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元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その9)

まる1年ぶりの松江大橋絵葉書ネタです(前回はこちら)。

1(チドリ無)
こちらの絵葉書、よくある松江大橋の絵葉書のように見えます。
松江倶楽部(大正10年)があり、
欄干は昭和4年改修以前
文化自動車バスが写っている、
橋の袂に御大典記念の街灯がない、
などから、
大正14年~昭和3年の間に撮影されたものと推定されます。

3_201911161548012e4.jpg
こちらの絵葉書もバスが写っていないという点以外は上掲の絵葉書とほとんど同じようですが、
一つ、より時代をこまかく特定できるネタがある事に気が付きました。

4_20191116154827be3.jpg
この赤丸の部分です。

5_201911161548296ae.jpg
赤丸部分を拡大してみました。
お分かりいただけたでしょうか、屋根の上に看板があり、
「チドリレコード」と書いてあるのが確認できます。

チドリレコードは、絵葉書の奥に写っている原田時計店(現在の創美堂)が
出していたオリジナルのレーベルで、大正6年から大正11年11月まで新譜を出していたそうです。

6 t060822チドリレコード
(大正6年8月22日付 山陰新聞)

当時の山陰新聞にも「肉声音盤」なる広告が出ていましたが、これがレコードのことでありましょう。

7_20191116154831d47.jpg
チドリレコードの看板により、撮影年代をさらに細かく特定できるものと思われます。
上掲のチドリレコードの看板入りの絵葉書の撮影年代を考察してみますと、
・松江倶楽部がある(大正10年冬以降*)
・チドリレコードの看板がある(大正11年11月以前)
・鯉のぼりが上がっている(端午の節句)
というところから、大正11年の5月頃に撮影されたものと推察します。

*松江倶楽部の建設時期については別途考察します。

8_20191116154833a8e.jpg
(GoogleMapより)

現在の松江大橋北詰の町並みです.
チドリレコードを出していた原田時計店は創美堂(&松江シティホテル)として現在も盛業中です。
絵葉書の「チドリレコード」看板をのせていた商家は、山口卯兵衛薬局の隣、
現在1階がヤマト運輸の集荷所になっている建物と推定されます。

【参考文献】
ミュージックマガジン1995年8月号 「続 蒐集奇談 ~松江のチドリ・レコード~」 岡田則夫 


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  1. 2019/11/16(土) 16:12:19|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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旧波積小学校講堂(江津市波積町本郷)その2

1_20191019133137890.jpg
以前ご紹介した旧波積小学校講堂について追記です。

波積小学校の講堂は昭和9年に建てられた歴史的な建築物です。
小学校は昭和55年に閉校し、校舎は解体されましたが(解体年不明)、
講堂は保存され、地域の公民館として活用されてきました。
平成20年に改修工事が行われ、波積ふれあいホールとしてリニューアルされ、
平成22年には「しまね景観賞」を受賞しています。

2 091202波積小
(昭和9年12月2日付松陽新報より)

昭和9年12月に新築落成式を迎えた際の新聞記事です。
当時の新聞記事より、建物に関する情報を抜き出します。

・波積小学校は明治34年に新築しその後3回に渡って増築したが近年腐朽が激しかった
・昭和9年1月28日に地鎮祭
・校舎、講堂の新築総工費26,300円
・昭和9年10月30日をもって全部の工事を完成した
・昭和9年12月2日に竣工落成式の式典を挙行
・工事請負者は山崎定市、工事監督者は坂本重義・二上信二郎


昭和9年前後の頃は明治期に建設された校舎が耐用年数を迎えており、
また、社会情勢の変化による生徒の増加も相まって、
「腐朽著しく・校舎狭隘」を理由に県内各地で小学校の増改築が進んでいます。
また、この年の9月には室戸台風による被害が県内にも大きな影響を及ぼし、
これを原因とする校舎の改築も、昭和9年以降増加しています。

2 091202波積小山崎定市t
(昭和9年12月2日付松陽新報より)

新聞記事より、校舎・講堂新築の請負人が波積村の山崎定市、
工事監督が坂本重義、二上信二郎ということが判明しました。

建築を請け負った山崎定市氏は波積小学校のほか、
昭和3年には山陰本線の石見福光駅の新設工事にもかかわっていた記録があります*。

工事監督の坂本重義は昭和2年竣工の矢上村役場の設計を行ったほか、
昭和10年に竣工した宅野村小学校講堂、吾郷村役場の設計もしていたようです*。

*いずれも松陽新報の記事より確認。

2 091202波積小t
新築当初の講堂の写真です。
当時は講堂の手前に御真影奉安庫が建っていたことが確認できます。

2_20191019133143cf8.jpg
上掲の写真とほぼ同じアングルでの現在の姿です。
奉安庫は痕跡も残っておりません。
妻面の出入り口は後付けのようですね。

3_20191019133145cda.jpg
以上、旧波積小学校講堂に関する補足でした。

【建物のプロフィール】
建物名:旧波積小学校講堂
竣工:昭和9年
構造:木造
設計者:? 
工事監督:坂本重義・二上信二郎
施工者:山崎定市

【撮影】
平成24年9月

【参考資料】
松陽新報記事



  1. 2019/10/19(土) 23:17:12|
  2. 島根県の近代建築・江津市
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旧阿須那郵便局(邑南町阿須那)

1
歴史的な街並みの残る、旧羽須美村(邑南町)阿須那の元郵便局の建物です。
現在は池月酒造の店舗兼事務所として使われています。
完全に池月酒造と一体化しているので、元々池月酒造の建物だと思っていたのですが、
SNS上で元郵便局と教えてくださった方いらしたので「羽須美村誌」にて確認したところ、
当該建物は郵便局だったという記述がありました。

いつ建てられたのか、いつ現局舎に移転したのかは資料が見つかりませんでしたので、
今後調査を進めていきたいと思います。

12_201910141607589e7.jpg
屋根をよく見てみると「〒」マークがあります。郵便局だった証ですね。

2_20191014160755d38.jpg
元郵便局正面。お酒を買いがてら建物の事を聞こうと狙っていたのですが、
あいにく訪問時はお休みだったようでかないませんでした。再訪の必要があります。

3
郵便局と池月酒造の全景。
阿須那も素晴らしい町並みが残っているので、もっと知ってもらえたらと思います。

【建物のプロフィール】
建物名:旧阿須那郵便局
竣工:?
構造:木造
設計者:?
施工者:?

【撮影】
平成26年4月

【参考資料】
羽須美村誌下巻 昭和63年 羽須美村

  1. 2019/10/14(月) 16:28:12|
  2. 島根県の近代建築・石見地方
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久手町の洋館と大田界隈の近代建築(大田市久手町)

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大田市久手町の町はずれに、立派な門構えのお屋敷があります。

2_20190923203836bdd.jpg
塀越しにただものではない風格の洋館が見えます。
居住空間としての和風建築と、書斎・客間としての洋館が組み合わさった、
いわゆる折衷住宅の一種でありましょう。
地方ではなかなか見ることのできない様式です。

3_201909232038383db.jpg
令和になって再訪したところ、屋敷を囲っていた門・塀が取り去られていました。
平成30年4月9日の島根県西部地震の影響でしょうか、
大田地域は震度5強を記録しており、塀の倒壊も多かったと聞きます。

4_20190923203839c79.jpg
敷地外から洋館を観察してみます。
腰回りをクリーム色のタイル、上半身はモルタルのたたき壁、
パラペットには洋瓦を設えたかなり立派な近代建築です。

5_20190923203841ca7.jpg
洋館から煙突が出ています。暖炉があるのでしょうか。
屋根には片流れ屋根が追加されています。

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黄土色のタイル、たたき壁、洋瓦などをあしらったこのようなデザインは、
近隣の旧久手産組事務所や、旧大田町産業会館に類似しています。

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久手町の中心部に建つ、昭和9年築の旧久手産組事務所です。
昭和9年、地元出身で武田五一の弟子でもある建築家の岡田孝男が設計し、
地元、大田町で活躍した建築家(大工?)の近藤常次が現場の監督をしています。

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現在は外壁が改装されていますが、当時のままと思われるタイル部分も残されています。
上記の洋館と同じ色合いです。

9 松陽(久手)S9 
(昭和9年8月12日付松陽新報より)
新聞記事の写真では不明瞭ですが、改装前の姿がわかります。
「久手は真秀ろば 二十二世紀の君たちへ」という郷土資料には、
この建物の正面で撮影された記念写真が掲載されており、
その壁面は上述洋館のようなたたき壁が確認できます。

10_20190923203848c12.jpg
こちらは大田市中心部の旧大田町産業会館の建物です。
昭和12年築で、設計者は久手産組の建設で現場監督をした近藤常次とされています。
この建物は塗壁部分はなく、全面が黄土色のタイルに覆われており、
開口部の庇には洋瓦が設えてあり、久手産組や上述の洋館との類似性を感じます。

まとめますと、久手町の洋館のスタイルは久手産組や大田町産業会館ととても似ているので、
2つの建物の建設時(S9、S12)と同時期に岡田孝男か近藤常次の設計によって建てられたのではないか?
という仮定はいかがなものでしょうか。ということであります。

この他にも大田には黄土色のタイルを用いた建物が複数確認できます。

11_20190923203850d92.jpg
旧大田町産業会館の隣にある「カフェギャラリーポー」さんです。
建築年は不明ですが、元は市の診療所だったこともある建物で、
ごらんのとおり黄土色のタイルを使っています。

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こちらは神田橋の袂に建っている、元商店の建築です。
この建物も黄土色のタイルで覆われています。

12 h1712
上記の元商店の北側にある、小川旅館の建物です。
出窓がオシャレで黄土色のタイルがあしらわれています。

14 大田市内の未確認物件
この建物はグーグルストリートビューで見つけた大田市内の建物です。
和洋折衷の建物ですが、要所要所に黄土色のタイルが使われています。

このように、大田市内(旧大田町内)に黄土色のタイルを使った建築が点在しています。
これはもう「大田様式」と名付けてもいいくらいですね(言ったもん勝ち)。

まだまだ大田市内や周辺にこの大田様式の物件があるのかもしれません。
久手産組や大田町産業会館に影響を受け、
地元の建築家である近藤常次による設計ではないかという事も示唆されますが、
近藤常次の詳細他、情報が少なく、今後も調査が必要です。


【参考文献】
大田市誌「十五年のあゆみ」 昭和43年 大田市
大田市三十年誌 昭和58年 大田市
日本近代建築総覧新版 昭和58年 日本建築学会
中国地方の西洋館 平成3年 白石直典
久手は真秀ろば 二十二世紀の君たちへ 平成12年 宮脇治正
  1. 2019/09/23(月) 22:52:46|
  2. 島根県の近代建築・大田市
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美保関小学校跡地その5(松江市美保関町)

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美保関の絵葉書シリーズ、今回は赤丸で囲った燈篭について整理したいと思います。

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前回取り上げた産業組合?の建物の先の防波堤にこの燈篭は建っていました。
絵葉書の右手前に写っている灯篭は美保関湾の西側、「弁天波止場の常夜燈」と呼ばれているもので、
天保13年に建立、明治3年に再建されたものです(現地案内板より)。

3_20190921220527d5e.jpg
上掲の絵葉書の拡大。産業組合?の事務所と共に燈篭が確認できます。

4 031015美保関大灯篭完成t
(昭和3年10月15日付松陽新報より)
この燈篭がいつ建立されたのか、という事については、当時の新聞から明確に特定することが出来ます。
昭和3年10月13日竣工、この年に行われた美保神社の正遷宮祭記念として建てられたことが
新聞記事に記されてありました。

・遷宮祭記念として東波止場先端に設置された
・台座部分の作成は美保関町の大坂某に依頼
・燈篭は松江市の渡部兵之助氏に依頼
・昭和3年7月起工、同年10月13日竣工
・総工費千二百円
・表面に横山美保神社宮司の筆蹟により「神光照海」を刻む
・燈篭には500燭の電灯を設置した

とあります。前述の美保湾西側の弁天波止場燈篭と共に、
美保湾口の灯台の役割を果たすことを企図していたようです。

5_20190921220530839.jpg
この大燈篭は現存しています。
燈篭の表面には新聞記事の通り、「神光照海」の文字がありました。

6_201909212205326e8.jpg

東波止場の防波堤はその後延長されており、
それに伴い燈篭の位置も移動しているようです。

7_201909212205331d0.jpg
現在は燈篭の先に現代的な灯台が設置されています。

8_20190921220535369.jpg
以上、美保関の東波止場の大燈篭についてまとめました。

美保関小学校の新築が昭和2年12月、
産業組合?の建設も小学校と同じころと推定され、
大燈篭は昭和3年10月完成と、3者の揃った時期が固まっているため、
これ等がまとまって写っている絵葉書であれば、
昭和3年10月以降に撮影されたものと判断することが出来るわけであります。


  1. 2019/09/21(土) 23:16:33|
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美保関小学校跡地その4(松江市美保関町)

1_20190921093809e29.jpg
美保関小学校が写されている絵葉書について整理してきましたが、
今回もそれに関連して、小学校の右手に建っている、赤矢印の物件について
整理してみようと思います。。

2_201909210938105df.jpg
上記絵葉書の建物の拡大画像です。
戦前らしい、役場や産業組合の事務所にありそうな風の建物です。

4_201909211103363e0.jpg
この建物、明治期の美保関小学校が写っている絵葉書には姿がありません。

3_20190921110335c02.jpg
講堂が新築された大正以降の絵葉書にも姿はありません。

5_201909210938154e0.jpg
絵葉書を確認する限り、この建物は昭和2年の美保関小学校と必ずセットで写っています。
このことから、小学校と同時期あるいはそれ以降に建てられたのではないかと思われますが、
以前ご紹介した昭和3年1月の小学校落成式の新聞記事にはこの建物が新築されたという
記述はなく、その前後の新聞でも、まだこの建物に関連した記事を見つけることは出来ていません。

6_20190921093816cbc.jpg
この建物の用途は何でしょうか?
港のはずれで、建物周辺には倉庫のような建築も多いことから、
漁業系の産業組合の事務所だったのではないかとブログ主は考えています。

8_20190921093820b94.jpg
この建物は平成の中頃まで残っていました。
写真は平成15年、大学生だったブログ主が美保関に遊びに行った際に偶然撮影していたものです。
まだデジカメでなくフィルム撮影でコマも限られていたというのに、
よくこの物件を撮影していたものだと、当時の自分に驚き、呆れます。

9_20190921093821195.jpg
絵葉書の姿と比べると、玄関の庇が失われてはいますが、それ以外は概ね当時のままでした。
廃墟然としていますが、物置のような使われ方をしていたように記憶しています。
平成29年に訪問した際にはすでに建物は無くなっていました。

7_20190921093818b12.jpg
これは完全な妄想なのですが、この建物は明治に建てられた
美保関小学校の部材を転用しているのではないでしょうか。

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比べてみますと、屋根が寄棟/入母屋という致命的な違いにまず気づきますし、
奥行きも小学校の方が深いことが分かります。
ただ、桁行で見ると長さは同じようですし、何より窓割がほぼ一致しています。

・当時は解体した部材の再利用は一般的
・美保関の地形上、大型建築物の新築・解体、資材の運搬は困難を伴う
・昭和2年築の小学校と、当該建物とが絵葉書に出現するタイミング

などから、昭和2年に校舎を新築する際、
解体した明治の校舎の部材で近場に産業組合の事務所を新築した・・・。
などという筋書きも無理はないと思うのですが、
いかんせん、資料がないので妄想の域を越えません。

島根県立図書館に、「美保関新聞」の縮刷版が保存されているということなので、
これを調べれば何かこの建物に関する記述があるかもしれません。







  1. 2019/09/21(土) 11:26:37|
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美保関小学校跡地その3(松江市美保関町)

01_20190916211914f1c.jpg
前回に引き続き美保関小学校についてのご紹介です。

【奉安庫跡?】
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旧美保関小学校跡地の片隅に、なにやら石垣と階段があるのを見つけました。

3_20190916211319f9b.jpg
石段を上がると「美保関小学校跡」と記された石碑がありました。
このスペースは何だったのでしょうか?
戦前の小学校にあった奉安庫(殿)の痕ではないか?
というのがブログ主の推測です。

奉安庫(奉安殿)は、学校に下賜された御真影(天皇皇后両陛下のお写真)を
保管するための建物で、戦前に各地の学校に建てられたものです。
独立した建物を建てるケースもあれば、校長室の一郭に庫を設えたり、
様々なケースがあったようではあります。

img460.jpg
こちらは「櫻山小学校」*の奉安庫の絵葉書です。
立派な基壇の上に奉安庫が建っています。
旧美保関小学校跡に残っているのも、奉安庫の基壇だったのでは?ということです。

*櫻山と名の付く小学校は全国に複数あるため、どこの小学校かは現在のところ不明です。

4_201909162113214dd.jpg
なかなか立派な装飾が残されています。

011.jpg
手持ちの美保関小学校が写っている絵葉書を色々探してみましたが、
明瞭に奉安庫が写っているものはありませんでした。
赤円内に心の目で見るとそれらしきものが写っているようにも感じられますがどうでしょう・・・。

現段階では、これが奉安庫の跡と確定できる資料は見つけられませんでした。
当時の新聞などを確認すると、奉安庫竣工の記事が出てくるかもしれません。
今後も調査を継続していきたいと思います。


【撮影】
平成29年12月





  1. 2019/09/16(月) 21:36:43|
  2. 島根県の近代建築・松江市
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美保関小学校跡地その2(松江市美保関町)

030113美保関小学校t
前回、昭和2年築の旧美保関小学校の遺構についてご紹介しましたが、
今回はその続きとして、当時の史料や絵葉書をもとに、
旧美保関小学校の校舎の変遷について整理したいと思います。

図1
この表は、昭和3年の美保関小学校落成式について記載された
松陽新報の記事にあった小学校の歴史と、美保関町誌の記述とを合わせ、
時系列にまとめたものです。

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島根県有数の観光名所でもある美保関は、
戦前より多くの絵葉書が発行されており、
その絵葉書に小学校が写っているものが少なくありません。

前述のA~Dの小学校に外観上の大きな変化があったであろうイベントに対し、
そのイベントが表されている絵葉書をピックアップしてみて、
視覚的な小学校の変化を整理してみたいと思います。


【A 明治30年、二階建校舎建築】
①
美保関小学校の始まりは仏谷寺本堂を仮校舎としたところからスタートします。
その後、明治8年に現在地、もと藩政時代の番所があったところを校地として、
元の番所の建物を西洋風に改造して校舎に充てたと松陽新報に記されています。
その時代の校舎が写っている絵葉書はまだ見つられていません。
手持ちで最も古いのが、この画像の明治30年に建てられた2階建校舎のものです。

①-1
上記絵葉書の校舎部分の拡大です。
明治30年に番所を改造して建てた校舎を改築したものです。
明瞭な画像ではないですが、あまり洋風の要素がなさそうな建物です。

【B 大正3年、講堂増築】
②
大正3年には、町の公会堂を兼ねた講堂が増築されています。

②-1
なかなか大きな建物だったようで、頭一つ抜けています。
(建てられた位置が高い場所だっただけかもしれません)

【C 昭和2年、増築校舎竣工】
③
前述の通り、昭和2年の12月に、河合藤助設計の新校舎が竣工します。
当時の新聞によれば、旧校舎は講堂と2教室を残し、80%を改築したとあります。
また、改築に先立って旧校舎の移築を行ったとありますから、
おそらく、講堂部分を移動させ、そのうえで校舎の新築を行ったのでありましょう。

③-1
新校舎部分の拡大です。まだ校舎の前に校庭は無く、船を揚げるスペースになっているのが分かります。
校舎の左奥に後ろに続く建物が見えますが、これが移動された講堂なのではないかと思われます。

【D 昭和9年、校庭拡張】
④
昭和9年には校庭が拡張されています。
これは現在も校庭跡として残る、校舎前の敷地のことと思われます。
この変化は絵葉書でも明確に確認することが出来ます。

校庭1
校庭の今。

④-1
絵葉書の拡大。校庭に食い込んでいるような民家がありますが、
移転に応じなかったんでしょうね。

校庭3
海側から現在の校庭の姿。美保関灯台へ通じる道路が出来て、海が遠くなりました。
護岸の石垣は当時のままの様に思われます。


【まとめ】
美保関小学校の変遷についてまとめてみました。
当時の新聞や絵葉書などから、美保関小学校がどのように変化したのかがある程度
整理できたのではないかと思われます。
また、美保関小学校の変遷を整理することで、美保関の絵葉書の撮影年代も、
小学校をベンチマークとすることである程度絞ることが出来るわけであります。

いずれにしても、この地から美保関小学校がなくなって半世紀たつわけですが、
それでも敷地や、土台、石垣などが現在も残されており、まるで古城のように、
往時の面影を偲ぶことが出来るというのは有り難いことですね。

【参考文献】
昭和3年1月13日付松陽新報
美保関町誌上巻 昭和61年 美保関町誌編さん委員会


  1. 2019/09/01(日) 23:53:03|
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美保関小学校跡地その1(松江市美保関町)

①
美保関の町は、美保関湾と海に迫る山との境界に少しだけ開けている土地に沿って、
うねうねと細長い集落が形成されています。
美保神社から青石畳を抜け、歴史を感じさせる町並みを進んでまいりますと、
やがて空き地のような開けた場所へ抜けることができます。

ここは、明治8年から昭和41年まで、美保関小学校があった場所です。
画像右手の空き地は元の校庭だったところです。

② 030113美保関小学校(松陽)
(昭和3年1月13日付松陽新報)
美保関小学校はこの地で何度か増改築を行っていますが、
その中でも上記の新聞記事にある昭和に増築された校舎は
その後、昭和41年の移転まで使用されています。

新聞記事には、校舎の設計は広瀬町の河合藤助、
増築工事の請負は米子市の河津庄太郎で、
昭和2年12月10日に竣工したとありました。

河合藤助は広瀬町の腕の立つ大工さんだったようです。
同じ美保関で登録文化財になっている美保館旧本館(S7)も河合藤助によるものです。
その他、河合藤助が手掛けたものとして、
広瀬小学校(T15)、松江の大橋館(S7)、下山佐小学校(S9)、布部村役場・産組(S10)、
広瀬警察署(S10)、布部小学校(S12)、山佐村役場・産組(S13)などが確認できます。

③ 030113美保関小学校tt
新聞に掲載された昭和3年校舎の拡大です。
高低差があって石垣赤築かれており、その上に校舎が建てられています。
矢印の部分、通気口にご注目ください。

④
上記新聞記事の画像、校舎跡と同じ場所の現在の姿です。
いかがなものでしょうか、当時の石垣・土台・通気口が残っています。

⑤
石垣と通気口のある土台部分は、校舎がなくなった後も残っており、
一部は校舎跡に建てられた民家の土台になっていました。

⑥
中央の階段が、元の玄関の階段でありましょう。

⑦
030113美保関小学校tt
階段部分も当時のままの様に思われます。

⑦」
階段。階段を上がった先は現在、奥に続く民家への路地になっています。

以上、美保関小学校跡地のご紹介でした。
学校がなくなった後も、石垣や校舎の土台がそのまま残っているのは
なかなか珍しいケースなのではないかと思います。

⑧
今回ご紹介した美保関小学校のこの校舎は、美保関を写した絵葉書にもよく登場しています。
次回以降、絵葉書に写る美保関小学校の変化を踏まえて、
絵葉書の年代特定と小学校の校舎の変遷について整理します。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:美保関小学校
竣工:昭和2年12月
構造:木造
設計者:河合藤助
施工者:河津庄太郎

【撮影】 
平成29年12月

【参考文献】
昭和3年1月13日付松陽新報
美保関町誌上巻 昭和61年 美保関町誌編さん委員会



  1. 2019/08/13(火) 11:13:46|
  2. 島根県の近代建築・松江市
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旧景山家住宅(奥出雲町三沢)

4
以前ご紹介した奥出雲町三沢の旧家について、「島根県の近代和風建築」に詳細がありましたのでご紹介します。

5
この建物は旧景山家住宅といい、この土地の名家のお屋敷でした。
かつては造り酒屋も営んでいたようです。

建物の建築は昭和2年、設計は佐藤作造、棟梁は長谷川松太郎という方で、
この棟梁は出雲エリアの豪農のお抱え棟梁だった方だそうです。

この建物は訪問した平成29年の段階では空き家の状態でしたが、
翌平成30年になって奥出雲町の手により、起業・創業の活動を支援する拠点として
改修され、現在、「みらいと奥出雲」と名付けられて活用されています。

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ちなみに景山家の近くにある赤枠で囲った建物も現存しているのです。

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「島根県の近代和風建築」によりますと、大正9年に建てられたとのことです。

【建物のプロフィール】
建物名:景山家住宅(みらいと奥出雲)
竣工:昭和2年
構造:木造
設計者:佐藤作造
施工者:長谷川松太郎

【撮影】
平成29年4月

【参考資料】
島根県の近代和風建築 平成30年 島根県教育委員会



  1. 2019/08/10(土) 10:35:22|
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