元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧島根師範学校正門門柱(松江市西川津町)

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久しぶりに島根大学構内を散策していたら、妙なものを発見しました。
教育学部の玄関の向かいにある茂みの中です。

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これは何でしょうか?
門の一部のようにも見えます。

大学構内ということもあって、
大学の前身にあたる学校に関連するものではないか・・・。
と、帰京してから島根大学のサイトなどから古写真を確認してみました。

島根大学のサイトより、こちらの写真をご覧ください
かつて外中原町に所在した旧島根師範学校の正門門柱に酷似しています。

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古写真では、門柱からアーチ状に支柱が伸び、
門の真上にランプが取付けられているのが確認できますが、
現物でも頂部にその跡を確認することが出来ます。
おそらく、この石造物は旧島根師範学校正門の門柱の一部でありましょう。

旧島根師範学校の外中原校舎は明治37年に新築されていますので、
その当時に設置されたものと考えられます。
現在、旧師範学校の敷地は松江市立一中の敷地となっています。
教育学部が西川津に移転する際か、師範学校の遺構が取り壊される際にか、
記念として門柱の一部を移動させたのではないでしょうか。


現在の一中の敷地に何か名残は残っていないか・・・。
と、グーグル様で確認をしたら、このような通用門をみつけました。

図1
古写真の門柱と同様のデザイン・素材なので、師範学校時代の遺構と思われます。
敷地を取り囲む石垣も、師範学校時代の物のように見受けられます。

※いつも拝見している、島根大学ミュージアム様にもこの件をご連絡したところ、
  さっそく調べていただき、「島根大学ミュージアムのブログ」でも門柱を紹介していただいています。
 師範学校の経緯なども詳しく記載されていますのでぜひご覧ください。

【撮影】
平成29年4月

【参考文献】
「松江今昔 市制施行110周年記念写真集」 平成11年 松江市

【参考HP】
島根大学HP




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  1. 2017/04/09(日) 12:57:21|
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旧制松江高等学校外国人官舎(島根大学旧奥谷宿舎)その2

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以前ご紹介した旧制松江高等学校(淞高)の外国人官舎は、
大正13年の建築で、当初は独語講師用(1号官舎)・英語講師用(2号官舎)と、
二棟の官舎が双子のように並んでいたとのことです。

建築当時の新聞記事などが残っていないか調べようと思ったのですが、
国会図書館に所蔵している松陽新報、山陰新聞は、
なぜか大正期の分がごっそり抜け落ちており、
調べようがないことがわかりました。残念。

代わりにと言っては何ですが、
昭和12年、火災で英語講師用官舎が焼失した際の記事を確認してみました。

s12330.jpg
(松陽新報昭和12年3月30日付)

「市民の火の用心」
「奥谷火事に鑑みて松江署が一層喚起する」
例年春先になると一家不在中における火事騒ぎが頻出するので
松江署ではかねてより一般市民に対し火気には一段の注意を喚起していた矢先、
二十八日午後奥谷町高校教師ウッドマン氏の留守宅の風呂場の火の不始末から
同家を全焼するに至ったが消防組の活動によって鎮火し隣家への類焼を逃れたが
もし発見が遅かったのと烈風の際は相当の大事に至ることは当然とみられるが、
同署では今後こうした火災を未然に防止すべく一般市民に対し火の用心について
一層の注意を喚起することとなった


高等学校の官舎が焼けたという事件なのでもう少し大きな記事になるかと思いましたが、
火事への注意喚起と絡めたあっさりとした内容となっていました。

近火見舞
(松陽新報昭和12年3月30日付)

上記記事の下欄にには、関係者の近火見舞いの名刺広告が掲載されていました。
高校の事務方が手配をしたのか、新聞社で定型文を用意していたのか、
外国人名と候文の組み合わせが何とも言えない雰囲気をかもしだしています。

名刺広告にある「カルシュ」、「ウッドマン」は、それぞれ下記の通りです。

カルシュ:ヘルマン・フリッツ・カルシュ(独語講師 淞高在籍T14~S14)
ウッドマン:ハロルド・ジョンソン・ウッドマン(英語講師 淞高在籍S7~S17)


【参考文献】
嵩のふもとに・・旧制松江高等学校史 平成2年 旧制松江高等学校同窓会
島根大学HP



  1. 2017/01/22(日) 22:42:35|
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JFしまね恵曇支所古浦出張所(松江市鹿島町古浦)

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旧鹿島町古浦に残る、古い漁協の建物です。


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装飾は少なく、唯一玄関部分だけが洋風の趣です。

数年前まではトンガリの屋根飾りが残っていましたが、

昨年(平成27年)に訪問した際には折れてしまっていました。

 

グーグルストリートビュー(平成24年)では、

玄関上に「恵曇漁港古浦支所」の看板が掲げてありましたが、

今は撤去されています。

漁協も再編を繰り返しており、現在はタイトルにもある通り、

「JFしまね恵曇支所古浦出張所」という名前になっているようです。


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正面より。年輪を重ねた渋い建物ですが建築年はわかりません。

画像では切れていますが、向かって左側に平屋の付属建物が連なっています。


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周囲にも古い建物が連続して現存しており、

昔ながらの漁村の風情が色濃く残っています。

  

 

【建物のプロフィール】
昔の建物名:恵曇漁業協同組合古浦支所

現在の建物名:JFしまね恵曇支所古浦出張所
竣工:?
構造:木造2階建
設計者:?
施工者:?

 

【撮影】

平成279



  1. 2016/10/03(月) 20:35:23|
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旧日本銀行松江支店(松江市殿町)

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島根県内の代表的な近代建築の一つである、
旧日本銀行松江支店です。

日本銀行の支店が松江にできたのは大正7年、
当時の建物は木造レンガの洋風建築でしたが、
軟弱地故地下金庫が沈下、やむなく昭和13年に
長野宇平治設計により現在の建物に改築されました。

昭和56年に日銀松江支店は母衣町に移転。
島根県が借り受けて分庁舎となりました。
平成8年に松江市に所有がうつり、
平成12年にカラコロ工房として再デビューします。

カラコロ工房のホームページによれば、
昭和63年に取り壊しの上、県庁分庁舎の建設計画が持ち上がりましたが、
その後市民有志の根強い運動の末、建物の保存・活用が決まったとあります。
今では市内を代表する観光施設の一つであり、
京橋川をはさんだカラコロ広場からの眺めは、
堀川めぐりにおける重要な景観スポットとなっています。

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夜間はライトアップされ、
昼間とは別の優美な姿を京橋川に映し出しています。

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全景。建物の背後には暖房用のボイラー煙突も残っています。
当時の新聞によれば、全館直接暖房、エレベーターその他設備が完備され、
「他に類例を見ない至れり尽くせり完備さ」とあります。

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設計者である長野宇平治は辰野金吾博士の愛弟子で、
数多くの日銀支店を設計した人物です。
日銀以外では台湾総督府、大倉山精神文化研究所なども有名です。
氏は昭和12年12月に亡くなっておりますから、
日銀松江支店は長野宇平治最晩年の作品ともいえます。



【建物の築年について】
日銀松江支店の建築年は、一般的に「昭和13年」とされています。
「島根県の近代化遺産」では、昭和13年建築都市、
昭和10年10月に工事がはじまり、2年5か月を費やしたとあります。
日銀HPでも昭和13年3月に完成したとありました。

ところが、昭和12年11月の松陽新報に、
日銀の竣工を伝える記事を見つけました。

s121129mi.jpg
昭和12年11月29日付松陽新報

「工費百万円延人員四万人」 
「日銀松江支店竣工す-近代建築美に一異彩を放つ-」

百万円の工費、四万人の延べ人員と一年六か月の期間を要した日本銀行松江支店は
近代文化の粋を集めて清水組の手によって愈々白亜の金融大殿堂として完成したが
その竣工修祓式を二十八日新庁舎に於いて永岡須衛都久神社社司斎主となり、
-中略-荘厳に執行した。
午後は一般行員の家族らに観覧せしめ、
二十九日は特定の有力者のみに観覧を許可することになっている。
尚現在の仮設支店からの引っ越しは十二月三日から三日間に亘って
全部を完了六日から新屋で営業を開始することになっているが

-後略-


新聞にはすでに完成している建物の写真が掲載されています。
(玄関に国旗が掲揚されてあるので、式典の前後と推察されます)
竣工修祓式を昭和12年11月28日に実施していることからして、
日銀松江支店の築年は昭和13年3月ではなく、
昭和12年11月だったのではないか、と、思われるのです。

「島根県の近代化遺産」
起工:昭和10年10月
竣工:昭和13年3月
工期:2年5か月
工費:872,000円

「松陽新報」
起工:昭和11年5月
竣工:昭和12年11月28日
工期:1年6か月
工費:1,000,000円

工期が1年弱ずれてしまっているのはなぜなのか。
旧建物の解体作業などを含めるか含めないか、
というあたりが影響している気もします。

竣工については、竣工修祓式をやった。という記事が出ているのですから、
やはり、昭和12年中には完成していたのではないかと思われます。
登記やそれ以外の何らかの手続き上の関係で、
「書類上」13年3月となっているのでは・・・。
と、思うのですがいかがなものでしょうか。


そもそも、何を以てして「建築年」とするのか。
ブログ主も専門的なことはわからず、
何となく使ってしまっている言葉ではありますが、
実工事が完了した日なのか、竣工式を行った日なのか、
業務が開始された日なのか、「書類上」(登記?)の手続きが完了した日なのか、
何か定義があるものなのでしょうか。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:日本銀行松江支店
現在の建物名:カラコロ工房
竣工:昭和12年年11月(竣工修祓式:S12年11月28日)
構造:鉄筋コンクリート
設計者:長野宇平治
施工者:清水組

【撮影】 
平成24年9月

【参考文献・HP】
松陽新報 昭和12年11月29日付記事
中国地方の西洋館 平成3年 白石直典
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会
カラコロ工房HP
日本銀行松江支店HP


  1. 2016/09/11(日) 15:34:30|
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美保関五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)その4

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その3では戦前の姿について記しました。
今回のその4では戦後の慰霊塔について記したいと思います。

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戦後、慰霊塔は「平和祈念塔」と改称されました。

美保関町誌の記述は下記の通りです。

【美保関町誌上巻】
この事故の犠牲者については、のち昭和4年11月松陽新報社が主唱、
美保関町が後援して、五本松公園の一角に慰霊塔が建設された。
戦後平和祈念塔と改称され、今日なお祀られ続けている。


※美保関町誌における慰霊塔についての記載はわずか2行。
「近代の美保関」という項に記載があるのですが、
慰霊塔の記述の前段には3ページにわたって国共内戦、226事件、日中戦争起こる、第二次世界大戦起こると、
近代史が語られて、肝心の地元の出来事はわずか2行。
近代史の勉強はしかるべき専門書がたくさんあるわけですから、
郷土資料であるならばもっとしっかり地元の出来事について記載をお願いしたいものです。
島根県に限定されることなのかどうなのか知りませんが、
郷土資料の近現代部分については広義の歴史ばかりが語られて、
結局地元で何があったのかがさっぱりわからないというケースが往々にしてあり、
地元の近代建築の調査をする上での障害になっています。


それはともかく、戦後、慰霊塔は「平和祈念塔」と改称されたことがわかります。

【美保関地域観光振興協議会公式ホームページ】
終戦までは海軍元帥東郷平八郎の「慰英霊」の文字が刻まれた忠霊塔だったが、
戦後、忠霊塔などは壊すよう命じられたため、
やむなく文字盤だけ外し、昭和27年(1952)平和祈念塔とした。


「慰英霊」の文字を掲げたままだと撤去の恐れがあったので、
昭和27年に平和祈念塔と改称したと読めますね。
戦後、GHQの指導のもと多くの忠魂碑や
それに類する石碑、記念碑類が撤去されたり、名前の修正をされたりしたようですが、
この慰霊塔もその影響を受けて名前を変えたようです。

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現在、塔には「平和記念塔」の文字のほか、
その下に写真のような文字も残されています。
「山陰新報社長 伊達源○○謹書」とあります。

「山陰新報」は戦前の松陽新報社の後身であり、
現在の山陰中央新報の前身でもある新聞社で、
昭和27年から32年までこの名前を名乗っていたそうです。

この当時の山陰新報社の社長は伊達源一郎、
松江市の名誉市民にもなっている方で、
明治7年井尻村の生まれ、国民新聞社長、ジャパンタイムスの社長などを経て、
昭和21年~28年の間、島根新聞(山陰新報)の社長を務めています。

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塔の側面には「山陰新報社建立」の文字も残されています。

建設の主唱は松陽新報社だったわけですが、
戦後の改称にあたっても引き続き、
その後身である山陰新報社がイニシアチブを取っていたようです。

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ヤフーオークションで平和祈念塔の絵葉書を購入しました。

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絵葉書の裏(表?)には切手は7円」と表示があります。
はがきが7円だった時代は昭和41年7月1日から昭和47年1月31日までですから、
絵葉書は昭和40年代のものと推定されます。

少なくとも昭和40年代までは、平和祈念塔はそれなりに手入れがされていて、
かつ、「絵葉書の題材になる」だけの存在感があったということが言えると思います。

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絵葉書を拡大してみますと、塔の入り口の上の部分に「慰英霊」のレリーフが確認できます。
当初この箇所には美保関事件を報じた新聞記事を銅板に刻んだものが設置されていました。

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現在は「慰英霊」のレリーフは欠落しています。

図1
戦前、昭和40年代、現在のそれぞれの姿を比較してみましょう。

昭和40年代までは、「慰英霊」が「平和祈念塔」に変わった点、
入り口のレリーフが変わった点以外は原型を留めていますが、
それに比べると現在の姿はとにかく荒れています。
昭和40年代までは塔の周囲に生い茂っていた松も全くなくなってしまっています。
塔先端の国旗掲揚ポールを兼ねた彫刻も、
昭和40年には戦前と同じ姿で残されていますが、
現在は根元部分を残し欠落してしまっています。

当時を知る関係者も少なくなり、維持する力も関心もなくなってしまったのか、
少なくとも昭和40年代までは絵葉書になるくらいの存在であったのに、
現在では荒れるに任せた状態になっているとは、社会情勢の変化は大きいものがあります。

ブログ主が現地を訪問してからすでに10年が経過しており、
現在も現存していることはわかっていますが、痛みはひどくなっていることでありましょう。
このままいくと、「老朽化が激しく補修にも多額の費用が掛かるので撤去」という、
お決まりのコースをたどることは容易に想像できます。

慰霊塔には下記のような特徴があります。
・建築材料学の権威である吉田享二の数少ない設計作品であり、かつ現存例である
・昭和4年に鴻池組により施工された島根県内では比較的初期のRC建築
・軍艦のマストをモチーフとした当時としては斬新なデザイン
・美保関事件という歴史的経緯をしのぶ建築物
・皇族方の御下賜金をはじめとして多くの人々の寄付を基にして建てられた

等々、島根県の近代史を語る上でも、建築史を語る上でも、
きわめて貴重な物件と言えます。


【参考文献】
美保関町誌上巻 昭和61年 美保関町
松江今昔 平成11年 松江市

【参考HP】
日本新聞博物館
http://www.newspark.jp/newspark/archive/shinbunjin/no_51.html
山陰中央新報社
http://www.sanin-chuo.co.jp/kaisha/gaiyou/3.html
美保関地域観光振興協議会
http://www.mihonoseki-kankou.jp/see/see_gohonmatsu/

【ブログ内関連記事】
関の五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)
美保関五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)その2
美保関五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)その3
  1. 2016/08/11(木) 23:32:03|
  2. 島根県の近代建築・松江市
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