元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧本郷青年倶楽部(大田市温泉津町湯里)

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以前ご紹介した旧湯里村役場前の通りを海方向へ、歩いていくと、こんな建物に出会いました。

民家にしては大柄で何となく明治~大正期の小学校の講堂にも見える建物です。
気になる建物でしたが、旧湯里村の歴史を記した「ふるさとアルバム」という資料に、
昭和初期に「本郷青年倶楽部」として建てられたものという記述がありました。

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映画を上映したり、会合などに使われたとありました。
「青年倶楽部」というくらいですから、主に地元の青年団が利用していた施設なのかもしれません。

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伝統的な建築手法の延長線上ある建築で近代建築的な要素はありませんが、
戦前に地方の農村で建設された集会所施設の現存例として貴重な物件と思われます。

【撮影】
平成27年1月

【参考文献】
ふるさとアルバム 平成8年 山本隆慶
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  1. 2017/08/16(水) 22:19:03|
  2. 島根県の近代建築・大田市
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母里小学校校門(安来市伯太町西母里)

CIMG9343.jpg
旧伯太町の母里小学校の校門です。
「郷土母里」によれば、昭和3年に建立されたものとのことです。

CIMG9344.jpg
なかなかオシャレなデザインです。
上述の「郷土母里」によれば、「人造石洗出し工法により仕上げられている」とありました。
校舎はすっかり建て替えられていますが、校門は昔のままの姿で残されています。

【撮影】 
平成26年9月

【参考文献】
郷土母里第2輯 平成16年 母里公民館・ 母里郷土誌編纂委員会

  1. 2017/08/16(水) 21:47:41|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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来原岩樋の水門上屋(出雲市大津町来原)

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来原岩樋は元禄年間、斐伊川から高瀬川への取水口として築かれた水門設備です。
出雲今市の街中を通る高瀬川は出雲平野を潤すための農業用水として大梶七兵衛によって開削されました。
当初の斐伊川からの取水口は木で作られていたそうですが、これが洪水などで破損する恐れがあった為、
岩樋(つまりトンネル)を掘って取水口を新たに設けたものです(岩盤を掘り抜いて導水することで、
岩盤が天然の堤防としての役割を果たして取水口を守ることが出来るということだと思います)。

用水の取水口としての役割だけでなく、斐伊川と高瀬川をつなぐ高瀬舟の水運にも利用されましたが、
水位の異なる二つの川を通るために、岩樋に設けられたゲートを上下させることで水位を調整しながら船を通過させる
「閘門」も機能も持っていたそうで、土木学会の選奨土木遺産にもなっています。

※以上のようにわが国の貴重な物件であり、行政側でも岩樋周辺を保全して綺麗に整備してくださっているのですが、
肝心の「岩樋」部分は奥まったところにあって、一般の見学では見ることができないのが残念なところであります。
写真で見ると非常に迫力があって、見応えがあるのに残念なことです。
近くまで行けると良いのですが・・・。


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来原岩樋の閘門機能については、現地の説明版に丁寧な説明がありました。

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ご紹介する物件は、上記の2画像とは岩樋をくぐって斐伊川側、
斐伊川からの取水口の水門部分にかけられた上屋の部分です。

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元々は斐伊川に直接面していたのだと思うのですが、
現在は県道と改修された高い堤防に囲まれて、やや存在感が薄くなってしまっています。

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外観はご覧の通りいたってシンプルなデザインです。

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建物正面にはこのような立派な額が設置されています。
一部達筆すぎて読めませんがおおよそ下記の通り記されています。
「来原岩樋 元禄〇開 大梶氏開鑿 島根県知事 男爵大森佳一 書」

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建物入口の脇には、このような名板も設置されていました。
「岩樋上家改築 昭和5年5月」
これにより、この上屋が昭和5年築ということが分かりました。
山陰新聞、松陽新報の昭和5年頃の記事を調査中ですが、
今のところ当該上屋新築に関する記事は見つけられていません。

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入口から柵越しに中を覗いてみますと、木製の水門設備の跡が確認できました。
現在は岩樋の向こう側に水門設備が設置されているので、こちらは使用されていない様子です。

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水門設備の下では、水がジャージャーと岩樋に流れ込む音が響いていました。

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上屋と取水口の全貌。現在もここから水が取り込まれて、高瀬川へと通じているわけであります。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:来原岩樋上屋
竣工:昭和5年5月
構造:?
設計者:?
施工者:?

【撮影】 
平成27年9月

【参考文献・HP】
写真集明治大正昭和出雲 昭和54年 石塚尊俊・ 原宏一
土木学会選奨土木遺産「来原岩樋」
中国建設弘済会資料
出雲市資料「来原岩樋の土木学会選奨土木遺産認定について」

  1. 2017/08/01(火) 23:17:13|
  2. 島根県の近代建築・出雲市
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国道54号線沿線に残る戦前の橋【その14・下津原橋】

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「国道54号沿線に残る戦前の橋」シリーズ、その14は下津原橋です。

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陸地測量部「木次」昭和7年より

前回の井羅原橋と下津原橋の位置関係を示します。
旧道は井羅原橋で三刀屋川を渡り、しばらくは川沿いに、
三刀屋の手前の殿河内地区まで来て下津原橋で再び川をまたいでいました。

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国土地理院WEBより

現在の国道54号線は旧道の北側にトンネルと橋とでショートカット。
下津原橋前後の道は生活道路として残りました。

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下津原橋の全景。どっしりした橋脚を2本持つ、堂々たる鉄筋コンクリート桁橋です。
「島根県の近代化遺産」によれば、昭和8年の架橋とのことです。

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旧国道らしい2車線弱の道路幅。架橋当時は十分な道幅だったのでしょう。

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親柱は国道54号線に沿いの同年代の橋に比べてモダンなデザインです。
橋名板は失われていますが、その跡らしい凹みは残されており、
この跡の形状からすると橋名板は横書きでカーブを描いていたことになります。

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親柱と欄干。欄干は鉄筋コンクリートの短冊形。わりと平凡なデザインでした。


【橋の諸元】
橋名:下津原橋
竣工:昭和8年(「島根県の近代化遺産」より)
型式:RC桁橋
所在地:雲南市殿河内
川:三刀屋川
道路:雲南市市道?

【撮影】
平成25年9月



  1. 2017/07/30(日) 22:34:57|
  2. 国道54号線の古い橋
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旧安来銀行その2(安来市安来町港町)

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以前ご紹介した、初代*安来銀行の建物について、
新しい資料が見つかりましたのでご紹介します。

*安来銀行の設立は明治29年なので、当該建物の建設以前に、安来銀行として使用されていた建物があるわけですが、
面倒なので本稿では便宜的に「初代」とします。よって、大正4年築の煉瓦の銀行は「二代目」と呼称します。


2安来町全景其1
「安来町全景(其一)」とキャプションのついている古絵葉書です。
この左に其二が続くようになっていて、十神山側から安来港を臨む安来の町を写し出しています。

ヤフオクでなんとなく落札した絵葉書セットでしたが、よく見るととんでもないものが写っていることに気が付きました。
(初代安来銀行なんですが)

3安来町全景其1
絵葉書の矢印の部分です。

4安来銀行拡大
矢印部分を拡大してみました。
明治34年築の初代安来銀行が写っていました。

5安来銀行拡大
さらに拡大してみます。
2階部分の3つの窓、窓横の帯状のなまこ壁、初代安来銀行に間違いありません。

6_20170717223823607.jpg
現在の姿をみると建物左端が削られているような姿ですが、
絵葉書でも左右非対称で左側は壁の面積が少ないように見えます。
当初から左右非対称の姿だったことが絵葉書から確認できました。

7拡大2
余談ですが絵葉書の安来銀行から左へ二軒離れた赤丸で囲った商家ですが・・・。

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現存していることが分かりました。
2階の低い土蔵作り、2階の左に寄った窓など、絵葉書当時のままです。

9安来町全景その2印あり
上述の絵葉書の続き物です。
「安来町全景(其二)」とあり、其一の東側の町並みを写しています。

10二代目拡大
上記の赤丸部分を拡大してみました。
大正4年築の煉瓦建築で有名な二代目安来銀行が写っています。

この建物が写っているということは、この絵葉書の写された年代は大正4年以降ということになり、
初代の安来銀行はすでに銀行ではなくなっていた時期ということになります。

なお、絵葉書年代測定法で発行年代を推定してみますと、
当該絵葉書の裏面は通信欄が1/2なので大正7年以降、
「きかは便郵」の表示があるので明治33年~昭和8年の間ということになります。
すなはち、当該絵葉書が発行されたのは大正7年以降、昭和8年までの間ということになります。

初代安来銀行の戦前の画像などはこれまで見つけられなかったので、
今回、不鮮明ながらも古絵葉書から当時の姿を確認することが出来たのは、
大変にうれしい出来事でありました。


【参考文献】
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書  平成14年  島根県教育委員会
島根県を中心とした産業発展の歴史 明治・大正編Ⅲ
    平成25年 エネルギア地域経済レポート 中国電力㈱エネルギア総合研究所

  1. 2017/07/17(月) 22:44:55|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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旧吉田信用購買販売利用組合事務所(雲南市吉田町)

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旧吉田村の中心である吉田の町はメインストリートのなだらかな坂の通りに沿って、
田部家の土蔵群をはじめとした歴史的な街並みが形成されており、
たたら製鉄でにぎわった近世・近代の面影を現在に伝えています。

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今回ご紹介する「旧吉田信用購買販売利用組合事務所」は、
そんな歴史的な街並みの一角にあって洋風の意匠が町並みに彩をそえる素敵な近代建築です。

この建物は、昭和6年*に吉田村の産業組合の事務所として建てられたもので、
現在も旧吉田村地域の商工会館として利用されているようです。
「新版日本近代建築総覧」によれば、設計は秋鹿隆一郎とされています。

*建築年についての考察は後述

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玄関周りの意匠。

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木造二階建てで、当時の洋風建築としては標準的なサイズと見受けられますが、
一階部分の窓の高さがかなり低く抑えられており、
その分、一階窓と二階窓との間の飾り板が縦に長過ぎる感じがあり、
やや全体のバランスが悪いような気もしないでもありません。

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飾り板の意匠などは、後年秋鹿隆一が設計した、有福小学校の校舎にも似たデザインです。

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建物の裏側。

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建物正面向かって左側には後年のものと思われる増築部分がありました。
二階窓は左右対称になっていますが、左端の窓下の飾り板部分は半分くらいで切られており、
何らかの改装が後年なされた可能性もあるかと思われます。


【建築年に関する考察】

建築年については、前述の「新版日本近代建築総覧」のリストでは昭和6年とされていますが、
その後、平成14年に島根県教育委員会から出された「島根の近代化遺産」によるリストでは、
「昭和7年頃」と記載されています。

旧𠮷田村については村誌が刊行されていないため、
近現代の吉田村の動きを体系的に追うことができません。

しかし、当該信用組合事務所については幸いなことに、
戦前に刊行された「島根県飯石郡𠮷田村誌資料第2輯」という資料に、
建設当時の状況に関する記述が残されていました。少し長いですが引用します。

島根県飯石郡𠮷田村誌資料第2輯(昭和11年版) 愛郷会編輯部編
77.無限責任吉田信用購買販売利用組合の沿革

昭和6年
・事務所狭隘なるを以て新築することに決し9月4日吉田町1576番地堀江稲行氏宅を仮事務所として移転す
・9月10日事務所新築地鎮祭を行う

昭和7年
・事務所新築略ぼ完成したるを以て請負者より仮受取をなし1月4日新事務所に移転す
・本館 間口8間奥行6間(二階建)建坪48坪
・倉庫 間口7間奥行2間半(平屋)建坪16坪5合
此惣工費 4600円也
工事請負者 吉田村職工会
・(4月21日)事務所新築落成祝賀会兼25周年記念式を開催す


いかがなものでしょうか、事務所がほぼ完成したので、昭和7年1月4日に新築事務所に移転したとあります。
なんと微妙な時期に完成したのでしょう。
これは「島根の近代化遺産」が建築年を「昭和7年頃」とした気持ちも何となくわかるような気がいたします。

1月4日に移転ということは、さすがに三が日に作業をしていたとは考えにくいですから、
昭和6年の暮れにはおおむね出来上がっていて、正月過ぎてから仕事始め?の4日に
移転しようということになったものなのではないでしょうか。

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外装もきれいに保たれていて大切にされていることが分かります。
せっかくなのでカフェや町並み資料館のような形で観光客にも開放していただけると、
吉田の町歩きの魅力も増すのではないかと思います。

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こういう風景を見ていると島根に行きたくなります。



【建物のプロフィール】
昔の建物名:旧吉田信用購買販売利用組合事務所
現在の建物名:吉田村商工会館
竣工:昭和6年
構造:木造2階建
設計者:秋鹿隆一
施工者:吉田村職工会

【参考文献】
島根県飯石郡𠮷田村誌資料第2輯 昭和11年 愛郷会編輯部編
新版日本近代建築総覧 昭和58年 日本建築学会
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会

  1. 2017/07/14(金) 23:29:37|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
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村上家資料館(海士町大字海士)

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海士町の旧海士村役場裏手に、隠岐の豪族村上家の資料を公開している、「村上家資料館」があります。
村上家は中世からの隠岐の豪族で、
隠岐に御配流となられた後鳥羽上皇のお世話をしたことでも有名な歴史のある家柄です。

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村上家資料館の建物は、もとの村上家のお屋敷であり、平成21年から平成25年にかけて復元整備を行い
平成26年に資料館として再活用されることになりました。
同年の第23回しまね景観賞では公共建築物部門の奨励賞を受賞しています。

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第23回しまね景観賞の資料によれば、現在の建物は明治33年に建てられたものとのことです。
建物は純和風で外観に洋風建築の要素はありませんが、玄関部分の意匠は、
明治・大正期に県内に建てられた小学校校舎の玄関の意匠にも類似しています。

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こちらは戦前の村上家を写した絵葉書です。
この絵葉書は実際に使用されていて、
貼られている切手は田沢型切手の一銭五厘(大正2年~昭和12年)、消印の日付は10-8-11となっていますので、
大正11年か昭和11年かのどちらかの年に使用されたことが推察されます。

ただ上記はあくまで郵便が出された時期であって、
絵葉書の年代測定法に基づいて絵葉書の仕様を観察してみますと、
通信欄の罫線がないので、絵葉書自体の発行は明治6年〜明治40年3月の間となります。
村上邸の再建が明治33年ですから、絵葉書に写された写真は明治33年から明治40年の間、
再建されてから間もない時期の姿ということが推察されます。


【撮影】 
平成26年9月

【参考資料】
海士町資料
第23回しまね景観賞

  1. 2017/07/01(土) 19:35:22|
  2. 島根県の近代建築・隠岐地方
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朝山医院(安来市広瀬町)

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広瀬町の歴史的な街並みの中に、洋風な医院建築が残されています。
朝山医院の建物で、島根県近代化遺産リストによれば昭和7~8年の築との事です。

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建具は新しくなっていますが、きれいにペンキが塗られた現役の医院です。

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門柱もクラシカルで昔ながらの医院らしい風情です。

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建物の左手にはこのような張り出し部分があります。レントゲン室でしょうか?

【撮影】
平成26年9月

【参考文献】
「島根の近代化遺産」  平成14年 島根県教育委員会

  1. 2017/07/01(土) 13:52:01|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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旧久木小学校校門(出雲市斐川町福富)

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斐川町の「原鹿の豪農屋敷(旧江角邸)」の向かいに、古い門柱が2基保存されています。

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デザインからして戦前のものと思われます。

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向かって右側の門柱。

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ボロボロですが「郡」とか「久木」といった文字が読み取れます。
「簸川郡久木村立小学校」と記されていたのでしょうか。
上記のことや位置からして、昭和45年までこの地にあった久木小学校の校門と思われます。
久木小学校は昭和45年までこの地にあった小学校で、
現在は直江小学校と合併して出雲市立中部小学校となっています。

S37
(国土地理院WEBより引用)
昭和37年の航空写真です。赤い囲いの位置に久木小学校があります。

図2
(グーグルマップより引用)
現在の航空写真です。久木小学校の跡は市営住宅地になっています。

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向かって左側の門柱。

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「島根縣簸川郡久木村立青年學校」と記されています。
青年学校は昭和10年から昭和23年までの間に設置された学校で、
小学校卒業後の農村の男女を対象とした教育機関でした。
小学校に併置されたケースが多かったようです。

戦後の学制改革によって消滅した教育機関ですが、
そのような学校の名前が校門に残されているのはかなり貴重なのではないでしょうか。


【参考文献・HP】
Wikipedia「青年学校」の項
出雲市立中部小学校HP

【撮影】
平成27年9月

  1. 2017/06/18(日) 22:29:51|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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国士館大学大講堂(世田谷区世田谷)

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国士館大学の構内、近代的な校舎が立ち並ぶ中で異彩を放つ、大正8年築の「大講堂」の建物です。

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寺院風・純和風なこの建物は大正6年に青山の地に創立した国士舘が
大正8年に、世田谷の当地に移転した際に講堂として建設された建物です。

完成当初はまさに講堂として、この建物内で講義が行われたそうで、
頭山満や中野正剛といった錚々たる人物がこの講堂で講演に立ったそうです。

昭和20年5月の空襲(山の手空襲か)で隣接校舎は罹災したものの、
学生・教員の尽力により大講堂は焼失を免れ現代に至ります。

A
(国土地理院WEBより引用)

昭和19年の国士館周辺の航空写真です。
不明瞭なるも赤丸の部分に講堂らしき建物が確認できます。

B
(国土地理院WEBより引用)

昭和22年の航空写真では周囲の校舎が焼けてなくなっているのに対して、
大講堂の建物がしっかり残っているのが確認できました。

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鬼瓦には国士舘の校章があしらってありました。

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張り紙がべたべた貼ってあるのは塀ではなく、塀風の掲示板です。

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建物の裏側。出っ張っている部分は奉安庫の跡でしょうか?

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こうしてみるとお寺の本堂のようにも見えます。

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安田講堂や大隈講堂のような華やかさはありませんが、
国士館大学の象徴として大切にされているたてものでした。

【参考資料】
現地の案内板を参考にさせていただきました。

【撮影】
平成29年6月
  1. 2017/06/12(月) 22:54:01|
  2. 島根県以外の近代建築
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