元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧赤江村役場その2(安来市赤江町)

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以前ご紹介した、安来市赤江町の旧赤江村役場について、
建物が建設された当時の新聞などから、情報を整理してみたいと思います。

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昭和3年12月12日付松陽新報

「満山錦を飾るけふの赤江の賑ひ」
「飯梨川畔に甍並べて落成した村役場と信組事務所」

新聞記事中に建物に関する具体的な記述はありませんが、
新築は「御大典」を記念したものと記されています。
昭和3年は昭和天皇のご即位の大礼が京都で行われた年であり、
「御大典」の記念として各地で様々な催し物が行われたり、
これを機会として官公庁、学校等が新築されたりしています。

島根県内も例外ではなく、昭和3年当時の新聞記事を確認しますと、
御大典を機として、学校や信用組合、役場などが
相次いで新築されていることが確認できます。
新聞記事では、赤江村役場のほか、
信用組合事務所も同時に新築されたことが記されていますが、
信用組合の建物の方は現存していません。

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新聞記記事にある、新築時の役場です。

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当時の写真と比べると、窓や玄関がアルミサッシ化されていますが、
それ以外は現在まで当時の姿を保っているように思われます。

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昭和3年12月12日付松陽新報

設計者などの情報は、新聞下段の名刺広告にありました。
広告には、下記の情報が記されていました。
「建築・設計・監督 長谷川工務所 長谷川治之助」
「赤江村役場改築・信用組合事務所改築
 工事請負 長谷川辨次郎、小松原伴次郎、大櫃丈四郎」

この情報から、赤江村役場の設計は、長谷川工務所の長谷川治之助、
工事請負が長谷川辨次郎他、ということがわかりました。

長谷川治之助の名前は、以前ご紹介した井尻村産業組合事務所他、
安来・能義郡エリアの近代建築の設計者として時々名前が出てくる人物です。
昭和12年に刊行された「郷土の光‐能義郡誌」を読んでいたところ、
後半の能義郡の名士紹介の項目で、「長谷川治之助」の紹介があるのを発見しました。
以下に「郷土の光‐能義郡誌」より、長谷川治之助の項を引用します。

長谷川工務所長 長谷川治之助氏 能義郡赤江村

明治30年11月岳父辨二郎氏(※1)の次男に生まれ学校卒業と同時に
広島市土木請負業森田福一商会(※2)に入り、全国各都市の支店出張所に勤務し
立川飛行場を始め各方面に於ける土木設計監督の実際を修練して棋道の蘊奥を極め、
去る大正15年4月、帰郷と共に現在の地に長谷川工務所を開設一般の需に応じている。

氏は地方稀に見る新進の設計監督者として棋界にその名を知られ、
現に島根、鳥取の両県各地に進出して大に技能を発揮しているが、
同所に於いて取り扱った主なるものを挙げれば赤江村小学校を始めとして(※3)、
西伯郡地方小学校中建築美の粋を集めた加茂村小学校、本郡能義小学校、
本郡能義村役場、同井尻村役場、同産業組合、同山佐村役場、同産業組合、安来町停雲楼等々は
その代表的なものであり、開業以来人気輻輳して非常な隆昌を極めている。
(以下略)


※1)赤江村工事請負の長谷川辨次郎が父と推定されます。
※2)戦前に広島で土木請負業を起し、後に衆議院議員となった森田福市の経営していた「森田組」と推定されます。
※3)「能義郡誌」のほか、戦前の新聞記事等で確認した物件も加え、長谷川治之助が手掛けた作品を下記に記します。

図1
赤字で示しているのは現存する建物です。
能義郡誌で作品としてあげられていた「安来町停雲楼」は、
現在も安来で「料亭停雲」として盛業中ということがわかりました。
しかし、長谷川治之助が設計した当時の建物が残っているのかどうかは未確認です。


以上、赤江村役場の設計者である長谷川治之助の情報を中心にまとめてみました。
長谷川治之助以外にも、戦前に島根県内で活躍した地元の建築家が少なからず存在する筈であり
、今後も引き続き調査を進めていきたいと思っています。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:赤江村役場
竣工:昭和3年
構造:木造
設計者:長谷川治之助(長谷川工務所)
施工者:長谷川辨次郎・小松原伴次郎・大櫃丈四郎

【参考文献・HP】
郷土の光‐能義郡誌 昭和12年  能義郡刊行会
料亭停雲


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  1. 2017/05/13(土) 22:02:35|
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山常楼(安来市安来町)

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胃腸炎がつらい・・・。
安来駅すぐ近く、国道9号線沿いに存在感を発揮する山常楼の建物です。

山常楼さんは江戸末期から続く歴史のある料亭です。
現在の建物は昭和9年に改築されたものとのことです。

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玄関部分。和風建築の様々なエッセンスがまじりあい、素敵な雰囲気です。

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大名屋敷の玄関のような雰囲気です。

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宝形屋根がよいアクセントになっています。

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平成26年12月に登録有形文化財になりました。
画像右に見える土蔵も文化財指定、大正年間の築とのことです。

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設計者などについてですが
山常楼HPでは
、「現在の建物は、昭和 9 年に改築され当時 26 歳だった池田大工により随所に意匠を凝らし、
贅を尽くした書院造りとして生まれ変わりました。」
とあります。

島根県立短期大学部が発行している「のんびり雲 第7号」では、
松江の山陰道産業や横田の相愛教会の設計者である成田光二郎の設計として、
この山常楼をあげています。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:山常楼
竣工:昭和9年(土蔵は大正年間)
構造:木造
設計者:成田光二郎?
施工者:池田某(大工)?

【撮影】
平成26年9月

【参考文献】
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会
「のんびり雲 第7号」 平成25年 島根県立大学短期大学部

【参考HP】
山常楼HP
島根県報道発表資料
  1. 2017/02/18(土) 11:49:11|
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安来節紀念碑(安来市安来町)

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安来市の安来公園に立つ「安来節紀念碑」は、
安来節の隆興を記念した記念碑で、昭和7年5月に竣工、
同月15日に除幕式を行っています。
近代建築の一つとしてよいのではないかと思われます

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正面には「安来節紀念碑」の文字が金属板で設置されています。

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鉾のようにも見える塔頂部の装飾。

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側面の碑の由来文、賛同者の氏名などのプレートが残されています。
あまり解像度の高い画像がなく、詳細が確認できません。
(失敗!取り直しに行かなくては。)

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(昭和7年5月14日付松陽新報)

当時の新聞記事です。

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新聞記事と現在の紀念碑との比較です。
塔頂部の装飾、「安来節紀念碑」の銘板など、
オリジナルと同じままの姿に見えます。

金属製と思われますが戦時中に供出しなかったのでしょうか、
あるいは戦後の復元なのでしょうか。

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(昭和6年8月6日付松陽新報)

竣工の1年前の松陽新報に、このような記事を見つけました。

「盆過から愈よ起工」
「社日遊園安来節の歌碑」
安来節保存会では予て社日遊園地に記念碑の建築を行うべく
曩に桜花の咲き競った四月、これが地鎮祭を挙行したがその後同会では
町出身の東京在住僊石政太郎氏委嘱してこれが装飾一切を設計せしめ
遅くも盆の直後から建設工事に着手する事となっているので、
遅くも今秋頃までには工事の完成を見ることとなろう


「僊石政太郎氏に委嘱してこれが装飾一切を設計せしめ」
という一文に注目です。
僊石政太郎は、戦前に劇場・映画館建築の設計を中心に活躍した建築家で、
日本橋浜町の「明治座(S3年)」などの設計で知られています。
詳細は下記にしますが、僊石政太郎は安来の出身で、
安来にて大工の棟梁となった後、東京に出て、
苦学ののち建築家として大成した人です。

「装飾一切を設計せしめ」とあり、紀年碑全体の設計ではなく、
装飾だけの設計のようにも読めますが、いずれにしても、
紀念碑の設計に僊石政太郎が関わっていたことは確かのようです。

僊石政太郎は多くの劇場建築を設計していましたが、
現存例は(ブログ主は)確認できておらず、
出身地である安来に設計に関わった紀念碑が現存しているのは、
大変貴重な存在と言えるのではないでしょうか。


【僊石政太郎について】
僊石政太郎の生涯については、安来市誌下巻にその詳細が記されています。
簡単に抜粋してみました。

明治12年 安来西灘に生まれる
大工棟梁河井栄八(河井寛次郎の父)に師事し18歳で棟梁になる
明治36年 25歳で単身東京に出る
新橋木工場で働きながら工手学校に通う
工手学校卒業後警視庁に奉職
大正9年 警視庁を退職、僊石建築事務所を開設
昭和19年11月 空襲にて事務所破壊
昭和19年12月 安来へ疎開
昭和20年8月  67歳で死去

「映画館建築のエキスパート」(帝都復興せり!)として活躍した建築家ですが、
警視庁では劇場の建築、設備に関する方面の監督にあたっていたそうですから、
ここから、劇場・映画館建築の設計を手掛けるようになったものと思われます。

仕事をしながら、工手学校の外、国民英語学校中等科、中央工学校高等科を卒業し、
日本建築学会の正会員資格試験に合格して建築士の称号と技師の資格を得ています。

大工の棟梁で満足せず苦学して建築家となり、
帝大出の建築家たちと肩を並べるまでになったその人生、
信念の人、気骨の人だったのでありましょう。


僊石政太郎の設計した作品を、さまざまの文献などから集めてみました。
ほとんど東京の、主だったものだけですが、
各地の松竹系の劇場を手掛けたそうですので、
まだまだ人知れず現存する建物もあるやもしれません。

大正13年 立正大学校舎
大正15年 立正大学図書館
昭和2年 富士館(浅草)
昭和3年 明治座(日本橋浜町)
昭和4年 新宿第一劇場(新宿)・帝国館(浅草)
昭和5年 東京劇場(設計顧問)
昭和6年 帝都座(新宿)・日本倶楽部(大阪)
昭和7年 安来節紀念碑(安来)



【撮影】
平成15年12月

【参考文献】
近代建築ガイドブック(関東編) 昭和57年 東京建築探偵団 
帝都復興せり!「建築の東京」を歩く 昭和63年 松葉一清
島根歴史人物事典 平成9年 山陰中央新報社
安来市誌下巻 平成11年 安来市総務部市誌編纂室
立正大古書資料館通信Vol.2 平成27年 立正大学情報メディアセンター

【参考サイト】
建築学会図書館「建築学会パンフレット」
ぼくの近代建築コレクション
Clocks&Clouds
近代建築散歩~絵葉書に見る或る日の都市景~



  1. 2017/02/05(日) 23:34:40|
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旧下山佐尋常小学校講堂(安来市広瀬町下山佐)

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広瀬町下山佐の集落に、写真のような古そうな建物を見つけました。
タイトルで結論が出ているのですが、
かつてこの地にあった下山佐小学校の旧講堂のようです。

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山陰新聞昭和9年10月8日付紙面より

建物を発見した当初は、おそらく講堂の建物であろうということは予測がついたのですが、
建築年に確証が得られず、困っておりましたところ、
たまたま読んでいた昭和9年の山陰新聞に、
上記のとおり「山佐村下山佐の尋常校新築落成」という記事を見つけました。

比較
現在の姿と、新築当時の画像とを比較してみます。
オリジナルに対して現在は講堂の手前に増築があって
全体が見渡せませんが、矢印部分のデザインは一致しており、
この建物は昭和9年築の旧下山佐尋常小学校講堂で間違いなさそうです。

画像拡大
山陰新聞昭和9年10月8日紙面より写真部分を抜粋

新築当時の小学校全景です。

下山佐小学校は、明治7年に第22学区第165番学区
下山佐小学校として開校しました。

上山佐小学校の分校、簡易小学校などを経て、
明治23年に下山佐尋常小学校となっております。

当該校舎新築前は明治27年築の校舎に
明治42年、大正2年に増築を行ったものの、
建物の老朽化、児童増加による建物の狭隘化が進み、
ついに昭和9年に新築に至った・・・
と、山陰新聞に記されてありました。

その他、新聞に掲載された建物の情報を抜粋します。
総工費:九千五百円
校 舎:木造瓦葺二階建桁行十三間五歩梁行五間
講 堂:木造瓦葺洋式桁行七間梁行四間五歩
着 工:昭和九年三月八日
竣 工:昭和九年九月末日

下山佐小学校は昭和46年に上山佐小学校に統合されました。
学校の敷地は現在、何らかの工場に転用されており、
前述の通り、講堂の手前には建物が増築されています。
校舎は取り壊されているようで、別の建物が建っていました。
もう少し近いところから観察したかったのですが、
工場として活動している以上、敷地に入るわけにもいかず、
遠くから指をくわえて眺めるにとどめました。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:下山佐尋常小学校講堂
竣工:昭和9年
構造:木造
設計者:?
施工者:河合藤助

【撮影】 
平成27年4月

【参考文献】
山陰新聞 昭和9年10月8日付新聞記事
能義郡誌郷土の光 昭和12年 能義郡刊行会

  1. 2015/07/27(月) 23:44:43|
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旧井尻村産業組合事務所(安来市井尻)

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元の伯太町井尻に残る、井尻村産業組合事務所の建物です。
※井尻村は昭和27年、安田村、母里村と合併して伯太村となっています。

この建物の存在は「写真アルバム松江・安来の昭和」や、
伯太町誌で、元の「井尻村農協」として確認していましたが、
築年などは資料が探せず、不明でした。

松陽
松陽新報(昭和9年4月18日)

松陽新報(山陰中央新報社の前身)の昭和9年4月18日付の紙面に、
「役場と産組事務所井尻村で竣工し十八日落成式挙ぐ」の見出しで、
新築なった産業組合事務所と村役場の写真が掲載されていました。

組合長の談話が掲載されており、一部を抜粋しますと、
「・・・如斯(かくのごとく)組合の発達に伴い事務所の狭隘を感じ
昨秋新築の工を起し去る三月経費約四千円で完成し・・・」
とあり、
この建物が昭和8年の秋に起工し昭和9年3月に完成したことがわかりました。

この紙面の下段には、井尻村役場・産業組合事務所落成記念の名刺広告が掲載されてあって、
その中に「無限責任井尻村信用販売購買利産組合」という名もあることから、
この産業組合の当時の正式な名称は、「無限責任井尻村信用販売購買利産組合」ということに
なるのではないかと思われます。

その他、記事の内容などから、この組合・建物の変遷をまとめます。

大正6年  井尻村信用組合
大正15年  井尻村信用販売購買利産組合?
昭和9年  事務所新築
昭和36年  井尻、赤屋、母里、安田の4農協が合併し、農協井尻支所

現在は手作り雑貨のお店が建物を利用しているようです。

図1
当時の写真を見ますと、2階部分は板張りで、アーチ状の窓が印象的です。
1階はモルタル?で、両端の柱部分には掲示板か
ショウウインドウのようなものがあったことがうかがえます。

現在の建物は2階部分のアーチは失われており、
板張りもトタンで覆われていて一見、戦後の建物のようにも見えてしまいます

図2
現在の建物でも、赤丸で囲った部分に
当時の意匠の名残をみることができます。

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建物側面に、事務所っぽい玄関が残されていました。
古写真をみると1階正面は完全に店舗風であり、
組合事務所への入り口は側面にあったのではないかと推察されます。

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改修の度合いが大きく、
一見して戦前の産業組合の建物だったとは思えませんが、
旧井尻村の歴史を考える上で貴重な近代建築と思います。

【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:井尻村産業組合事務所
竣工:昭和9年
構造:木造
設計者:長谷川治之助(長谷川工務所)
施工者:遠藤幸次

【撮影】 
平成26年9月

【参考文献】
松陽新報 昭和9年4月18日
能義郡誌郷土の光 昭和12年 能義郡刊行会
伯太町誌下巻 平成13年 伯太町誌編纂委員会
写真アルバム松江・安来の昭和 平成26年 いき出版

  1. 2015/05/24(日) 23:06:19|
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