7年1月23日ごろに架管橋が完成したことが分かりました。

記事中「カアダア」とありますが、これはガーター橋の「ガーター」のことでありましょう。
しかし、実際の架管橋はトラスで成されていることは絵葉書から明白です。

img562.jpg
古絵葉書を観察する限り、基本は上路式トラス橋、
中央部分2径間のみ下路式トラス橋が用いられています。

上路式トラスはトラスの上部に道路(ここでは水道管)が乗る型式で
トラスは道路の下に位置しますから構造物が景観の邪魔をしません。
その代わりに桁下(つまり橋から水面)の空間が十分にとれないという短所があります。
一方、下路式トラスはトラスの下部に道路が乗る型式であって、
トラス構造が道路より上にくるために桁下の空間が十分という長所と
景観が阻害されるという短所があります。

大橋の西側、つまり宍道湖側に架管橋を架ける際には景観の問題が発生します。
上路式であれば、大橋からの景観は阻害されません。
しかし水運が盛んだった当時であれば、上路式では桁下の空間が十分に取れず、
大きな船がくぐれなくなるという懸念もあったのでありましょう。
だからといって下路式だけで橋を架ければ、大橋からの景観が全く阻害される。
折衷案として船が通る部分だけを下路式としたのではないでしょうか。

余談が長くなってしまいましたが、当時の新聞記事より、
水道管を渡す橋(架管橋)は大正7年1月末に完成したことが分かりました。
これにより、建物や自動車からだけでなく
水道管の有無によっても撮影年代の絞り込みが出来ることになります。

img821t
水道管が写っているので、大正7年1月以降の撮影。

img548.jpg
水道管がないので工事着手前、大正6年7月以前の撮影。


  1. 2018/04/05(木) 23:49:19|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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三澤村の絵葉書

最近絵葉書ネタが続いていますが、久しぶりの更新も絵葉書ネタです。

1
ヤフーオークションで「三澤名勝」と題された絵葉書を落札しました。
「三澤」は現在の奥出雲町三沢地区です。
かつては三澤村という独立した村でしたが、
昭和30年に三成町・阿井村・亀嵩村・布勢村と合併して仁多町となり村はなくなりました。

2
三澤村の中心地を写した絵葉書です。右手前に立派な門構えのお屋敷があります。
突き当りの茅葺屋根がキャプションにある「蔭涼寺」でしょう。

この絵葉書の風景がいつ頃撮影されたのか、
画像からは時代を確認できるものが見いだせませんでした。
表の通信欄の罫線が全体の半分の位置でしたので、
測定法に依れば大正7年以降に作られた絵葉書。という事はわかります。



現在もこの風景が残っているのかどうか現地へ行ってきました。



3
素晴らしいことにお屋敷は残っていました。
絵葉書と同じアングルで写真を撮ってみました。バッチリ絵葉書が写された当時のままで感動。

4
三沢の中心部に広い敷地を構えるお屋敷。この地の旧家なのでしょう。

5
門柱だけが洋風。絵葉書にちらっと写っているのが確認できますが、
かつては門柱の上にアーチに鉄柱を渡して照明が設置されていたようです。

撮影した平成29年当時、人気がなく空き家のようでお屋敷の今後が心配になりましたが、
平成30年3月6日付の山陰中央新報に奥出雲町がこの物件を買い取り、
地域振興の一環として貸事務所として改修して起業支援に使う旨の記事が掲載されていました。
どのように改修されるのかは今後のお楽しみですが、建物は守られるようでひと安心です。

img149.jpg
ちなみに、絵葉書左奥に写っている商家風の建物。

8
こちらも当時の建物がきれいに残っているようでした。

7
いずれにしても、戦前に撮影された絵葉書の風景を、
現在にも見出せることが出来たのは感動的な出来事でした。

  1. 2018/03/16(金) 22:40:46|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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旧制松江高校本館基礎部分

最近、浅草十二階(凌雲閣)の基礎部の煉瓦が発掘されたニュースが話題になりましたが、
島根県でも基礎の煉瓦が発掘され、こちらはしっかりと保存されています。
便乗ではありませんがこの機会にご紹介したいと思います。

11
発掘・保存されたのは島根大学の前身である、旧制松江高等学校本館の基礎煉瓦部分です。
旧制松江高校本館は大正10年に建てられ、
その後の学制改革による松高廃止後は島根大学の校舎として昭和40年代まで使われたものです。
現在の島根大学本部棟から大学正門あたりに建てられていました。

平成26年に本部棟改修工事に際して埋蔵物の調査が行われ、この際に発見されたそうです。
発掘、保存の経緯などは島根大学ミュージアムさんのHPに紹介されています。

「本部棟改修工事に伴う発掘調査(その2)」

「本部棟横で見つかった旧制松江高校本館の煉瓦基礎を移築保存しました」

島根大学ミュージアムさんのブログで基礎部分が保存されたことを知り、懐かしの母校に見学に行ってきました。

1
ミュージアムの脇に、煉瓦の大きな塊が3つ並べて保存されていました。

2
煉瓦が階段状に積まれています。

6_20180218202535956.jpg
前掲の絵葉書を拡大してみますと、土台部分が煉瓦積みになっているのが確認できますね。

3
煉瓦の下には玉砂利交じりのコンクリートがくっついていました。
煉瓦を積む基礎にコンクリートを敷いていたのでしょう。

4
くの字状に曲がっている煉瓦基礎。

5_20180218202533c8a.jpg
本館のこの部分でしょうか。

旧制松江高校の数少ない遺構の一つが大切に保存されることになったのは素晴らしいことですね。

【余談その1】
前掲の絵葉書ですが、使用されたものでした。

よ2
おそらく以前の絵葉書の持ち主が切手趣味だったのでありましょう、切手がきれいにはがされています。
あて先は「大阪外国語学校 中目校長殿」とあります。
送り主は北堀町の武田さん、内容は達筆でほとんど読めないのですが、
「松江高校」、「開校式」の文字が確認できますので、
おそらくですが開校式への出席に謝意を表しているもののようです。

ウィキペディアで調べたところ、「大阪外国語学校」は後の大阪外国語大学、
「中目校長」は中目覚という、ドイツ語、地理学の方面で大きな功績を残した方で、
大阪外国語学校の初代校長ということがわかりました。

北堀の武田氏ですが、松高開校時の地理教官に武田雄三という方がいます。
達筆で読めないので何とも言えませんが、宛先の中目覚氏も地理学ですから、
地理つながりで武田雄三教授が出した絵葉書の可能性が高いかもしれません。

旧制松高の絵葉書が欲しくてヤフオクで落札したのですが、
思いがけず、貴重な記録が付いてきた感じがします。

【余談その2】
よ3
「松江高校全景」というキャプションのついた絵葉書です。
現在の川津の交差点付近から撮影したものでしょうか。

現在は自動車の往来の激しい川津交差点ですが、
松高創立当時は「川津村」、周辺は純然たる農村地域だったことが分かります。
道はもちろん未舗装で一車線ていどの幅しかありません。
右の方へカーブしていくあぜ道のような道が確認できますが、
これは今の大学裏の方へ通じる道のご先祖でしょうか。

よ4
現在の川津交差点前の様子。全く面影がありません。







  1. 2018/02/18(日) 21:48:07|
  2. 島根県の近代建築・松江市
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その5)

1_201802181455560cb.jpg
松江大橋を写した絵葉書について、(その1)(その2)(その3)(その4)と撮影年代を考察してきました。
その後に入手した絵葉書についても考察をしてみたいと思います。

【昭和12年の絵葉書】
2_20180218145557ab9.jpg
なにわ本店側から撮影した当代(17代)大橋の絵葉書です。
このアングルからの絵葉書は珍しいと思います。

川面に小舟が浮かんでおり、何か作業をしているのでしょうか。
橋の上からはその作業を見ているのか、大勢の人が川面を見下ろしています。


橋脚のコンクリートも真新しい感じがしますので完成直後の姿でしょうか。
テラス上に灯篭型照明がありませんから、これが設置された昭和13年以前であることは確実です。

3_2018021814555976e.jpg
赤丸で囲った部分に注目です。

4_20180218145600085.jpg
上記赤丸部分を拡大したものです。

なんらかの塔から日章旗が掲揚されているようです。
開通記念式典の際、南詰に建てられた仮設の塔の先っちょ部分と思われます。
「松江市市制施行110周年記念『松江今昔』」の大橋開通の写真に写っていました。

ということで、この写真は昭和12年10月、17代目大橋開通直前or直後に撮影されたものと思われます。

【明治44~45年の絵葉書】
5_201802181456020da.jpg
こちらはだいぶ昔になって16代目松江大橋の絵葉書です。
これもなにわ本店側から橋南方面を撮影したものです。
橋南方面はあまりキーとなる建物がないため、撮影年代を考えるのがむつかしいのですが、
水道管が渡されていないので、大正7~8年以前に撮影されたというが分かります。

6_20180218145604e16.jpg
この絵葉書にはスタンプが押印されていました。
独特の書体で読めないのですが、何らかの記念の物産展?が開催されたような雰囲気です。
明治45年という年号がはっきりと記されていますので、
この絵葉書は明治45年以前に撮影されたという事が分かります。

16代目松江大橋の開通が明治44年3月ですから、
この絵葉書は16代目大橋開通時にかなり近い時期に撮影されたものと思われます。


  1. 2018/02/18(日) 15:52:59|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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