元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧吉田小学校講堂(雲南市吉田町)その2

1
以前ご紹介した、旧吉田小学校講堂ですが、
建築当初の様子や学校の歴史などについて調べてみましたので、二回にわかってご紹介したいと思います。

旧吉田小学校講堂に関しては、松陽新報昭和12年12月21日付の記事にその詳細が記載されていますので、
必要な部分について抜粋してみます。

2
松陽新報(昭和12年12月21日付)

「飯石吉田小学校 移転新築落成式挙ぐ」
飯石郡𠮷田村小学校は近時学童の著しい増加にともない校舎の狭隘を生じ、
これが改築移転の議起り、挙村一致去る昭和10年6月整地に着手、
一般村民、在郷軍人会、青年学校生と青年団員等の労力奉仕にて同9月中旬完了、
つづいて昭和11年2月20日、総工費7万円余をもって嘉村和市氏請負建築に着し、
この程完成したので21日午前10時より盛大なる落成式を挙行するが・・・
(後略)

「誓ふ教育報告 吉田村小学校長 曾田為市氏談」
(前略)
現在の校舎は大正7年7月に新築落成当時に於いては郡内稀な完備したものであったが、
本村は築年学齢児童が著しく増加するので改築の必要が迫った
現校地は拡張の余地がないので遂に移転改築の議成り、昭和10年6月から敷地土工に着手
、熱誠溢れる全村民諸君と村内各種団体員各位の奉仕及び寄付金とによって同年末土工は竣工した。
校地は元耕地で
(中略)
本年5月校舎建築の起工ありここに落成式を挙げらるるに至った
校舎は木造二階建、其他講堂屋内体操場などこの新築費惣工費6万数千円を要し、
講堂、普通教室、事務室、応接室、器具図書室、衛生室あり。
特別教室としては手工室、理科室、家事室、作法室、屋内体操場備わり、
付属建物としては使丁室、物置、便所など完備し、
殊に講堂作法室は真に児童生徒の精神道場として最も相応しい立派なものである
(中略)
移転新築の議が起こるや教育に深き理解と同情とを有せらるる田部家よりは、
敷地の無償提供、建築費へ金二万五千円の巨額並びに
備品などの御寄贈ありしのみならず工事に対しても多大のご援助を仰ぎ・・・
(後略)


記事冒頭の要約と、その次の校長先生談話とで、
建築年などに食い違いが見られますがおおよそ以下の事実を読み取ることが出来ます。

・従来の校舎(大正7年7月竣工)が老朽化し、児童も増えて手狭になった
・改築に際しては田部家が新しい土地と建築費用(2万5千円)、備品を提供してくれた
・敷地の整地にあたっては村民、村内各種団体の奉仕活動があった
・建築費は7万円前後
・建築請負は嘉村和市
・2月or5月に着工、12月ごろ竣工

𠮷田村は山林王田部家のおひざ元ですから、田部家から相当の協力があったことが窺えます。

3
松陽新報(昭和12年12月21日付)

名刺広告のページを抜粋してみました。
田部長右衛門(22代)とその子息の田部朋之のお二人がトップを飾っています。
田部朋之は後の23代田部長右衛門となる人で、
戦後、3期にわたって島根県知事(昭和34年~昭和46年)を務めています。

田部家の下には「工事監督 落合伝四郎」、「請負業 嘉村和市」の名があります。
「落合伝四郎」は当時の新聞を確認すると、直江小学校(大正15年)、塩冶小学校(昭和3年)、
稗原小学校(昭和12年)、朝山小学校(昭和12年)などの工事監督に関わっていました。

「嘉村和市」は上津村(現出雲市)の人で、大正~昭和期の出雲地方の学校建築などにその名が見られます。
吉田小学校とほとんど同時期に、大社の大社高等家政女学校の校舎も手掛けています。
今ほど交通が便利ではなかった時代、
同時期に離れた工事現場を掛け持ちするのは大変だったのではないかと思います。

4
建築当初のものと思われる絵葉書です。
2階建ての校舎の両翼より左手に現存する講堂、右手に特別教室?が張り出している形です。

5
講堂部分を拡大してみました。
現在の姿と比較してみますと、建築当初とほとんど姿が変わらないことが分かります。




スポンサーサイト
  1. 2017/09/24(日) 13:30:24|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

西郷岬灯台(隠岐の島町岬町)その2

CIMG7849.jpg
以前ご紹介した、島後の西郷岬灯台について、戦前の絵葉書を手に入れましたのでご紹介します。

img454t
古い絵葉書には灯台の外、官舎らしき寄棟の建物が確認できます。
灯台周辺は背の低い塀が廻らされているのも確認できますね。

CIMG7822_201709231656332ca.jpg
絵葉書に近いアングルで撮影した写真です。向かって右側が西郷湾側です。
もう少し引いて撮りたかったのですが、崖から落ちます。
昔の写真で国旗がたなびいている柱とほぼ同じ位置に、現在はアンテナ塔が建てられています。

CIMG7852_20170923165636d70.jpg
灯台全景。手前の空き地が官舎等の付属施設の建てられていた場所です。


  1. 2017/09/23(土) 17:06:24|
  2. 島根県の近代建築・隠岐地方
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

旧白鳥村信用組合倉庫(市原市大久保)

CIMG3503.jpg
模型仲間とともに小湊鉄道の「里山トロッコ」を楽しんでおりましたところ、
上総大久保駅を出たところで車窓に気になる物件を見つけました。
JAの支店とその倉庫といった風情ですが、すでに看板をはずされ、ATMも動いていなさそうな雰囲気です。

CIMG3504.jpg
事務所棟の隣には農業倉庫。手前は新しい増築風ですが、その奥には昔ながらの倉庫のようです。

CIMG3504t.jpg
注目すべきは倉庫の「鉢巻」の部分に書かれている文字です。

CIMG3504ff.jpg
一部不鮮明ですが「保証責任白鳥信販購利組合農業倉庫」とあるようです。
「信販購利」は「信用販売購買利用」の略でありましょう。
信用販売購買利用組合、これはJAの前身となる戦前の産業組合の形態の一つです。

戦前の産業組合の歴史は非常にむつかしく、無学なブログ主にはいまだ理解できない点が多いのですが、
ウィキペディアなどの説明によれば、産業組合は昭和18年には戦時統制によって解散しているようです。
ということであれば、この倉庫に書かれた文字は、戦前の産業組合時代に書かれたものという事になります。

「白鳥」はこの地域の旧白鳥村のことでしょう。白鳥村は明治22年の町村制施行で成立し、
昭和28年に近隣の町村と合併して加茂村となっています。

以上、(多分)旧白鳥村の産業組合倉庫のご紹介でした。
戦前の産業組合時代からの倉庫の現存は各地にありますが、
当時の「信用購買販売利用」の文字が残されているという点で貴重な物件と思われます。

  1. 2017/08/28(月) 22:15:31|
  2. 島根県以外の近代建築
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

津森医院(松江市本庄町)その2

1
だいぶ前にご紹介した、松江市本庄町の津森医院について補足です。

津森医院の築年代について、島根県教育委員会の「島根の近代化遺産」リストでは昭和元年、
文化庁のデータベースでは昭和初期としてあります。
大正天皇が崩御された大正15年12月25日をもって昭和に改元されていますから、
昭和元年は12月25日から12月31日までのわずかの期間しかなかったことになります。
ということで、津森医院は本当に昭和になってから建てられた建物だったのだろうかと
少し疑問というかもやもやしていたわけですが、当時の新聞に素敵な記事を見つけたのでご紹介します。

15104津森医院d
(大正15年10月4日付山陰新聞)

いかがなものでしょうか、大正15年10月の新聞に、津森医院が新築落成したことを伝える広告が掲載されていました。
この広告により、津森医院は大正15年の10月には「新築落成」していたことが明らかになりました。
森医院の竣工年については、これまで昭和元年とされてきましたが、
大正15年築としたほうが正確なのではないでしょうか(実質同じ年ではあるのですが)。

※ちなみに、こちらの資料では施工を松江市の伊藤善平としています。
ブログ主的には初めて聞く名前なので、今後、施工・設計についても調べていきたいと思います。




  1. 2017/08/19(土) 22:52:47|
  2. 島根県の近代建築・松江市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

旧本郷青年倶楽部(大田市温泉津町湯里)

1
以前ご紹介した旧湯里村役場前の通りを海方向へ、歩いていくと、こんな建物に出会いました。

民家にしては大柄で何となく明治~大正期の小学校の講堂にも見える建物です。
気になる建物でしたが、旧湯里村の歴史を記した「ふるさとアルバム」という資料に、
昭和初期に「本郷青年倶楽部」として建てられたものという記述がありました。

2
映画を上映したり、会合などに使われたとありました。
「青年倶楽部」というくらいですから、主に地元の青年団が利用していた施設なのかもしれません。

3
伝統的な建築手法の延長線上ある建築で近代建築的な要素はありませんが、
戦前に地方の農村で建設された集会所施設の現存例として貴重な物件と思われます。

【撮影】
平成27年1月

【参考文献】
ふるさとアルバム 平成8年 山本隆慶
  1. 2017/08/16(水) 22:19:03|
  2. 島根県の近代建築・大田市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

母里小学校校門(安来市伯太町西母里)

CIMG9343.jpg
旧伯太町の母里小学校の校門です。
「郷土母里」によれば、昭和3年に建立されたものとのことです。

CIMG9344.jpg
なかなかオシャレなデザインです。
上述の「郷土母里」によれば、「人造石洗出し工法により仕上げられている」とありました。
校舎はすっかり建て替えられていますが、校門は昔のままの姿で残されています。

【撮影】 
平成26年9月

【参考文献】
郷土母里第2輯 平成16年 母里公民館・ 母里郷土誌編纂委員会

  1. 2017/08/16(水) 21:47:41|
  2. 島根県の近代建築・安来市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

来原岩樋の水門上屋(出雲市大津町来原)

1_20170801222540c8e.jpg
来原岩樋は元禄年間、斐伊川から高瀬川への取水口として築かれた水門設備です。
出雲今市の街中を通る高瀬川は出雲平野を潤すための農業用水として大梶七兵衛によって開削されました。
当初の斐伊川からの取水口は木で作られていたそうですが、これが洪水などで破損する恐れがあった為、
岩樋(つまりトンネル)を掘って取水口を新たに設けたものです(岩盤を掘り抜いて導水することで、
岩盤が天然の堤防としての役割を果たして取水口を守ることが出来るということだと思います)。

用水の取水口としての役割だけでなく、斐伊川と高瀬川をつなぐ高瀬舟の水運にも利用されましたが、
水位の異なる二つの川を通るために、岩樋に設けられたゲートを上下させることで水位を調整しながら船を通過させる
「閘門」も機能も持っていたそうで、土木学会の選奨土木遺産にもなっています。

※以上のようにわが国の貴重な物件であり、行政側でも岩樋周辺を保全して綺麗に整備してくださっているのですが、
肝心の「岩樋」部分は奥まったところにあって、一般の見学では見ることができないのが残念なところであります。
写真で見ると非常に迫力があって、見応えがあるのに残念なことです。
近くまで行けると良いのですが・・・。


2_2017080122254172d.jpg
来原岩樋の閘門機能については、現地の説明版に丁寧な説明がありました。

3_20170801222542f0e.jpg
ご紹介する物件は、上記の2画像とは岩樋をくぐって斐伊川側、
斐伊川からの取水口の水門部分にかけられた上屋の部分です。

9_20170801222552522.jpg
元々は斐伊川に直接面していたのだと思うのですが、
現在は県道と改修された高い堤防に囲まれて、やや存在感が薄くなってしまっています。

4_20170801222544f9d.jpg
外観はご覧の通りいたってシンプルなデザインです。

5_20170801222545446.jpg
建物正面にはこのような立派な額が設置されています。
一部達筆すぎて読めませんがおおよそ下記の通り記されています。
「来原岩樋 元禄〇開 大梶氏開鑿 島根県知事 男爵大森佳一 書」

6_20170801222548fc9.jpg
建物入口の脇には、このような名板も設置されていました。
「岩樋上家改築 昭和5年5月」
これにより、この上屋が昭和5年築ということが分かりました。
山陰新聞、松陽新報の昭和5年頃の記事を調査中ですが、
今のところ当該上屋新築に関する記事は見つけられていません。

7_20170801222549c7a.jpg
入口から柵越しに中を覗いてみますと、木製の水門設備の跡が確認できました。
現在は岩樋の向こう側に水門設備が設置されているので、こちらは使用されていない様子です。

8_20170801222550993.jpg
水門設備の下では、水がジャージャーと岩樋に流れ込む音が響いていました。

10_20170801222553d4a.jpg
上屋と取水口の全貌。現在もここから水が取り込まれて、高瀬川へと通じているわけであります。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:来原岩樋上屋
竣工:昭和5年5月
構造:?
設計者:?
施工者:?

【撮影】 
平成27年9月

【参考文献・HP】
写真集明治大正昭和出雲 昭和54年 石塚尊俊・ 原宏一
土木学会選奨土木遺産「来原岩樋」
中国建設弘済会資料
出雲市資料「来原岩樋の土木学会選奨土木遺産認定について」

  1. 2017/08/01(火) 23:17:13|
  2. 島根県の近代建築・出雲市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

国道54号線沿線に残る戦前の橋【その14・下津原橋】

1_20170730221335f32.jpg
「国道54号沿線に残る戦前の橋」シリーズ、その14は下津原橋です。

2
陸地測量部「木次」昭和7年より

前回の井羅原橋と下津原橋の位置関係を示します。
旧道は井羅原橋で三刀屋川を渡り、しばらくは川沿いに、
三刀屋の手前の殿河内地区まで来て下津原橋で再び川をまたいでいました。

3
国土地理院WEBより

現在の国道54号線は旧道の北側にトンネルと橋とでショートカット。
下津原橋前後の道は生活道路として残りました。

4_20170730221339459.jpg
下津原橋の全景。どっしりした橋脚を2本持つ、堂々たる鉄筋コンクリート桁橋です。
「島根県の近代化遺産」によれば、昭和8年の架橋とのことです。

5_20170730221341c05.jpg
旧国道らしい2車線弱の道路幅。架橋当時は十分な道幅だったのでしょう。

6_20170730221342209.jpg
親柱は国道54号線に沿いの同年代の橋に比べてモダンなデザインです。
橋名板は失われていますが、その跡らしい凹みは残されており、
この跡の形状からすると橋名板は横書きでカーブを描いていたことになります。

7_201707302213438fc.jpg
親柱と欄干。欄干は鉄筋コンクリートの短冊形。わりと平凡なデザインでした。


【橋の諸元】
橋名:下津原橋
竣工:昭和8年(「島根県の近代化遺産」より)
型式:RC桁橋
所在地:雲南市殿河内
川:三刀屋川
道路:雲南市市道?

【撮影】
平成25年9月



  1. 2017/07/30(日) 22:34:57|
  2. 国道54号線の古い橋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

旧安来銀行その2(安来市安来町港町)

1_201707172238168d1.jpg
以前ご紹介した、初代*安来銀行の建物について、
新しい資料が見つかりましたのでご紹介します。

*安来銀行の設立は明治29年なので、当該建物の建設以前に、安来銀行として使用されていた建物があるわけですが、
面倒なので本稿では便宜的に「初代」とします。よって、大正4年築の煉瓦の銀行は「二代目」と呼称します。


2安来町全景其1
「安来町全景(其一)」とキャプションのついている古絵葉書です。
この左に其二が続くようになっていて、十神山側から安来港を臨む安来の町を写し出しています。

ヤフオクでなんとなく落札した絵葉書セットでしたが、よく見るととんでもないものが写っていることに気が付きました。
(初代安来銀行なんですが)

3安来町全景其1
絵葉書の矢印の部分です。

4安来銀行拡大
矢印部分を拡大してみました。
明治34年築の初代安来銀行が写っていました。

5安来銀行拡大
さらに拡大してみます。
2階部分の3つの窓、窓横の帯状のなまこ壁、初代安来銀行に間違いありません。

6_20170717223823607.jpg
現在の姿をみると建物左端が削られているような姿ですが、
絵葉書でも左右非対称で左側は壁の面積が少ないように見えます。
当初から左右非対称の姿だったことが絵葉書から確認できました。

7拡大2
余談ですが絵葉書の安来銀行から左へ二軒離れた赤丸で囲った商家ですが・・・。

8_20170717223826bb4.jpg
現存していることが分かりました。
2階の低い土蔵作り、2階の左に寄った窓など、絵葉書当時のままです。

9安来町全景その2印あり
上述の絵葉書の続き物です。
「安来町全景(其二)」とあり、其一の東側の町並みを写しています。

10二代目拡大
上記の赤丸部分を拡大してみました。
大正4年築の煉瓦建築で有名な二代目安来銀行が写っています。

この建物が写っているということは、この絵葉書の写された年代は大正4年以降ということになり、
初代の安来銀行はすでに銀行ではなくなっていた時期ということになります。

なお、絵葉書年代測定法で発行年代を推定してみますと、
当該絵葉書の裏面は通信欄が1/2なので大正7年以降、
「きかは便郵」の表示があるので明治33年~昭和8年の間ということになります。
すなはち、当該絵葉書が発行されたのは大正7年以降、昭和8年までの間ということになります。

初代安来銀行の戦前の画像などはこれまで見つけられなかったので、
今回、不鮮明ながらも古絵葉書から当時の姿を確認することが出来たのは、
大変にうれしい出来事でありました。


【参考文献】
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書  平成14年  島根県教育委員会
島根県を中心とした産業発展の歴史 明治・大正編Ⅲ
    平成25年 エネルギア地域経済レポート 中国電力㈱エネルギア総合研究所

  1. 2017/07/17(月) 22:44:55|
  2. 島根県の近代建築・安来市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

旧吉田信用購買販売利用組合事務所(雲南市吉田町)

1
旧吉田村の中心である吉田の町はメインストリートのなだらかな坂の通りに沿って、
田部家の土蔵群をはじめとした歴史的な街並みが形成されており、
たたら製鉄でにぎわった近世・近代の面影を現在に伝えています。

2
今回ご紹介する「旧吉田信用購買販売利用組合事務所」は、
そんな歴史的な街並みの一角にあって洋風の意匠が町並みに彩をそえる素敵な近代建築です。

この建物は、昭和6年*に吉田村の産業組合の事務所として建てられたもので、
現在も旧吉田村地域の商工会館として利用されているようです。
「新版日本近代建築総覧」によれば、設計は秋鹿隆一郎とされています。

*建築年についての考察は後述

3
玄関周りの意匠。

4
木造二階建てで、当時の洋風建築としては標準的なサイズと見受けられますが、
一階部分の窓の高さがかなり低く抑えられており、
その分、一階窓と二階窓との間の飾り板が縦に長過ぎる感じがあり、
やや全体のバランスが悪いような気もしないでもありません。

5
飾り板の意匠などは、後年秋鹿隆一が設計した、有福小学校の校舎にも似たデザインです。

6
建物の裏側。

7
建物正面向かって左側には後年のものと思われる増築部分がありました。
二階窓は左右対称になっていますが、左端の窓下の飾り板部分は半分くらいで切られており、
何らかの改装が後年なされた可能性もあるかと思われます。


【建築年に関する考察】

建築年については、前述の「新版日本近代建築総覧」のリストでは昭和6年とされていますが、
その後、平成14年に島根県教育委員会から出された「島根の近代化遺産」によるリストでは、
「昭和7年頃」と記載されています。

旧𠮷田村については村誌が刊行されていないため、
近現代の吉田村の動きを体系的に追うことができません。

しかし、当該信用組合事務所については幸いなことに、
戦前に刊行された「島根県飯石郡𠮷田村誌資料第2輯」という資料に、
建設当時の状況に関する記述が残されていました。少し長いですが引用します。

島根県飯石郡𠮷田村誌資料第2輯(昭和11年版) 愛郷会編輯部編
77.無限責任吉田信用購買販売利用組合の沿革

昭和6年
・事務所狭隘なるを以て新築することに決し9月4日吉田町1576番地堀江稲行氏宅を仮事務所として移転す
・9月10日事務所新築地鎮祭を行う

昭和7年
・事務所新築略ぼ完成したるを以て請負者より仮受取をなし1月4日新事務所に移転す
・本館 間口8間奥行6間(二階建)建坪48坪
・倉庫 間口7間奥行2間半(平屋)建坪16坪5合
此惣工費 4600円也
工事請負者 吉田村職工会
・(4月21日)事務所新築落成祝賀会兼25周年記念式を開催す


いかがなものでしょうか、事務所がほぼ完成したので、昭和7年1月4日に新築事務所に移転したとあります。
なんと微妙な時期に完成したのでしょう。
これは「島根の近代化遺産」が建築年を「昭和7年頃」とした気持ちも何となくわかるような気がいたします。

1月4日に移転ということは、さすがに三が日に作業をしていたとは考えにくいですから、
昭和6年の暮れにはおおむね出来上がっていて、正月過ぎてから仕事始め?の4日に
移転しようということになったものなのではないでしょうか。

2
外装もきれいに保たれていて大切にされていることが分かります。
せっかくなのでカフェや町並み資料館のような形で観光客にも開放していただけると、
吉田の町歩きの魅力も増すのではないかと思います。

1
こういう風景を見ていると島根に行きたくなります。



【建物のプロフィール】
昔の建物名:旧吉田信用購買販売利用組合事務所
現在の建物名:吉田村商工会館
竣工:昭和6年
構造:木造2階建
設計者:秋鹿隆一
施工者:吉田村職工会

【参考文献】
島根県飯石郡𠮷田村誌資料第2輯 昭和11年 愛郷会編輯部編
新版日本近代建築総覧 昭和58年 日本建築学会
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会

  1. 2017/07/14(金) 23:29:37|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ