FC2ブログ

元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

国道54号線沿線に残る戦前の橋【その16・八雲橋】

1_2018111922120622b.jpg
国道54号線シリーズその16は八雲橋です。

2_2018111922120716e.jpg
(陸地測量部「木次」昭和7年より)
場所はこちら。
前回ご紹介した成木橋で三刀屋川を渡ったのち、道は川の蛇行に沿って三刀屋へ続きます。
八雲橋はその途中、三刀屋川に合流する飯石川に架かる橋です。

3_2018111922120939a.jpg
(国土地理院WEBより)
現在の国道は三刀屋トンネルで三刀屋へ一直線です。

4_201811192212107fe.jpg
八雲橋の全景。橋は単純なRC桁橋ですが、
欄干のデザインが特徴的です。

5_2018111922121233f.jpg
コンクリート製のアーチ型をした欄干が4連続。

6_20181119221213aa8.jpg
国道54号沿線の戦前架橋の橋の中でも、
もっともデザインが凝っている橋だと思います。

7_20181119221215b97.jpg
アーチとアーチのつなぎ目。

8_201811192212161b1.jpg
1基のみ残っている親柱には達筆で「八雲橋」とあります。
架橋年はわかりません。

9_20181119221218e3f.jpg
橋面は美しい人造石研ぎ出し仕上げ。
細やかな造作を感じます。

10_201811192212193b8.jpg
以上、八雲橋でした。
ご覧の通りの小さな橋なのですが、
デザインや仕上げの凝りようは沿線随一と思われます。

【橋の諸元】
橋名:八雲橋
竣工:?
型式:RC桁橋
所在地:雲南市三刀屋町粟谷
川:飯石川
道路:市道?

【撮影】
平成26年4月




スポンサーサイト
  1. 2018/11/19(月) 22:19:05|
  2. 国道54号線の古い橋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

浜田の絵葉書より(その5)

①img261
前回(その4)の補足です。
その後、ブログをご覧いただいている元地元民様から
貴重な情報をいただきました。

②
この赤枠の中の大屋根は、「末広座」という劇場のものでは、という情報です。
末広座はその後火災で焼失し、跡に日勝館と名を変えて再建されたとのことで、
この点について当時の新聞記事などを確認してみました。

【末広座の位置】
3_201811182217523e7.jpg
大日本職業明細図より

大日本職業明細図の浜田町の地図に末広座を確認しました。
地図を仔細に確認しますと末広座の南東には今宮神社という表記があります。
この神社は絵葉書のタイトルにある「昭三公園」内に建立された神社です。
末広座の北西には佐野屋呉服店の表記もありますから、
この地図上に記された末広座の位置は、
絵葉書に写された大屋根の位置と合致する事になります。

4_20181118221755119.jpg
絵葉書と大日本職業明細図とを並べてみてみましょう。

【昭三公園とは】
昭三公園という少し変わった名前の公園の正体については、
昭和3年10月の松陽新報にその答えがありました。

③031016昭三公園
(昭和3年10月16日付松陽新報より)

「今宮遷宮 昭三公園の賑い」
既報那賀郡浜田町の中央南寄りの丘を開拓した昭三公園が愈々出来上がった
園内より浜田全町を俯瞰され其眺望も美しく杖を曳くには絶好の場所である
猶十四日は園内に新築した今宮神社の遷宮祭が行われた(以下略)


昭和3年に作られたから「昭三公園」ということなんでしょうね。

【末広座の火事】
④120619浜田末広座の火事
(昭和12年6月19日付 松陽新報より)

「浜田の朝火事 末広座から全焼」
浜田町字一丁目の活動常設館末広座より18日午前6時10分頃出火、
火はたちまち全館に燃え広がり建物及び内部にあった物すべてを烏有に帰し
同7時40分ごろ幸い附近へ類焼することなく鎮火した
(中略)
因み元この場所には劇場明治座があって明治33年2月火災で全焼し
その後大正4年浜田演芸株式会社がこの末広座を建築し、
目下吉田工業部が賃貸契約のもとに引き受け活動写真感を経営していたもので
(後略)


以上の新聞記事より、元地元民様の情報通り、
末広座は昭和12年6月18日の朝に火災にあい、
全焼したことが分かりました。

⑤
新聞記事によれば、この末広座は「吉田興行部」という会社が運営していたとのことですが、
絵葉書を拡大してみますと、「吉田」と書かれたノボリも確認できますので、
やっぱりこの建物は末広座ですね。

⑥
こちらのノボリには「吉田興行」と書かれているようにも見えます。

【再建・日勝館】
⑦121211日勝館
(昭和12年12月11日付 松陽新報より)

「浜田日勝館竣工 元旦から花々しく開館」
浜田末広座は今夏炎上したので浜田演芸株式会社を解散し
直ちに浜田日勝株式会社を組織し資本金二万円で今秋来元の敷地三百坪に
最新式木骨コンクリート二階建て百二十坪の映画常設館を新築中であるが
近く竣工「日勝館」と改名して新春元旦を卜し花々しく開館の準備を急ぎ
(以下略)


ということで、末広座焼失後、焼け跡に名前を「日勝館」と改め、
木骨コンクリートの近代的な映画館を新築することとなったことが分かります。
記事によれば日勝館のオープンは昭和13年元旦とのことです。
昭和12年7月には支那事変が勃発しており、「日勝館」という名前は、
そのあたりの時代の雰囲気から名づけられたものでありましょう。
この映画館は戦後まで同名で存続しています。

【まとめ】
以上のことから、元地元民様からの情報の通り、末広座は火災で焼失し、
その後日勝館と名前を改めて再建されたことが明らかになりました。
新聞記事より、末広座の歴史は下記の通りとなります。

明治33年2月    明治座全焼
大正4年        末広座新築
昭和12年6月18日  末広座全焼
昭和13年1月    日勝館として再建

また、この絵葉書の撮影時期ですが、前述の通り、
絵葉書に写る建物の中で最も新しいのが浜田信用組合の昭和9年、
そして末広座が焼けたのが昭和12年6月ですから、
昭和9年から昭和12年6月の間に撮影されたという事が言えると思います。

元地元民様から情報を頂いた事で、
この絵葉書の撮影年代がより明確になりました。
情報をいただきありがとうございました。

【参考HP・資料】
大日本職業別明細図 昭和12年 東京交通社
松陽新報記事

  1. 2018/11/18(日) 22:29:22|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

旧二宮村信用購買組合事務所(江津市二宮町)

①
江津市二宮町に残る、旧二宮村信用組合事務所の建物です。

②H1708
当ブログの記念すべき第一回目に登場した建物でもあります。
当時(撮影は平成17年)はJAの支所が移転したばかりで空き家の状態でした。

③
現在は空き家ではなく、何らかの事務所として使用されているようでした。

④
玄関部分。

⑤
側面は板張りでした。

⑥
反対側は旧二宮村役場に通じる路地がありましてこちらはモルタル・装飾ありです。

⑦
建物の裏側。引き戸のあたりは宿直室跡でしょうか。

031029二宮信組
(松陽新報 昭和3年10月29日付)
松陽新報にこのような記事がありました。
昭和3年に御大典の記念事業として事務所新築を決議、
同年11月6日に建設の入札をするとの記事です。
3年11月に入札という事は、竣工は昭和4年頃になるのでしょうか。

⑧
以上、旧二宮村信用購買組合事務所のご紹介でした。
小さい記事でしたが運よく見つけることが出来、
建物の竣工年もおおよその見当がつけられたのは何よりでした。


【撮影】
平成27年1月(古い画像1枚だけ平成17年8月撮影)

【参考文献】
二宮の歴史と昔話 平成24年 山藤朝之
  1. 2018/11/03(土) 20:57:34|
  2. 島根県の近代建築・江津市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その8)

①冒頭絵葉書
先代松江大橋の絵葉書では南詰下流側に建っていた街灯を写したものが多くみられます。
今回はこの街灯について考察してみようと思います。

〈街灯の設置者と設置年〉
上記絵葉書は、ブログ主の所有する先代松江大橋を写した絵葉書の中で、
特に街灯がクリアに写っているものです。

②
この街灯をよく見ますと、街灯の下部と上部それぞれに、
銘板が取り付けられているのが確認できます。これを拡大してみました。

③御大典拡大
街灯上部の銘板には「御大典記念」の文字が確認できます。

④出雲電気拡大
街灯の下部には「出雲電氣株式會社」とあります。

二つの銘板を合わせれば、
出雲電気株式会社が御大典の記念にこの街灯を設置したという事が推察されます。
「御大典」とは、辞書やWikipediaで調べてみますと、
天皇陛下のご即位の際に執り行われる諸儀式のうち、
特に即位の礼と大嘗祭に関連する一連の儀式を総称して、
「御大典」と呼ぶという事のようです。

先代松江大橋の架橋は明治44年ですから、
さすがに明治天皇ご即位記念の街灯ということはないでしょう。
可能性としては大正天皇の御大典か昭和天皇の御大典かという事になります。

大正の御大典 大正4年11月
昭和の御大典 昭和3年11月

この街灯はどちらの御大典の記念として設置されたものなのでしょうか。

⑤大正の絵葉書
こちらの絵葉書は北詰に松江キネマ倶楽部(T10年頃築)がなく、
かつ、水道管橋(T7年架橋)が存在しているので、
大正7年~10年の間に撮影されたものという事になります。
この絵葉書には橋の袂にあるはずの街灯が存在していません。

街灯を寄贈したと思われる「出雲電気株式会社」ですが、
この会社は明治44年に設立された会社で、設立当初より今市町(現出雲市)を中心とした
簸川郡エリアでの電力供給事業を行っていました。
松江市域における電力供給は、明治27年に設立された松江電燈株式会社が担っていました。
大正6年になって両社は合併し、社名を出雲電気株式会社として本社を松江市に置いています。
このことから、大正の御大典の時期松江市内の電気事業は「松江電燈」が担っていたこととなります。

以上のことから、「出雲電気」が「御大典記念」に設置した松江大橋袂の街灯は、
昭和の御大典の記念に建てられたものと推察されます。

当時の新聞にこの出来事が記されていれば、
設置された年月日がより明確になるのですが、まだ探し切れていません。
よって、現時点では、「昭和3年11月前後に設置」されたものとします。

〈街灯は何本あったのか〉
⑥
昭和の御大典記念として建てられたこの街灯、
先代の松江大橋を写した絵葉書は上掲のアングルのものが殆どで、
この一本のみ建てられたのか、橋の四隅にそれぞれ建てられていたのか、
絵葉書から他の位置に設置された街灯は確認できません。
果たしてこの街灯は何本建てられていたのでしょうか。

ということで、戦前の新聞を読み返して、
他の位置にも街灯があったのかどうか確認をしてみました。

⑦050712松江大橋南詰
(昭和5年7月12日付松陽新報より)
橋の向こうに松江キネマ倶楽部の建物が望めることから、
南詰の宍道湖側にも街灯が設置されていたことが確認できました。

⑧100516姿を消す水管橋
(昭和10年5月16日付松陽新報より)
松江大橋改架工事に先立ち、大橋川を渡る水道管は新大橋に移設され、
大橋に並行していた水管橋は昭和10年より解体が始まりました。
新聞記事は解体が始まった水管橋を写したものですが、
その傍らに件の街灯が写っていました。
位置的には北詰の宍道湖側のものです。

⑨100731大橋取り壊し進む
(昭和10年7月31日付松陽新報より)
解体されつつある松江大橋を撮影したものです。
右手に宍道湖が広がっているのが確認できることから、
北詰の下流側を写したものという事が分かります。

以上の事より、街灯はおなじみの南詰下流側だけでなく、
松江大橋の袂4箇所に設置されていたという事が明らかになりました。

⑩改装前拡大図
通常アングルの絵葉書でも、向こう岸(橋北)を拡大してみると、
街灯を確認することができました。
因みにこの絵葉書の方が、「御大典記念」の銘板がクッキリしています。

⑪北詰拡大
こちらの絵葉書は原田時計店が改築されているので昭和8年以降の撮影。
やはり橋北を拡大すると街灯が確認できます。

つまり、南詰下流側の街灯を写さない構図での絵葉書でも、
北詰の街灯の有無を確認すれば、年代が明確になるという事です。


〈まとめ〉
①先代松江大橋の袂には、出雲電気が寄贈した「御大典記念」の洋風街灯が設置されていた。
②設置されたのは橋の袂、4箇所である。
③街灯は御大典の開催された昭和3年11月前後に設置されたものと思われる。
④この街灯が写っている絵葉書は、昭和3年以降に撮影されたものである。

【参考文献】
中国地方電気事業史 昭和49年 中国電力
島根県を中心とした産業発展の歴史 明治・大正編Ⅲ
    平成25年 エネルギア地域経済レポート 中国電力㈱エネルギア総合研究所



  1. 2018/10/23(火) 22:38:24|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

国道54号線沿線に残る戦前の橋【その15・成木橋跡】

4
1年2か月ぶりの「国道54号線沿線」シリーズです。
今回の成木(ならき)橋は表題にもある通り、「跡」で現存していません。

図1
(陸地測量部「木次」昭和7年より)
場所はこちら。
三刀屋の連坦地に入る手前で三刀屋川が大きく蛇行する地点に架けられていました。

図2
(国土地理院WEBより)
現在の地図では、現道である第二殿河内橋の位置になります。
過去の木次土木建築事務所管内図(昭和45年) には第二殿河内橋と並行して「成木橋」が示されていましたが、
国土地理院の昭和51年の航空写真には橋の姿がありませんでしたので、この間に撤去された模様です。

1
旧成木橋の前後に旧道の痕跡が残っています。
この画像は下津原橋側から三刀屋方向をながめたもの。

2
更に進むとこんな感じに。
行き止まりのガードレールの向こうは三刀屋川です。

3
ガードレールから川向を見ると、対岸の橋台が確認できました。

5
現道の第二殿河内橋から橋台を観察。
三刀屋側にも成木橋に通じていた旧道が残っていました。

6
下津原側の橋台は雑草に覆われていて確認できませんでした。

【橋の諸元】
橋名:成木橋
竣工:?
型式:RC桁橋(だったのではないかと思われる)
所在地:雲南市殿河内
川:三刀屋川
道路:廃道

【撮影】
平成27年5月


  1. 2018/09/30(日) 22:12:22|
  2. 国道54号線の古い橋
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その7)

①img325
その6までの項において、
松江大橋周辺の構築物やバスの変化に注目して年代を推定してきましたが、
この項では橋そのものの変化に焦点を当てて、
絵葉書の年代特定をより確実なものにしていこうと思います。

先代の松江大橋は明治44年に開通し、
昭和12年に現在の松江大橋に架け架け替えられるまでの間、
松江の南北を結ぶ大動脈として重要な役割を果たしてきました。

この先代松江大橋は架橋から架け替えの間に、
一度、その様相を大きく変えています。
次の絵葉書二葉をご覧ください。

②
いかがなものでしょうか、同じ先代大橋の絵葉書なのですが、欄干のデザインが大きく変わっています。
当時の新聞を調べてみたところ、昭和4年の改修によって欄干の交換が行われたという事が分かりました。

③t130219松江大橋(山陰)
(山陰新聞 大正13年2月19日付)

大正13年の山陰新聞には、
松江大橋の橋面には穴が開いているからよそ見をしていると危ないという風刺漫画が掲載されていました。
明治44年の開通以来、長く松江の南北を結ぶ唯一の橋として重要な任を務めていましたが、
大正も末期となるとさすがにくたびれてきたようで、このような漫画が描かれるほどになっていたようです。

③img888
こちらの絵葉書は、昭和3年~4年頃、改修直前の松江大橋を写したものと推定されるものですが、
橋面や欄干をみると相当にクタビレている様子がうかがえます。

③img888t
上掲の絵葉書を拡大してみますと、橋面に穴が開いて状態が悪いことや、
欄干がゆがんでいる状況がよく確認できます。
欄干には補強と思われる金具も取り付けられています。

このように、橋面や欄干の腐朽は深刻だったようで、
昭和4年には修繕を実施することが決まりました。

④040117大橋改修
(松陽新報 昭和4年1月17日付)

「年度明け早々から松江大橋の大修繕」
名所松江の点睛となっている松江大橋は橋面の欄干が腐朽し
枢要交通路としての支障あるばかりでなく美観もはなはだ損しているので
県では一万四千円以上をかけて明年度に橋面を大修繕し
幅員も両側に一間づつ拡張することになっているが
何分にも交通の劇しいところだけに修繕期間中は全部または片側の交通路を修繕し
(中略)
大橋の欄干は従来通りの擬宝珠附とする計画である。


年度明け早々という事だったので4月くらいには工事が始まるものと思われましたが、
何らかの事情があったのか、工事が始まったのは7月になってからのようでした。

⑤040729大橋修繕(山陰)
(山陰新聞 昭和4年7月29日付)

昭和4年7月29日の新聞には、修繕工事が昭和4年7月27日より開始されたことが記されていました。
新聞に掲載された写真は旧来の欄干を撤去する作業をしているのか、工夫が何やら作業をする様子が写っています。

翌30日の山陰新聞には、今回の修繕工事の概要が掲載されていました。
⑥040730大橋の高欄徳川式(山陰)
(山陰新聞 昭和4年7月30日付)

「非常に堅牢に大橋の大修繕」
「総工費一万七千円 徳川式日本の高欄」
既報の如く松江大橋の大修繕は二十七日から着工、
炎天下も物かは汗だく汗だくで工夫さん連は修繕を急いでいるが
この工事費は一万七千円で九月一杯には完成の見込みである
目下南詰より工を進め高欄の部を架変え橋梁の幅員は
現在の五間を両端それぞれ二尺五寸宛都合六間に拡張するが
橋板は基より全部張り変え三寸厚のものにアスファルトで橋面を張り付ける筈である
それでこのアスファルトは舗道は一寸の厚さで車道は一寸以上にする予定で
(中略)
尚高欄に就いては現在のものは様式が高欄としての
如何なる型にも充てはまっていないので
水郷松江に相応しい徳川式でヒノキの白木造りとする事となっているので
(後略)


記事の内容をまとめますと以下の通りです。
・昭和4年7月27日着工
・工費は17,000円
・高欄を作り替え(様式を徳川式、檜の白木造りとする)
・橋板を厚さ3寸(約11㎝)に全て張り替える
・橋面の舗道は1寸(3.8㎝)、車道は1寸以上の厚さのアスファルト貼り付けを施す
・幅員を両端2尺5寸(95㎝)づつ拡幅
・全幅員を5間(9m)から6間(10.9m)とする

⑦
ここで注目すべきは、欄干を作り替えたことでありましょう。
新聞記事では従来の欄干の様式が「高欄に就いては現在のものは様式が
高欄としての如何なる型にも充てはまっていないので」と指摘していますが、
確かに更新前の欄干は伝統的な和風の様式に比べると、
些か簡略化されたデザインのように感じられます。
 
橋の幅員を2m近く広げたという事も、先代松江大橋の外観と変化としては
重要な要素ですが、絵葉書でその変化が明確にわかるかというと、
写真を撮影した角度が絵葉書よって異なる訳で、
でなかなか明らかに幅が広がったことがわかるような比較ができませんが、
舗道の人が並んで歩いている箇所を色々確認してみますと、
確かに歩道部分が以前に比べて幅が広くなっているように感ぜられます。
また、橋の側面を観察してみますと、更新前は鉄製桁がよく確認できるのに対し、
拡幅後は桁が橋面の陰に隠れて見えなくなっている絵葉書が多く、
この点からも橋面の拡幅が行われた事が示唆されます。

⑧040911松江大橋新装成る(山陰)
(山陰新聞 昭和4年9月11日付)

7月27日に着工した工事は着々と進み、同年9月10日ごろまでには橋面の張り替えと欄干の改築工事が完了したようです。

⑨040915新装松江大橋舗装
(松陽新報 昭和4年9月15日付)

橋面、欄干工事の後には、アスファルト舗装が実施されました。

⑩040921松江大橋舗装工事
(山陰新聞 昭和4年9月21日付)

山陰新聞には当時のアスファルト舗装工事の写真が掲載されていました。
歩道部分にアスファルトを塗り付けている様子が分かります。

⑪040929モダン大橋成る
(松陽新報 昭和4年9月29日付)

全ての工事が終わったのは昭和4年9月下旬、
9月29日より、新装なった大橋の交通が許可されました。

⑫img799
以上、松江大橋の改装工事についてまとめました。

自明列をまとめますと下記の通りです。
7月27日    欄干、橋面張替えの工事着工
9月10日ごろ  上記工事竣成
9月20日ごろ  橋面の舗装工事実施
9月29日    舗装工事竣成、大橋の交通許可  

このように、松江大橋の改装に関しては工事開始から終了まで、
多くの新聞記事が見つかり、工事の詳細を確認することが出来ました。
絵葉書の年代特定を行う上で、
欄干のデザインが異なることはよい指標となるものと思われます。






  1. 2018/09/30(日) 17:54:01|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

浜田の絵葉書より(その4)

その1その2その3と浜田市の絵葉書を考察してきましたが、
新たに浜田市を山の上から写した絵葉書を手に入れましたのでご紹介したいと思います。

①img261
エンタイヤの絵葉書で、なぜか写真の側に乃木大将の切手が貼られています。
切手の位置がちょうど宮脇洋品店のピンポイントで建物が確認できないのが残念です。

図2
前回まででご紹介した絵葉書より、撮影ポイントが東に移っています。

②図1(撮影地点推定)
キャプションには「浜田昭三公園より見たる亀山城址」とあります。
昭三公園は今宮神社境内周辺の緑地ですので、
撮影ポイントは大体この地図のようになると推察されます。

③img261
絵葉書には医師会館や改架された浜田大橋などが写っていますから、
撮影時期は前回の絵葉書とあまり変わらないようです。
一点前回の絵葉書と異なる点があるとすれば赤丸で囲った部分です。

④img261
この矢印の建物です。

⑤img852税務署のあたり
前回の絵葉書では姿がありません。

この建物の素性を調べて見たところ、
昭和9年に建設された旧浜田町信用組合の建物ということがわかりました。
ということで、この絵葉書は昭和9年以降に撮影されたものと言えます。



【参考HP・資料】
大日本職業別明細図 昭和12年 東京交通社
近代建築ガイドブック〈西日本編〉 昭和59年 松葉一清他



  1. 2018/09/02(日) 12:50:26|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

浜田の絵葉書より(その3)

img8521.jpg
だいぶ間が開いてしまいましたが、前々回前回の続きです。

その3
今回は絵葉書の右下部分を見てみます。

⑩浪花食堂
⑩浪花食堂
浜田大橋のたもとに建つ塔をもった建物は、「浪花食堂」です。

⑩040503浜田浪花食堂
(昭和4年5月3日付松陽新報より)
当時は浜田で有数の高さを誇った建物だったようです。
「食堂」と名乗っていますが、上記新聞記事ではカフェーとして紹介されていました。
各階で食堂、カフェーと使い分けていたのかもしれません。

⑪石州銀行と浜田大橋
⑪浜田大橋と石州銀行
浪花食堂の向かいは石州銀行です。

⑪石州銀行大日本職業別明細図
石州銀行は大正12年に庚申銀行が浜田商業銀行を合併、改称して成立した銀行です。
昭和16年に山陰合同銀行に買収されました。
当時の建物は残っていませんが、今も浜田大橋のたもとに合銀浜田支店があります。

⑪070426浜田大橋
(昭和7年4月26日付松陽新報より)
絵葉書には浜田大橋も写っていますが、白い親柱のようなものも確認できることから、
近代的なRC橋に架け替えられた昭和7年以降の撮影と考えられます。
昭和7年に架け替えられた浜田大橋は鴻池組が工事を担当しました。
橋の設計は後に松江大橋の工事で殉職した島根県の深田技師によるものです。

⑫さのや呉服店と宮脇用品店
⑫さのや呉服店と宮脇洋品店
紺屋町には3階建ての「佐野屋呉服店」、
その向かいには現存する宮脇洋品店の建物が確認できます。

⑫151102浜田市成立(紺屋町)
(昭和15年11月2日付松陽新報より)
昭和15年、浜田市成立の際の新聞記事に、
佐野屋呉服店と宮脇洋品店とが写っていました。
かつて紺屋町界隈は浜田市きっての繁華街だったようです。

⑫DSCF8496
現存する宮脇洋品店の建物。昭和2年に建てられた看板建築で、
浜田市の中心部では数少なくなった貴重な近代建築です。
現在は洋品店としては営業していませんが、
きれいに色が塗り直されており、大切にされている様子です。

⑫101013宮脇洋服店t
(昭和10年10月13日付松陽新報より)
松陽新報に佐野屋呉服店と宮脇洋品店との広告を見つけました。
宮脇洋品店のほうは写真付きで当時の店頭の様子が分かり貴重です。


まとめ・・この絵葉書はいつ撮影されたものだろうか
img8521.jpg
ということで、絵葉書からわかる建物のご紹介をしてきましたが、
この絵葉書はいつ頃撮影されたものなのでしょうか。
建築年代の分かる建物を古い順に並べると次のようになります。

img852122.jpg
①坂根惣太氏邸 昭和2年頃
②宮脇洋品店  昭和2年
③那賀医師会館 昭和4年
③川口屋    昭和4年
④浜田大橋   昭和7年
⑤松原小学校  昭和8年

年代が確認できる建物で一番新しいのは松原小学校の昭和8年ですから、
この絵葉書は昭和8年以降に撮影されたものと考えられます。

以上、浜田の古絵葉書に写されている建物を分析してきました。
浜田市は戦災を受けていないので、もう少し古い町並みと
近代建築が残っていてもいいと思うのですが、
絵葉書に写っている殆どの建物が失われているのは残念な限りです。


【参考HP・資料】
松陽新報
大日本職業別明細図 昭和12年 東京交通社
深田清君の面影 昭和12年 京都帝国大学工学部土木教室
目で見る石見の100年 平成11年 郷土出版



  1. 2018/08/16(木) 20:30:15|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

佐和歯科医院(松江市寺町人参方)

0_20180811101423b36.jpg
松江市の寺町に「人参方」という小字がありまして、
これは封建時代の松江藩で大根島の朝鮮人参を取り仕切っていた、
「人参方」という役所があったことの名残であります。
今も寺町の屋根が掛かっているのは、かつての役所の長屋門の一部だそうです。

1
その人参方のすぐ近くに、歴史的な医院の建物が残されています。

2
電灯のデザインがモダンな雰囲気の玄関部分。
「佐和歯科醫院」の表札がかけられています。

3・070626泉尾ビルカフェー
(昭和7年6月26日付松陽新報より)
佐和歯科醫院(佐和医院)は歴史の長いお医者さんのようで、
戦前の新聞にもたびたび広告が確認できます。

4_201808111014293f9.jpg
人参方の門と共に、永く残しておきたい松江の近代建築です。


【建物のプロフィール】
建物名:佐和歯科医院
竣工:?
構造:?
設計者:?

【撮影】 
平成24年9月




  1. 2018/08/11(土) 10:24:08|
  2. 島根県の近代建築・松江市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

出雲ビル(松江市白潟本町)

DSCF0357.jpg
松江市白潟本町はかつて松江市内でも有数の繁華な地だったのですが、
中心市街地の空洞化の波をうけてすっかり寂しくなってしまいました。
そのような状況の中、頑張っているのが大正14年築の「出雲ビル」の建物です。

DSCF0355.jpg
あまりにも有名な物件で、今更説明することもないのですが、
この建物は大正14年、千葉県野田市の「興風会館」などを手掛けた大森茂の設計により建てられました。
建築主の出雲益良氏はイギリス留学の際に現地のデパートを見学し、
帰国後松江でもデパート経営をしようとこの建物の建設を構想した由です。

現在も出雲益良氏の御親族がオーナーとなり、地階でカフェを経営されています。
出雲ビルの歴史に関してこの「カフェ出雲ストアー」に詳しく記されています。

DSCF0356.jpg
ビルの3階上部に設置されたレリーフの「いづビル」表記は有名ですね。

t140407出雲(山陰)
(大正14年4月7日付山陰新聞より)
「いづもビル」ではなく、どうして「いづビル」なのか不思議なのですが、
開業当初の広告でも「いづビル」という表記になっていました。
広告より、大正14年4月3日に出雲ストアが開店したことがわかりました。

出雲ストアは食料品を扱っていたほか、
地階や上層階ではカフェや食堂などの用途に使われていたようです。

050525出雲ストアカフェ
(昭和5年5月25日付松陽新報より)
昭和5年の松陽新報には、「カフェ」が流行らなくなってきたので、
出雲ストア地階を新趣向をこらした喫茶店にする計画という記事がありました。

070626泉尾ビルカフェーt
(昭和7年6月26日付松陽新報より)
昭和7年には出雲ストア地階に「サロン春」が開業しています。
5人もの「美女給」がいたようですね。

121017出雲ストア広告
(昭和12年10月17日付松陽新報より)
昭和12年、松江大橋開通の名刺広告にも出雲ストアの広告がありました。
「屋上亭より地下食堂まで全階直営食堂」とあり、
地下の「サロン春」もなくなりこの時期は建物全体が食堂だったようです。
大阪の「食い倒れビル」のような状況だったのでしょうか。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:出雲ビル
竣工:大正14年
構造:鉄筋コンクリート
設計者:大森茂

【撮影】 
平成19年12月

【参考文献・HP】
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会
カフェ出雲ストア
松江市資料


  1. 2018/08/10(金) 20:15:49|
  2. 島根県の近代建築・松江市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ