元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧久木小学校校門(出雲市斐川町福富)

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斐川町の「原鹿の豪農屋敷(旧江角邸)」の向かいに、古い門柱が2基保存されています。

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デザインからして戦前のものと思われます。

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向かって右側の門柱。

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ボロボロですが「郡」とか「久木」といった文字が読み取れます。
「簸川郡久木村立小学校」と記されていたのでしょうか。
上記のことや位置からして、昭和45年までこの地にあった久木小学校の校門と思われます。
久木小学校は昭和45年までこの地にあった小学校で、
現在は直江小学校と合併して出雲市立中部小学校となっています。

S37
(国土地理院WEBより引用)
昭和37年の航空写真です。赤い囲いの位置に久木小学校があります。

図2
(グーグルマップより引用)
現在の航空写真です。久木小学校の跡は市営住宅地になっています。

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向かって左側の門柱。

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「島根縣簸川郡久木村立青年學校」と記されています。
青年学校は昭和10年から昭和23年までの間に設置された学校で、
小学校卒業後の農村の男女を対象とした教育機関でした。
小学校に併置されたケースが多かったようです。

戦後の学制改革によって消滅した教育機関ですが、
そのような学校の名前が校門に残されているのはかなり貴重なのではないでしょうか。


【参考文献・HP】
Wikipedia「青年学校」の項
出雲市立中部小学校HP

【撮影】
平成27年9月

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  1. 2017/06/18(日) 22:29:51|
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島根県内における農業倉庫の型式の分布

島根県内には、戦前から戦後にかけて産業組合や農協によって建設された倉庫(以下農業倉庫)が複数残されています。
特に戦前に建設された(と思われるものも含む)倉庫はいわゆる「土蔵」の型式がとられています。

この「土蔵」ですが、島根県内の土蔵は、本体の上に木組みをして屋根を別に置いている、
「置き屋根」式の土蔵が出雲地域を中心に目立ちます。
農業倉庫における「土蔵」でも、この「置き屋根」の型式をとっているものが多いように思われるのですが、
石見方面では「置き屋根」式ではない土蔵※の農業倉庫もいくつか見かけています。

島根県内の農業倉庫において、置き屋根式の土蔵と、
そうでない土蔵とはどのような分布の傾向があるのか、調べてみることにしました。

※ここでいう「『置き屋根』式ではない土蔵」とは、関東の一部でみられる、
鬼瓦を盛った装飾性の強い土蔵ではなく、一般的に西日本エリアに見られる塗屋造りに近い、
軒まで漆喰で塗られた土蔵のことを指します(一般的になんていうかわかりません)。

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「置き屋根」式土蔵の一例(飯南町赤名)

DSCF8771614.jpg
置き屋根ではない「土蔵」の一例(邑南町井原)

土蔵サンプルの抽出は、下記のとおり行いました。
①ブログ主が現地で確認したもの
②グーグルストリートビューで確認したもの
③絵葉書等の資料で確認したもの
④戦前の松陽新報の記事で確認したもの

上記の方法で抽出した土蔵は下表のとおりです。
図1614

更にこれを、白地図にプロットしてみました。
分布図614
(白地図は、テクノコ様のものを使用)

かなりサンプルを集めたつもりですが、地図に落としてみると寂しい状況になってしまいました。
「置き屋根土蔵」を赤丸、置き屋根ではない土蔵を黄丸としています。

サンプルが少ないので、確実なことは言えませんが、
出雲地方には黄丸がなく、大田市以西、すなわち石見地方では、
黄丸と赤丸とが混在することが図から見て取ることが出来ると思います。
では、なぜ石見地方では混在するのか(あるいはその逆で出雲地方尾では置き屋根だけなのか)、
という理由が知りたくなってきます。

いずれにしてもサンプル数が少ないので、「こうだ」ということは確定できず、
あくまでも「傾向があるかもしれない」としか言えません。
もう少しサンプルを増やして傾向を見るという作業が必要なようであります。

(まとめ)
島根県内の戦前築の農業倉庫の形態は、出雲地方では置き屋根式の土蔵が中心であるが、
石見地方では通常の土蔵形式の様態が混在する。と、言えるかもしれない。

  1. 2017/01/15(日) 11:46:34|
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隠岐中山隧道周辺の道路の変遷について

前回まで初代中山隧道二代目中山隧道と、
二世代のトンネルについてご紹介しました。
 
この回では中山隧道にまつわるルートの変遷について、
古地図等を用いて整理しておきたいと思います。


その1DSCF0047 

旧西郷町側から見た五箇トンネルです。

手前右の坂道は初代・二代目中山隧道に通じる旧道です。

 

 

【初代中山隧道ができるまでの道路はどこを通っていたのか?】

 

明治28年に車道である「北方道」が全通していますが、

それ以前はどのルートを道が通っていたのでしょうか?

 

「中山」隧道というくらいですから、

「中山峠」なる古道があるものと思っておりましたが、

現在の地図にそのような峠は記されていません。

 

文献を当たったところ、五箇村誌(昭和63年)に、

五箇村地域の古道に関する記述がありました。

下記に引用いたします。

 

「小路の作業道」

1.中山街道

永田屋前*から上って又谷口を経て焼杉峠を越し、

上の**都万目出合に至る(西郷に出る幹線道路)。

 

*小路地区の屋号と考えられます

**「上の」とあるのは、この文章の上にある

西郷町都万目地区に至る古道に関する記述にかかります

 

この五箇村誌、固有名詞の説明も、前後の歴史との関連の説明もなく、

唐突に古道の記述がなされていて、断片的にしか情報が入ってこず、

甚だ不完全な内容ではありますが、

「中山街道」と称される古道があって、「焼杉峠」という峠を越えて、

西郷の都万目へ通じていたことは何となくわかりました。


その2明治12年 

次に国会図書館で見つけた、

明治12年の「島根県下隠岐全図」という地図です。

北方道は明治28年に開通していますから、

それ以前の道の様子が記載されているはずです。


その3隠岐国全図角度補正(中山越周辺原図) 

中山隧道周辺部分を抜粋してみました。

等高線ではなく現在の地図とはだいぶ様相が異なります。

画像中央下寄りに「中山越」の文字が確認できます。

(五箇村誌の「焼杉峠」は??)


その4隠岐国全図角度補正(中山越周辺) 

地図にルートを書き込んでみました。

赤い線が12年地図で記されている「北方道」以前の「中山街道?」です。

後に開鑿される「北方道」を黄色で書き込んでみました。

こうして新旧の道路を比べてみますと、

もとの中山の峠は、中山隧道よりも東にあったことが分かります。

中山街道に比べると「北方道」は西に迂回していますが、

これは車を通せるような勾配の道路を通すための選択だったのでありましょう。

「中山越」周辺以外は、ほぼ現在の国道と同じルートである事が分かります。

 

それにしても中山隧道の「中山」は「中山越」からとられたのでしょうけれども、

全然場所が違うというのは意外な感じがしました。

あるいは、西郷と五箇を隔てる一連の山並みを総称して、

「中山」と称していたのかもしれません。

 

【中山街道以降の変遷】


その5昭和10年初代 

(陸地測量部 昭和9年1/50000「北方」・「西郷」より)

 

その後の明治36年、昭和9年に陸地測量部が作成した5万分の1地図では、

中山街道のルートは破線にて記されています。

 

その6昭和9年中山 

上記の地図上、中山街道のルートを赤線、北方道のルートを黄線で記しました。

二代目中山隧道は昭和11年開通ですので、

地図上のトンネルは初代の中山隧道ということになります。


その85隠岐北方S46t 

(国土地理院 昭和46年1/2500「北方」より)

 

時代はぐっと下がって昭和46年の1/2500の地図です。

(昭和9年から昭和46年の間の地図は見つけることは出来ませんでした。)

 

五箇側の中山街道は小路の集落から南へ、峠の手前までは道が記されていますが、

西郷側は道の表記がなくなっています。


その7隠岐北方S46(中山周辺) 

上記の地図上、中山街道のルートを赤線、北方道のルートを黄線、

二代目中山隧道のルートを水色線で記してみました。

 

昭和46年の地図では初代中山隧道も記載がありませんが、

初代がいつ頃に使われなくなったのかは、結局わかりませんでした。


その8国土地理院 

(国土地理院WEBより)

そして現在の中山隧道周辺です。

昭和59年の五箇トンネル開通により、

二代目中山隧道のルートも廃道となってしまいました。


その9現在の中山トンネル付近地図 

 さらにトンネル周辺を拡大してみます。

元の中山越の地点には、現在は尾根伝いに林道が通っており、

おそらく峠道跡は分断されているものと思います。

 

【現在の旧道の状況】

以下に、五箇トンネル開通までに旧道、廃道となった道路についてまとめます。

 

(中山街道)

西郷側は地図上の記載はありません。

15年ほど前、ブログ主が地質調査でこの地域を歩いた際には、

尾根伝いに広めの山道があったような記憶があり、

これが中山街道の跡だったのかもしれません。

五箇側は上述の通り、小路の集落からしばらくの距離が林道として現存しています。

林道の終点から中山越に至る迄の部分に、

道の跡が残っているのかどうかは確認できていません。

 

(初代中山隧道)

西郷側は、二代目中山隧道手前の擁壁の上に道の痕跡が残されています。

五箇側は、林道により削られつつも、

道の痕跡が二代目中山隧道手前から残されています。

 

(二代目中山隧道)

西郷側は廃道になっていますが道は残っています。

五箇側は林道への連絡路として現役です。

 

 

【まとめ】

以上のことから、北方道以前の「中山街道」は、

中山隧道より東のルートを通っていたことが分かりました。

「中山越」周辺に中山街道の痕跡が残っているかどうか、

という点については、今後の実地調査の必要があります。

 



【参考文献】

・隠岐島誌 昭和8年 隠岐支庁

・五箇村誌 平成元年 安部勝




  1. 2016/12/18(日) 23:29:00|
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一畑電鉄の貨車ト60

CIMG5652.jpg

真岡鉄道の真岡駅に一畑電鉄の貨車が保存されています。
 
Wikipedia他の資料によれば、
もともとは大社宮島鉄道(後の一畑電鉄立久恵線)で使用されていたそうです。
昭和10年に日本車両で製造され、大社宮島鉄道で使用されていましたが、
昭和40年に立久恵線が廃止になってから北松江線に転属し、
平成23年頃までバラスト散布などに使用されていました。
 
なぜ真岡に?と思ったのですが、平成23年に一畑電鉄が競売を行って
これをジェイアール貨物・北陸ロジスティクスが落札して整備したところ、
真岡鉄道が購入したもののようです。
一畑で一緒に働いていた同形式のト61も一緒に落札されましたが、
こちらはまだ伏木で販売中の模様であります(欲しい!)。
 
大社宮島鉄道由来の車両となりますと、
米子で保存されているハフ21がありますが、
これは鉄道省からの払い下げですので、
純粋な大社宮島鉄道の車両として現存しているのは、
このト60と伏木で保管されているト612両だけと思われます。
 
【参考文献】
特別展 一畑電車百年ものがたり 平成22年 島根県立古代出雲歴史博物館









  1. 2016/11/23(水) 20:22:07|
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二代目中山隧道(旧西郷町/旧五箇村)

1
前回ご紹介した初代中山隧道に引き続き、
昭和11年に完成した二代目中山隧道をご紹介します。

二代目の中山隧道は、昭和59年の五箇トンネル開通により、トンネル部分が旧道となっています。
いつまで二代目中山トンネルを通行できたのは不明ですが、
現在は通行止めとなっており、トンネルは柵で囲われています。

西郷町側の道路は完全に廃道となっていますが、
五箇村側は林道に転用されているため、トンネル間近まで車でアクセスできます。

4
旧五箇村側のトンネルポータルです。
恐ろしく劣化してぼろぼろになっています。
旧西郷町側(南側)のポータルは撮影していませんが、
こちらに比べて原型を留めているようです。

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「中山隧道」という扁額が残されています。
左書きなので戦後の復旧でしょうか。

6
それにしてもなぜここまでポータルがぼろぼろになってしまうのか。

こんなぼろぼろな二代目中山隧道ですが、
例によって戦前の地元紙である松陽新報、
昭和11年6月1日付の紙面に
トンネル完成の記事を見つけましたので記事を転載します。

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昭和11年6月1日付松陽新報

「中山隧道竣工」
「隠岐島を縦断する唯一の県道が大変の便利に」
隠岐国西郷と五箇間県道五箇村中山隧道(とんねる)は
西郷町二見藤次郎氏が総工費二千二百七十九円で請負い、
昨年六月二十五日着工したが、未曽有の積雪のため意外に工事が遷延し、
去る五月十八日漸く竣工したので検査官小橋技師の検査を終了、
同日より開通することになった。
これによって隠岐島の中心を横断する唯一の県道が
自転車で楽々と往復することができるので一般から非常に喜ばれている。


島根県教育委員会の近代化遺産リストでは竣工年を昭和12年としていますが、
どうやらその前年には完成しておったようです。

新聞記事から以下のようなトンネルのプロフィールが分かりました。
着工:昭和10年6月25日
竣工:昭和11年5月18日
工費:2,279円
請負:二見藤次郎(西郷町)

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新聞記事にあったトンネルの写真は、五箇村、西郷町どちらで
撮影したものなのでしょうか?

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トンネル直前のカーブの具合などからみて、
五箇村側から撮影したものではないかと思うのですが。

西郷町側にポータルは原型を留めていると書きましたが、
当時の写真と五箇村側の現状とを比べると、
現在はトンネル側面が拡幅されています。

その後の交通事情に応じて広げたのか、
あるいはポータルのボロボロ具合からして、
入り口部分が崩れて結果広がったように見えるだけなのか。

2
国土地理院「隠岐北方 昭和46年」より加筆の上転載

上図は昭和46年、二代目中山隧道が現役だったころの地図です。
すでに初代中山隧道とその前後の旧道は表示されていません。

3_201606261552186c3.jpg
国土地理院WEBより加筆の上転載

現在の中山隧道周辺の状況です。
昭和59年の五箇トンネル開業後、
二代目中山隧道とその前後の道は廃道となっています。
現在の地図には隧道も道路も記載がありませんので、
位置関係を加筆してみました。

こうしてみますと現役の五箇トンネルに比べて、
初代、二代目はずいぶん山を登っていることがわかります。


初代中山隧道完成以前の地図の複写を手に入れましたので、
次回以降、この地域の山越えルートについて考察してみたいと思います。


  1. 2016/06/26(日) 16:04:00|
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