元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧赤江村役場その2(安来市赤江町)

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以前ご紹介した、安来市赤江町の旧赤江村役場について、
建物が建設された当時の新聞などから、情報を整理してみたいと思います。

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昭和3年12月12日付松陽新報

「満山錦を飾るけふの赤江の賑ひ」
「飯梨川畔に甍並べて落成した村役場と信組事務所」

新聞記事中に建物に関する具体的な記述はありませんが、
新築は「御大典」を記念したものと記されています。
昭和3年は昭和天皇のご即位の大礼が京都で行われた年であり、
「御大典」の記念として各地で様々な催し物が行われたり、
これを機会として官公庁、学校等が新築されたりしています。

島根県内も例外ではなく、昭和3年当時の新聞記事を確認しますと、
御大典を機として、学校や信用組合、役場などが
相次いで新築されていることが確認できます。
新聞記事では、赤江村役場のほか、
信用組合事務所も同時に新築されたことが記されていますが、
信用組合の建物の方は現存していません。

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新聞記記事にある、新築時の役場です。

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当時の写真と比べると、窓や玄関がアルミサッシ化されていますが、
それ以外は現在まで当時の姿を保っているように思われます。

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昭和3年12月12日付松陽新報

設計者などの情報は、新聞下段の名刺広告にありました。
広告には、下記の情報が記されていました。
「建築・設計・監督 長谷川工務所 長谷川治之助」
「赤江村役場改築・信用組合事務所改築
 工事請負 長谷川辨次郎、小松原伴次郎、大櫃丈四郎」

この情報から、赤江村役場の設計は、長谷川工務所の長谷川治之助、
工事請負が長谷川辨次郎他、ということがわかりました。

長谷川治之助の名前は、以前ご紹介した井尻村産業組合事務所他、
安来・能義郡エリアの近代建築の設計者として時々名前が出てくる人物です。
昭和12年に刊行された「郷土の光‐能義郡誌」を読んでいたところ、
後半の能義郡の名士紹介の項目で、「長谷川治之助」の紹介があるのを発見しました。
以下に「郷土の光‐能義郡誌」より、長谷川治之助の項を引用します。

長谷川工務所長 長谷川治之助氏 能義郡赤江村

明治30年11月岳父辨二郎氏(※1)の次男に生まれ学校卒業と同時に
広島市土木請負業森田福一商会(※2)に入り、全国各都市の支店出張所に勤務し
立川飛行場を始め各方面に於ける土木設計監督の実際を修練して棋道の蘊奥を極め、
去る大正15年4月、帰郷と共に現在の地に長谷川工務所を開設一般の需に応じている。

氏は地方稀に見る新進の設計監督者として棋界にその名を知られ、
現に島根、鳥取の両県各地に進出して大に技能を発揮しているが、
同所に於いて取り扱った主なるものを挙げれば赤江村小学校を始めとして(※3)、
西伯郡地方小学校中建築美の粋を集めた加茂村小学校、本郡能義小学校、
本郡能義村役場、同井尻村役場、同産業組合、同山佐村役場、同産業組合、安来町停雲楼等々は
その代表的なものであり、開業以来人気輻輳して非常な隆昌を極めている。
(以下略)


※1)赤江村工事請負の長谷川辨次郎が父と推定されます。
※2)戦前に広島で土木請負業を起し、後に衆議院議員となった森田福市の経営していた「森田組」と推定されます。
※3)「能義郡誌」のほか、戦前の新聞記事等で確認した物件も加え、長谷川治之助が手掛けた作品を下記に記します。

図1
赤字で示しているのは現存する建物です。
能義郡誌で作品としてあげられていた「安来町停雲楼」は、
現在も安来で「料亭停雲」として盛業中ということがわかりました。
しかし、長谷川治之助が設計した当時の建物が残っているのかどうかは未確認です。


以上、赤江村役場の設計者である長谷川治之助の情報を中心にまとめてみました。
長谷川治之助以外にも、戦前に島根県内で活躍した地元の建築家が少なからず存在する筈であり
、今後も引き続き調査を進めていきたいと思っています。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:赤江村役場
竣工:昭和3年
構造:木造
設計者:長谷川治之助(長谷川工務所)
施工者:長谷川辨次郎・小松原伴次郎・大櫃丈四郎

【参考文献・HP】
郷土の光‐能義郡誌 昭和12年  能義郡刊行会
料亭停雲


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  1. 2017/05/13(土) 22:02:35|
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御便殿その2(浜田市)

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以前ご紹介した浜田市の「御便殿」について、
浜田市のHP資料と、山陰行啓を記録した資料、
「行啓記念春日の光」(明治40年)から、情報を整理したいと思います。


【建設の経緯、設計者など】
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御便殿は明治39年10月に起工し、翌40年5月に竣工しました。
浜田市の資料(「浜田市役所HP『浜田城』歴史の散歩道その11」)
や、「行啓記念春日の光」によれば、
御便殿は、旧浜田藩主である、松平子爵が浜田営造株式会社に建築を依頼したとあります。
「浜田営造株式会社」という会社が、どのような会社だったのか、
仔細は不明ですが、「営造」という名をつけているので、
建築・土木に類する事業を行なっていた会社であることが推察されます。

浜田市の別の資料(「平成28年度第4回浜田城周辺整備検討会委員意見要旨」)
には、次のような記載がありました。

三隅の宮大工によって建てられた。
これについては、以前、期成同盟会での活動の際に、
三隅の方から資料をご寄附いただいている。
建築会社としては、俵三九郎氏が運営していた
浜田営造株式会社に依頼したと記録されている。


御便殿は、三隅の宮大工が手がけたとあり、前述の資料には
同浜田営造から大工に宛てた感謝状の画像があり、
「門手喜七」という名が確認できます。

浜田営造株式会社は「俵三九郎」という人物が経営していたとのことで、
この「俵三九郎」でネット検索をしますと、
元浜田市長、浜田市名誉市民の俵三九郎氏がヒットしますが、
明治29年生まれで、御便殿建設時は10歳であり、時代が合いません。
浜田営造の三九郎氏は元浜田市長の三九郎氏ではないようです。

浜田出身で島根選出の戦前の衆議院議員に、俵孫一という方がいますが、
この方の係累を確認しますと、父が俵三九郎、元浜田市長俵三九郎の甥とあり、
浜田営造を経営していた俵三九郎は、元浜田市長の父親であることが推察されます。

以上のことから、御便殿の建設に当たっては、
浜田営造株式会社が松平子爵家より委嘱を受け、
実務には三隅の宮大工である門手喜七があたった。
ということがいえるのではないかと推察されます。


【建物の使用の変遷】

御便殿は、明治40年5月に完成し、
同年6月に東宮殿下のご宿泊所として、使用されました。
その後どのような用途に供されたのかを改めて整理してみました。

4_201705082245166df.jpg
以上のように、
戦後は長きにわたり宗教法人(立正佼成会)の施設として利用されてきました。
その後、施設の新築に伴い、御便殿の建物は浜田市に寄付され、
本来の位置より北西へ曳家の上、保存され現在に至ります。

下記に、航空写真より、建物の位置、周辺環境の変化について確認してみたいと思います。

5_20170508224518e63.jpg
周辺環境の変化としては、昭和30~40年代の、国道9号線の新道が開通したこと、
御便殿後方に位置していた江戸期以来の庭園が潰されたことが上げられます。
昔の航空写真と現在とを比較してみますと、
御便殿の原位置と、曳家による移転との位置が明確になり、
現在御便殿がある位置は、元の庭園の跡地であることがわかります。

3_201705082245156d6.jpg
以上、建物の建築に関わった人々や、
建物周辺環境の変遷などについてまとめてみました。
建物の活用方法については、まだ議論がなされているようですが、
山陰行啓のご宿泊に使用されたという歴史的な意義が
しっかり記録される様な活用方法を期待しています。


【参考文献】
行啓記念春日の光 明治40年 上田仲之助編
浜田市HPより「『浜田城』歴史の散歩道その11」
浜田市HPより「平成28年度第4回浜田城周辺整備検討会委員意見要旨」
浜田市御便殿リーフレット

  1. 2017/05/08(月) 22:52:34|
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旧簸川銀行本店その3(出雲市今市町)

新築本店
その2に引き続き、出雲市の「旧簸川銀行本店」について、
資料をもとに考察を加えたいと思います。

<落成式を伝える山陰新聞>

現在残る建物が建築された当時の新聞記事に、建物に関する記載がないか、
下記のような記事をみつけました。
t9217s.jpg
山陰新聞大正9年2月17日

「簸川銀行落成式」
簸川郡今市町簸川銀行は昨年末竣工と共に移転せるが
来る二十一日午後一時より簸川郡会議事堂に於いて落成式を挙行する由



いかがなものでしょうか、注目すべきは、
「昨年末竣工と共に移転せるが」という箇所です。
さまざまな資料で、旧簸川銀行本店の竣工年を大正9年としていますが、
この新聞記事からすると、実際に建物が完成して使われ始めたのは、
大正8年の12月ごろということになります。

近代建築や近代化遺産といった分野を研究する上で、
竣工をもって竣工年(完成年)とするのか、
正式な竣工式の開催をもって竣工年とするのか、
そのあたりのルールや定義のようなものがあるのかどうかは知らないのですが、
単純に建物が完成して使われ始めた。という点で竣工年を考えると、
旧簸川銀行本店の竣工は、従来大正9年とされてきましたが、
実際のところは大正8年という事になるのではないかと思います。

前年(大正8年)暮れに完成したとのことだったので、
大正8年12月の山陰新聞も調べてみたのですが、
それらしい記事を見つけるに至っていません。

ご参考まで?、落成式の記事もご紹介します。
図1s
山陰新聞大正9年2月23日

「簸川銀行落成式」「昨日盛大に挙行」
簸川郡今市町簸川銀行新築落成式を22日午後1時より簸川郡役所に於て挙行せり
当日銀行は門前に幔幕を張り国旗を交差して装飾を施し
午後一時数発の煙火を合図に関係者は式場郡会議事所に集合せり
(以下略)


落成式は300余名も集めて華々しく挙行されたと記事にあります。

tizus.jpg
落成式の行われた「簸川郡役所」ですが、
落成記念絵葉書にその位置が記されていました。
地図の位置からして、現在の県道277号線沿いにあったと思われますが、
今は跡形もありません。

(まとめ)
これまで旧簸川銀行本店の建築年は、大正9年とされてきたが、
当時の新聞では大正8年の暮れには完成していたことがわかった。


  1. 2017/04/30(日) 23:35:04|
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六郷水門近くの近代建築(大田区南六郷)

1
六郷水門の近くに気になる建物を見つけました。

2
増改築の激しい建物ですが、立派な玄関が、ただものではない雰囲気を漂わせています。
車寄せ上部に「常盤軒」の切り文字が据えられています。
調べてみると、仕出し弁当や、ケータリング事業をおこなっている、
常盤軒フーズの工場ということが分かりました。

3

4
とにかく玄関が立派です。

この建物がどのような歴史を持っているのか、
大田区誌などをいろいろ調べてみましたが、よくわかりませんでした。
そこで、思い切って常盤軒さんに質問をしてみたところ、下記のような回答をいただくことが出来ました。

(いただいたメールより抜粋・要約)
・常盤軒フーズでは平成25年2月から使用して いる
・それ以前は株式会社常盤軒という会社が平成17年3月から建物を改修して使用していた
・その前は印刷工場だったときいている
・ビルの竣工は昭和13年とのこと
・軍需関係の研究所として建てられたものだとのこと
・平成14年に印刷工場として使用した時に改装されているとのこと


大変貴重な情報をいただきました。
昭和13年築、やはり戦前からの建物だったことがわかりました。
「軍需関係の研究所として建てられた」ということですが、これは非常に興味深い話です。
この建物の向かいには、URの大きな団地がありますが、この団地の敷地はもともと、
特殊製鋼という工場の敷地だった場所だそうですから、
そのすぐ目の前にという立地から「特殊製鋼」の関連施設だったのかもしれません。
この特殊製鋼という会社、今はもうないようで、あまり資料が出てきません。
羽田空港のそばにあった日本特殊鋼のことなのか、それとは別の工場なのか、
そのあたりも含めて、調べてみると何か新しい発見ができるかもしれません。



最後に国土地理院の航空写真から、建物の状況を確認してみたいと思います。

S11 
昭和11年の航空写真では、建物がなく、空き地のようになっています。

s19
これが昭和19年の航空写真になると、不明瞭な写真ではありますが、
当該建物らしきものが写っていることが確認できます。


S22
終戦後、昭和22年の航空写真は画像が鮮明です。
周囲が焼野原になるなか、爆撃を免れた工場のその隣に、
当該建物がしっかりと確認できます。

5
現在の建物の特徴である車寄せと、正面右手の階段塔?と思われる3階部分ですが・・・。

S22拡大
昭和22年の航空写真を拡大してみると、車寄せと階段塔がバッチリ確認できます。



【撮影】
平成29年2月

【参考WEB】
大田区役所「六郷昔ばなし」
http://www.city.ota.tokyo.jp/kamata/ts_rokugou/katsudou/rokugou_mukashibanashi.html

【御礼】
本記事作成に当たっては、常盤軒フーズ様に貴重な情報をいただきました。
御礼申し上げます。



  1. 2017/04/30(日) 10:18:24|
  2. 島根県以外の近代建築
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旧簸川銀行本店その2(出雲市今市町)

1
以前ご紹介した出雲市の「旧簸川銀行本店」について、
その後、新たな資料も増えましたので、少し考察を加えたいと思います。

<新築記念絵葉書からの考察>
2
ヤフーオークションで、簸川銀行本店新築記念の絵葉書を手に入れました。
当該の絵葉書には、新店舗・旧店舗の写真のほか、
当時の今市町の地図があしらわれています。
地図には新店舗、旧店舗それぞれの位置や、
町内の官公庁等の主要施設の位置も記載されて、
当時の出雲今市の町の姿を知る上で大変貴重な資料です。

(新築当初の姿について)
3
現在の建物には、茶色のタイルが貼られています。
このタイルはブログ主の目から見ると、新築当初のものには見えず、
後年の改修によるものではないかと考えていました。
新築当時の写真があれば、現在の姿と比較できると思っていたのですが、
手に入れた絵葉書では建物の写真が小さく不鮮明で、
あまり詳細が観察できないのが残念なところです。

4
それでも写真を見てみると、建物の色調は現在と変わらないようであり、
拡大して観察してみると、タイルが貼ってあるようにも見えることから、
タイル張り(あるいは化粧レンガ張り)は、後年の改修ではなく、
当初からのデザイン(あるいはそれを踏襲したもの)であることが推察されます。

5_20170427231221ac8.jpg
写真を並べて比較してみました。
玄関部分が自動ドアに改造され、建具も変わっていますが、
外壁は同じような色調なので、現在もオリジナルを保っているのでしょうか??

(旧店舗の姿について)
6
絵葉書には旧店舗の写真もあります。
銀行といいながら、伝統的な商家建築そのものだったことが分かります。
旧店舗の建物は、隣家に比べて2階の軒が相当低く、
屋根には竈などの煙を抜くための越し屋根もついていることから、
かなり古い時代の商家建築と思われます。

簸川銀行の開業は明治30年であり、
この旧店舗は開業当初から使用されていたものと推察されますが、
上述の通り、商家のつくりとしてかなり古い形態であると思われるので、
銀行開業によって新築されたというよりは、
既存の商家を改造して簸川銀行の店舗としたものではないかと思いました。

img3241.jpg
また、絵葉書の地図より、旧店舗は新店舗の向かいにあったことがわかります。
旧店舗のあった場所は現在、和菓子の老舗、「いしはら菓子舗本町店」となっています。

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木子七郎の新店舗にばかり目を向けて、
後ろの旧店舗の写真はまったく撮影していなかったので、
グーグルストリートビュー様より、画像を拝借しました。
相変わらず詰めが甘い・・・。

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如何なものでしょうか、
現在の建物は1階部分は店舗に改装されていますが、
2階部分を観察すると、窓の配置や隣の商家との屋根の高さの差など、
旧店舗の形態の特徴がそのまま残っています。

新店舗への移転後に、旧店舗が立て直された可能性も無いとはいえませんが、
伝統的な商家建築であっても、近代以降に建てられたものは、
時代が新しくなるにつれて、2階部分の軒が高くなる傾向にあります。

当該建物(現在のいしはら菓子舗本町店)が立て直されたとすれば、
新店舗への移転が行なわれた大正9年以降であり、
この時期に、商家風の建物をあえて2階軒の高さを旧来同様の低さで
新築することは現実的ではないと思われます。

(まとめ)
・絵葉書の写真より、現存する簸川銀行の建物は、当初より、茶色系統のタイルかレンガが貼られていた可能性がある。
・新築する以前の旧店舗は、新店舗の向かい(現在のいしはら菓子舗本町店)にあった。
・その旧店舗の建物は伝統的な商家風の建物を改造したもので、現存している可能性がある。




  1. 2017/04/27(木) 23:19:16|
  2. 島根県の近代建築・出雲市
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国道54号線沿線に残る戦前の橋【その13・井羅原橋】

1
「国道54号沿線に残る戦前の橋」シリーズ、その13は井羅原橋です。

現在、井羅原橋の下流側に新井羅原橋が架かっておりますので、
古い橋が架かっているのをご覧になった方も多いのではないかと思います。

井羅原橋は中間橋脚を3つもつ、4径間のRC桁橋で、
橋の長さは、国道54号線沿線の戦前架橋の橋の中では、
おそらく、三刀屋橋に次ぐ長さと思われます。

地図昭和7
(昭和7年陸地測量部地図より)

前回の坂本橋と井羅原橋の位置を、古地図に示します。

府県道松江広島線は井羅原橋で三刀屋川を渡り、
渡りきったところで90度左に曲がって、
大きく西に蛇行する三刀屋川を山裾沿いにカーブしながら
鍋山村・三刀屋方面へ向かっていました。

地図現在
(国土地理院ウオッチ図より)

現在は新井羅原橋で三刀屋川を渡り、そのまま栗原トンネルにて
直線で鍋山地区へ到達します。

2
坂本橋方面から、鍋山・三刀屋方面を眺めた画像です。
渡りきると山にぶつかり、旧道は左に折れていきます。
橋を渡ってすぐにほぼ直角のカーブですから、
現役当時は相当の難所だったのではないでしょうか。

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坂本橋側の親柱は、架橋当初のものと思われる親柱が残されています。
橋名板がはめ込まれた後は残っていますが、
橋名などの表記は残っていません。

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高さは1メートル弱くらい、他の54号線の親柱と同等のサイズです。

3・5
袖柱も残されていました。
元々は鉄パイプなどの欄干でつながっていたものと思われます。

5
鍋山地区側からの橋の姿です。
こちら側の親柱は2基とも後年の設置と思われる、シンプルなコンクリートの角柱です。

7
鍋山側は、道路が直角に曲がるという線形の悪さから、
親柱に車が接触することが多く、破損してしまったのではないかと推察されます。

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橋の中央より。橋の部分は草が生えてしまっています。

9
背の低い欄干。元々は鉄製の柵が嵌められていたものと思われます。

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金属供出の際に無理やり柵をはがしてしまったのか、
かなりボロボロの状態です。


〈架橋のころの新聞記事〉
戦前の松陽新報より、井羅原橋に関する記事をいくつか見つけたのでご紹介します。

6830.jpg
昭和6年8月30日 松陽新報

「面目一新する県下の橋梁」
「災害復旧事業進捗す」

本明年度にわたる県の災害復旧土木工事は、
総工費百万円中本年度の支出額70万円をもって
本年一月以来これが工事に全力をあげ交通上支障のあるものはもとより
道路堤防など小工事はすでに殆ど竣工し
橋梁の改架修繕も56千円以上のもの二橋を残すほか全部契約済みで
(中略)
本年度に竣工する予定のものは行恒、里熊、神納、市尻、川戸、木次、井羅原、周布、水尻、浜田大橋などで
(後略)


ということで、昭和5年くらいに発生した水害に対する、
災害復旧の一環として井羅原橋が改架されたことがわかりました。
「国道54号線沿線に残る戦前の橋」シリーズ冒頭で、
『架橋年が昭和8年から9年にかけての間に集中しているのは、
結論から言えば、これらの橋の大部分が「省営自動車雲芸線」の
開業(昭和9年8月15日)に関連した道路改良工事の一環として
架橋されたものだからであります。』

と、述べていましたが、
井羅原橋に関してはその前提が崩れてしまいました。

余談ですが、記事中、「本年度に竣工する予定の」橋に、「水尻」が挙げられており、
これは、以前ご紹介した、都野津の水尻橋の可能性があります。

上記記事より3か月後には下記のような記事が松陽新報に出ています。
松陽昭和6年12月1日2
昭和6年12月1日 松陽新報

「雲南の三橋改架」
「三島木次土木管区所長の談」
目下改架工事中の里熊、井羅原、木次の三橋工事は最近漸く進行し
近く最新式モダン橋が竣成するがこれが工事について監督の任にある
三島木次土木管区所長は工事の概況につき左の如く語る

橋梁改設の真髄は強度と美観にある、
如何に節約時代とても基礎工だけは万全の策を講せざれば
砂上の楼閣で交通上危険千万である故に三橋改架の基礎工事は最も堅牢にして
経済有利に計画施工が必要なるも土地の地表に顕れる部分は容易に其の性質を
弁別し得るも地面下には如何なる地層の存在するかを知るのは
最も我々土木屋の苦しむところである。

井羅原橋
三刀屋川の上流に架設するので基礎地質は砂利層で粘土を含み且つ玉石交じりの
硬盤であるので架橋地点としては理想的である。
橋脚は楕円形の重力式玉石混凝土三基なるが水深三尺余の箇所を
地盤より七尺掘下げ基礎混凝土作業成るを以て
数回出水の為め囲堤を流失させられたると大いなる転石砂利層中に
包含せられ掘鑿の困難なことはお話にならないくらい至難であるが
幸に請負人の献身的努力により予定通り進捗中である
(後略)


県の責任者が、井羅原橋の改架に関して
地質・土木の観点から述べています。

松陽昭和6年12月1日3
建設中の井羅原橋の写真付きです。これは貴重ですね。

図1
川に沿って道路が走っていることから、
上記写真は、古地図黄色矢印方向から撮影したものと思われます。
写真の中には、川の中の建設中の橋脚、鍋山側の橋台、
そして仮設橋なのか、木造の橋らしきものが確認できます。

そして、さらに3か月後には、完成した井羅原橋の記事が
写真付きで松陽新報にでていました。
松陽昭和7年3月17日t
昭和7年3月17日付松陽新報

「雲南の新橋井羅原橋無事工を終る」
府県道松江広島線飯石郡鍋山村地内井羅原橋の改架工事は
昨年9月起工、木次土木管区監督の下に
請負者清水組によって工事中のところ(昭和7年3月)15日無事竣工した。
因みに同橋は長さ47米幅5米87糎にして総工費8,740円88銭を要し
鉄筋コンクリートの最新式堅牢優美なるものである。


井羅原橋は昭和7年3月15日に竣工したことが分かりました。
「島根県の近代化遺産」では、井羅原橋の完成年を昭和9年としていますが、
当時の新聞記事により、正しくは昭和7年だったことが明らかになったわけです。

11
現在、栗原トンネル側から井羅原橋への旧道は通行止めとなっており、
井羅原橋が「通行するための橋」としての意義は無くなってしまっています。
老朽化も進んでいるため、「予算さえつけば」、
早晩に撤去されてしまうのではないかとも思われます。

【橋の諸元】
橋名:井羅原橋
竣工:昭和7年3月
型式:RC桁橋
所在地:雲南市三刀屋町乙加宮
川:三刀屋川
道路:?



  1. 2017/04/24(月) 01:06:30|
  2. 国道54号線の古い橋
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出雲横田駅(奥出雲町横田)

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出雲横田駅は木次線の要衝、駅舎は開業当初以来の木造駅舎です。

91120木次線1
昭和8年11月20日付山陰新聞

木次線の出雲三成~八川間は、昭和9年11月開業しました。
開業に伴い設置された駅は亀嵩、出雲横田、八川の三駅で、
いずれの駅舎も現在まで開業当初の姿を残しています。

91120木次線拡大1
新聞記事に掲載された開業区間の駅写真、上より、出雲横田駅、亀嵩駅、八川駅です。
すでに八川駅はご紹介していますが
亀嵩駅も玄関の位置が左右逆なだけで、八川駅とほぼ同じスタイルです。
これに対して出雲横田駅は社殿風で一段と立派な駅舎です。

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注連縄が印象的な玄関、神話のふるさと奥出雲らしいたたずまいです。

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「島根の近代化遺産」によれば、
建設にあたり、「神話の里、奥出雲にふさわしい駅舎を建設してほしい」という
地元の要望をくんで設計され、宮大工を呼び寄せて建てられたとのことです。

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外壁木部は校倉造り風のしつらえになっています。

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ホーム側からの眺め。
駅舎隣のトイレも、駅舎のデザインに合わせてあります。

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列車の本数の少ない木次線ですが、
駅舎の撮影中にトロッコ列車「奥出雲おろち号」が入線してきました。

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出雲横田駅周辺には、神話にまつわるスポットも数多く点在しています。
ぜひとも途中下車して駅を愛でつつ神話の里めぐりをしたいものです。

【撮影】
平成29年4月

【参考文献】
「島根の近代化遺産」  平成14年 島根県教育委員会

  1. 2017/04/16(日) 23:16:53|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
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石見横田駅(益田市神田町)

1
山口線の石見横田駅は、ごらんのとおりの素敵な木造駅舎が残っています。

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島根県教育委員会の「島根の近代化遺産」リストによれば、
大正12年の築とのことです。
山口線が津和野駅から石見益田駅まで延伸されたのが
大正12年の4月ですから、開業当初の駅が残されていることになります。

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駅正面から。

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程よく修復されており、美しい姿を保っています。

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ホーム側からの姿。

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構内踏切より益田駅方面を臨みます。

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駅前広場のタクシー会社事務所。現役です。

【撮影】
平成26年4月

【参考文献】
「島根の近代化遺産」  平成14年 島根県教育委員会

  1. 2017/04/09(日) 20:35:44|
  2. 島根県の近代建築・益田市
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海潮の歯科医院(雲南市大東町)

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旧大東町の海潮でこんな素敵なお医者さんを見つけました。
古風な門柱に洋館、典型的な戦前のお医者様です。

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完全な洋館ではなく、何となく和風のテイストも漂います。

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アーチな玄関庇が楽しい感じです。

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近くにはこのような建物も。駐在所でしょうか?

【撮影】
平成29年4月

  1. 2017/04/09(日) 13:55:32|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
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旧島根師範学校正門門柱(松江市西川津町)

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久しぶりに島根大学構内を散策していたら、妙なものを発見しました。
教育学部の玄関の向かいにある茂みの中です。

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これは何でしょうか?
門の一部のようにも見えます。

大学構内ということもあって、
大学の前身にあたる学校に関連するものではないか・・・。
と、帰京してから島根大学のサイトなどから古写真を確認してみました。

島根大学のサイトより、こちらの写真をご覧ください
かつて外中原町に所在した旧島根師範学校の正門門柱に酷似しています。

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古写真では、門柱からアーチ状に支柱が伸び、
門の真上にランプが取付けられているのが確認できますが、
現物でも頂部にその跡を確認することが出来ます。
おそらく、この石造物は旧島根師範学校正門の門柱の一部でありましょう。

旧島根師範学校の外中原校舎は明治37年に新築されていますので、
その当時に設置されたものと考えられます。
現在、旧師範学校の敷地は松江市立一中の敷地となっています。
教育学部が西川津に移転する際か、師範学校の遺構が取り壊される際にか、
記念として門柱の一部を移動させたのではないでしょうか。


現在の一中の敷地に何か名残は残っていないか・・・。
と、グーグル様で確認をしたら、このような通用門をみつけました。

図1
古写真の門柱と同様のデザイン・素材なので、師範学校時代の遺構と思われます。
敷地を取り囲む石垣も、師範学校時代の物のように見受けられます。

※いつも拝見している、島根大学ミュージアム様にもこの件をご連絡したところ、
  さっそく調べていただき、「島根大学ミュージアムのブログ」でも門柱を紹介していただいています。
 師範学校の経緯なども詳しく記載されていますのでぜひご覧ください。

【撮影】
平成29年4月

【参考文献】
「松江今昔 市制施行110周年記念写真集」 平成11年 松江市

【参考HP】
島根大学HP




  1. 2017/04/09(日) 12:57:21|
  2. 島根県の近代建築・松江市
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