元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

吉田橋(安来市飯島町)

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松江方面から国道9号線の旧道を安来に向けて走りますと、安来の市街に入る直前でこの橋を渡ることになります。
コンクリートの欄干を持つ、歴史を感じさせる橋です(画像は安来側から撮影しています)。

S9参謀本部
(参謀本部昭和9年「米子」より)

戦前の地図で見るとこの位置です。
西にはこれも戦前架橋で現役の飯梨橋、飯梨橋を渡ると以前ご紹介した赤江村役場のマークも確認できます。

国土地理院
(国土地理院WEBより)

現在の国道9号線(桃色の道)は元国道の北側を走っていることが分かりますね。

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親柱は安来市街側上流の1基のみ残っています。
橋名などが記されておらず、いろいろ不明な橋でしたが、たまたま見つけた安来市の資料から
昭和12年に架橋された「吉田橋」であることが分かりました。

3
装飾と言えるのかどうかという程度の素朴なデザインです。

4
彫りが浅くて読み取りにくいのですが、昭和二十四年三月竣工と彫られているような気がします。
安来市の資料には昭和12年架橋とあったのですが・・・。あれ?

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親柱と欄干。

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橋の全景。中間橋脚2本の桁橋ですが、よく見ると手前(安来側)の一径間は形が異なります。

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現地ではあまり意識していませんでしたが、ブログ記事作成にあたって改めて画像を確認してみますと、
手前の橋脚の形状、桁橋のスタイルがだいぶ異なることに気が付きました。これはいったいどうしたことでしょうか?

A
現在の航空写真(グーグルアース)と昭和22年の航空写真(国土地理院)とを比べてみます。
縮尺が合わなかったので正確な比較ではありませんが、
安来側の橋の付け根部分で川岸の形状が変化し、川幅が広がっているように見えます。

B
国土地理院の航空写真、昭和37年(左)と昭和22年(右)とを比較してみます。
37年には川幅が広がっています。川下の堰も作り替えられている様子です。

C
昭和37年の航空写真では橋脚らしきものが確認できます(黄色矢印)。

D
昭和22年以降に吉田橋周辺の川幅を広げたために吉田橋も延長せざるを得ず、
安来側の橋台(橋の付け根部分)を中間橋脚にして橋を延長したのではないでしょうか。

結果として安来側の延長部分は橋桁の形状がオリジナルのものとは異なるものになったのではないか、
という推察が出来る様な気がします。

親柱にある「昭和二十四年三月竣工」は、橋の延長を行った年を示しているのかもしれません。

【橋の諸元】
橋名:吉田橋
竣工:昭和12年?(昭和24年改修?)
形式:RC桁橋
所在地:安来市
川:吉田川
道路:市道安来港飯島線

【撮影】 
平成26年9月
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  1. 2017/06/11(日) 00:03:36|
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大森の羅漢町橋(大田市大森町)その2

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以前ご紹介した大森の「羅漢町橋」は、
架橋年も明確になっていない謎多き橋なのです。

島根県の近代化遺産の集大成ともいえる、「島根県近代化遺産総合調査報告書」にあっても、
羅漢町橋に解説のページを割いてはいるものの、架橋年に関しては一切触れられておらず、
どうにもこうにも「資料がない。」ということが推察されます。

せんだってヤフーオークションで、
羅漢町橋が写された絵葉書を落札しましたので、
これをもとに羅漢町橋について考察を加えたいと思います。

2_20170603234021069.jpg
大森の羅漢寺方面からより、羅漢町橋方面を写した絵葉書です。
キャプションには「石見大森羅漢町ヨリ見タル警察署」とあります。
正面の擬洋風の建物が大森警察署で、現在この場所は駐車場になっています。
この擬洋風の庁舎は明治18年に建設され、後の昭和12年、新庁舎建設のために解体されるまで
大森警察署として使用されていたそうです(昭和13年松陽新報記事より)。

絵葉書の年代ですが、絵葉書年代測定法によれば、通信欄の罫線が3分の1だったので、
「絵葉書が発行された」年代としては明治40年から大正7年の間ということが分かります。

絵葉書を見ると、電信柱・電線が確認できます。
大森に電気が通った年が明確ではないのですが、明治38年頃に大森鉱山に発電所が出来たとのことですから、
この点からも、絵葉書の写真は明治末~大正初くらいに写されたものであることが推察されます。

455.jpg
グーグルアース様より画像をお借りしまして、現在と絵葉書との対比をしてみました。
警察署は無くなりましたが、橋周辺の民家は昔と比べてもあまり変わっていないように思われます。

3_201706032340235dd.jpg
さて、本題の羅漢町橋についてです。
現在の羅漢町橋には、コンクリート製の親柱と欄干が据えられています。
前回も言及しましたが、石造アーチの橋本体に対して、
この親柱と欄干は時代的にデザインが不釣り合いな感じがします。

4_20170603234122eca.jpg
絵葉書の羅漢町橋を確認しますと、当時の親柱・欄干の様子が
現在とは明らかに異なることがわかります。

45.jpg
さらに絵葉書を拡大してみます。
石の角柱を等間隔に並べてあるように見えます。

46.jpg
赤枠で囲った一回り大きい石柱、これが親柱のかわりだったのでしょうか。
いずれにしても装飾性がなく、原始的な親柱・欄干であり、
石造アーチの本体の築造と一体で設えられたものと考えてもよさそうです。

※そもそも絵葉書に写っている羅漢町橋は石造アーチなのかどうか、という議論も出てくるのですが、
木造橋であれば欄干などは本体同様木で据え付けられるはずです。
ですから、ここではすでに石造アーチであるとみなして話をすすめます。


5_201706032341236ce.jpg
では、現在にみられる親柱・欄干に改装されたのはいつだったのでしょうか?
材質はコンクリートに洗出しの仕上げ、昭和の戦前期によくみられるスタイルです。

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欄干の比較をしてみました。
上:羅漢町橋
中:宝来橋(粕淵・昭和12年)
下:鍛冶屋谷橋(日原・昭和9年)

いかがなものでしょうか、このように比較してみますと、昭和の時代に架けられた橋のデザインとよく似ています。
大正・明治の比較対象となりうる資料を提示していないので、今一つ説得力に欠けるのですが、デザイン的に見ると、
おそらく昭和に入ってから改装されたのではないか・・・、ということがいるのではないかと思います。

【まとめ】
・古絵葉書より、羅漢町橋の当初の親柱・欄干は石柱を並べた簡素なものだった
・現在の親柱・欄干に改められたのは絵葉書が写された明治末~大正初以降である
・デザイン的に昭和戦前期に改装された可能性がある


【参考文献】
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 平成14年 島根県教育委員会
島根県を中心とした産業発展の歴史 明治・大正編Ⅲ
    平成25年 エネルギア地域経済レポート 中国電力㈱エネルギア総合研究所
島根とお雇い外国人技術者たち 平成27年 岡﨑秀紀


  1. 2017/06/03(土) 23:54:19|
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伊毘志橋(雲南市三刀屋町多久和)(その2)

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以前ご紹介した「伊毘志橋」の補足です。

前回は「松陽新報社」の記事から橋の存在を知り、現存を確認しました。
同じ時期の「山陰新聞」の記事で新しい事実が分かりました。

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山陰新聞(昭和11年8月12日付)より

「旧松江大橋の擬宝珠を附けた伊毘志橋」
「飯石神社の参道を飾る十日竣工渡初め式」

県立三刀屋、飯石線の飯石神社参道の伊毘志橋は
総工費二千四百六十五円を投じ、
去る五月末着手しこの程竣工したが延長10米、幅員4米50の鉄筋混凝土、
高欄と男柱は御影石で元松江大橋にあった擬宝珠を取付けた優美な橋で(以下略)


ということで、伊毘志橋に取り付けられた擬宝珠は、
なんと、先代の松江大橋に取り付けられていたものの再利用でした。

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明治44年に架橋された先代の松江大橋の絵葉書です。

※市営バスが旧塗装(S4~S9)である、
原田時計店が改築されている(S8)ということから、
絵葉書の撮影時期は昭和8年~9年の間と考えられます。


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上掲の絵葉書を拡大してみました。
この擬宝珠が伊毘志橋に転用されたようです。

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こちらは松陽新報(昭和11年8月14日付)掲載の伊毘志橋です。

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現在の伊毘志橋です。
松江市市制施行110周年記念写真集「松江今昔」では、
昭和17年に金属供出により松江大橋他市内の擬宝珠などが撤去されたとあります。
おそらく、伊毘志橋の擬宝珠も、同様の運命をたどったものと思われます。
現在の先代の松江大橋由来の擬宝珠が残っていたら面白かったのですが。

8_20160822233038909.jpg
伊毘志橋は昭和11年5月に起工し、同年7月に完成しています。
当代の松江大橋は昭和10年頃から先代の撤去、工事を開始し、
昭和12年10月に完成しています。

どのような経緯で擬宝珠が転用されることのなったのか、
今となっては調べようもありませんが、
伊毘志橋の工事は松江大橋のそれに重なっていますので、
たまたま先代松江大橋の擬宝珠の「出物があった」ということなのでしょう。

松江大橋の親柱・高欄作成の「先行試作」として伊毘志橋を使った・・・
などという話だったら面白いのですが、これはいささか飛躍した考えでありましょうか。


【平成29年5月28日追記】
その後、新聞記事を探っていたところ、昭和12年の山陰新聞より、
次のような記事を見つけました。
S121016山陰新聞擬宝珠s
山陰新聞(昭和12年10月16日付)より

「舊松江大橋の擬宝珠が再縁」
「由緒の架橋に利用」
〝松江大橋流れよが焼けよが・・・”
唄われ乍ら先年〇を積んだ発動機船が橋脚に衝突した為め陥落し、
「転禍為福」を文字通り国庫補助の下に素晴らしい天下一品の名橋に
来る18日の竣工式を以て甦生することになったが、
親橋も旧橋の情緒を偲んで勾欄擬宝珠優美な趣を生かしているにつけ、
旧橋の勾欄擬宝珠はその後どうなったかと訊ねるに
県土木課では旧橋解体の際に擬宝珠大8個、小12個を保存、
そのうち地許松江市に記念のため一個を交付し、
更に飯石郡飯石神社前の伊毘志橋(竣工)八束郡佐太神社前の〇橋(竣工)、
八束郡八重垣神社前の宮橋(未竣工)に使用した丈で尚お残部は県に於て所蔵、
各地由緒の架橋に利用して日本独特の橋梁美発揮に努めることになった。


ということで、山陰新聞の記事より、旧松江大橋擬宝珠の転用の経緯が分かりました。
他にも八重垣神社、佐田神社神前の橋にも転用されたとありましたが、
すでに橋は架け替えられています。

県の土木課で旧橋の擬宝珠を確保して、
神社など、和風の意匠を要する橋に転用していったことが分かります。
この時点では「尚お残部は県に於て所蔵」ということで、
この後も県内に架けられた橋に使用された可能性があります。







  1. 2016/08/22(月) 23:38:56|
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畦無橋(松江市湯町)その2

その1から1年以上経過してしまいましたが、
畦無橋のその2をお送りいたします。

a_20160508112120a68.jpg
畦無橋は、島根県内の道路橋では現存例が少ない、I型鋼桁橋です。

S5927八千代橋
(松陽新報昭和5年9月27日付)
松陽新報に鳥取の八千代橋の工事中の写真を見つけました。
畦無橋と同様の鋼製桁橋のようです。
コンクリートの床を敷く前の桁の様子がよくわかります。
畦無橋でも同様の工事風景だったのではないかと思います。

c.jpg
コンクリートの重厚な欄干に対して、桁は華奢な感じもするなI型鋼桁で、
バランスがいま一つあっていないような感があります。

d.jpg
最大の特徴はこのI形鋼材に刻印がしてあることです。

D-2
「DORMAN LONG & Co L」
「MIDODLESBROUGH」
「ENGLANDO」

すなわち、この鋼材は、イングランドの鉄鋼メーカーである、
DORMANLONG社製であるということです。

※DORMAN LONG & Co L
1875年創業で、現在は橋梁など建設を主とする企業です。
豪州シドニーのシドニーハーバーブリッヂ(1932)も、
当社によるものとのことです。

創業時は鉄鋼メーカーであり、
明治から大正にかけて、日本においても、
レールや建築鋼材の輸入が行われており、
鉄橋や古レールの現存例が報告されています。

※「DORMANLONG」の日本語読みは、
ネット上では「ドルマンロング」と「ドーマンロング」との二通りあり、
「ドーマンロング」のほうが合致します。

e.jpg
すべての部材に刻印があるようでした。

g.jpg
一部の部材は刻印がさかさまになっているものもありました。
設置時に刻印の天地を意識していなかったのでしょう。

f.jpg
裏側からI形鋼桁橋の観察です。
桁が14列並んでいます。
鋼材は途中で継ぎ目がありますので、
橋脚間のサイズの鋼材を渡しているのでなく、
短めの鋼材を継ぎ足し、桁を成しているということが分かります。




○架橋時の時代背景と輸入鋼材の関係

畦無橋の華僑は昭和14年2月です。
昭和14年といえば支那事変真っ只中であり、
物資の統制も厳しくなっている時代です。

加えて、輸入鋼材が土木構築物に使われていたのは
明治から大正にかけてと聞いています。
昭和10年代であれば、国内の生産体制もすでに整っているはずです。

当時の情勢を整理してみます。
昭和12年7月   盧溝橋事件
昭和12年10月  鉄鋼工作物築造許可規則
昭和13年4月   国家総動員法

昭和12年には「鉄鋼工作物築造許可規則」が作られ、
鋼材を使用する土木・建築に対して著しい制限がかかりました。
昭和14年(1939年)は、すでに欧州で第二次世界大戦がはじまっています。
かかる状況下で「わざわざ」イギリスから鋼材を輸入したとは考えにくいものがあります。

以上のことから、
「畦無橋の鋼桁は、どこかの鉄橋からの転用ではないか」
と、考えてみました。

国内にはI形鋼を用いた、
鉄道用の鉄橋がいくつか現存しています。
下記に西武安比奈線の実例をあげます。

い
畦無橋と同様のI形鋼が使用されています。
(なぜ熊のぬいぐるみが落ちているのかは不明です。)

お
見えにくいですが、
「DORMAN LONG」
「MIDODLESBROUGH」
の刻印が確認できます。

畦無橋架橋の際には、このような鉄橋で使用されていた鋼材を
どこからか調達して、再利用したのではないでしょうか。
鉄橋の部材を他所で転用するという事例は日本国内に多くあります。
島根県内の道路橋に限っても、須郷橋(日原旭橋からの転用)、
三隅橋(上江川橋からの転用)などの例があります。
昭和14年という時代の状況から考えても、
物資統制(不足)の折、「たまたま鉄橋の出物があって」、これを畦無橋に転用した。
ということは可能性としてあるのではないかと思います。



【参考文献】
・石見潟25号 平成21年 江津市文化財研究会
・鉄・鋼橋技術の産業的成立過程について(土木史研究第16号) 
1996 五十畑弘 榛澤芳雄
・鋼橋移設、既存ストックの有効活用(第9回鋼構造と橋に関するシンポジウム論文報告集)
2006 梶川康男

【参考WEB】
DORMANLONG社HP
スチール・ストーリー・ジャパン
 
  1. 2016/05/08(日) 11:37:53|
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千代富橋(安来市宇賀荘町)

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安来の中心地から南へ、伯太川に架かる千代富橋です。

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現在の地図と昭和9年の地図とを比較してみましょう。
県道257号線は千代富橋の上流に架かる宇賀荘大橋を通っており、
千代富橋あっては宇賀荘町側はともかく、西側は田んぼの中の細道を通るため、
あまり存在意義がないように思えます。

戦前の地図をみますと、当然宇賀荘大橋はなく、
千代富橋がかつての宇賀庄村と大塚村、能義村、飯梨村方面とを
繋ぐ重要な橋だったことが分かります。

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千代富橋できわめて特徴的なのが、「親柱がない」ということです。
橋名板は分厚いコンクリート製欄干の断面に直接くっついています。

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西側の橋名板です。
風化して読み取りにくくなっていますが、「昭和十二?年三月竣工」と読めます。

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こちらは宇賀荘町側の橋名板。「ちよとみはし」とあります。

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西側からの眺めです。幅は1.5車線程度です。

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西側の橋詰です。親柱が設置できるようなスペースはありますが、
果たしてもともと親柱があったのか、なかったのか不明です。

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橋の全景。中間橋脚は6本。なかなか長い橋です。

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橋桁と一体化した欄干です。
橋の断面は凹形となっていて、これが7つ連なっていることになります。
が、これは桁橋といっていいのでしょうか。

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欄干には3つ凹みが掘ってあり、単調さを和らげています。

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橋の上から。とにかく分厚い欄干が異様な感じです。

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定規がなかったので自宅のカギで厚さを測ってみました。

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欄干の厚みはおおよそ42㎝でした。
右側は千代富橋上流に架かる天野前橋のコンクリート製欄干の厚さを
比較のために測ってみたものです。おおよそ16㎝でしたので、
千代富橋の欄干の厚さがよくわかると思います。

欄干はコンクリートの塊ですが、
こんなに分厚いと重量も相当なものになると思うのです。
橋の耐久性上問題はないのでしょうか・・・。
どうしてこんなデザインにしたのか・・・。

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欄干の重量のせいかどうかはわかりませんが
宇賀荘町側から2本目の橋脚は若干沈下しています。

親柱無し、分厚いコンクリート製の欄干、そして欄干と一体化した桁、
同時期の橋に比べると異例なスタイルです。
どうしてこのような様式になったのか、大変興味を覚えます。


【橋の諸元】
橋名:千代富橋
竣工:昭和12年?3月
形式:RC桁橋?
所在地:安来市宇賀荘町
川:伯太川
道路:?

【撮影】 
平成26年9月



  1. 2016/05/01(日) 23:33:54|
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