元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

浜田の絵葉書よりその2

img852.jpg
前回の続きです。

囲い⑥~⑨t
今回は絵葉書の左半分をみてみます。

⑥浜田税務署
⑥浜田税務署
いかにもお役所風な近代建築です。
戦前の新聞記事などから手掛かりを見つけることができなかったのですが、
昭和12年に刊行された「大日本職業別明細図」を確認したところによれば
位置からして浜田税務署だった建物のようです。
現在も大体同じ位置に浜田税務署がたっています。

⑦坂根惣太氏邸
⑦坂根邸
絵葉書の左端には見慣れない洋風3階建ての建物が確認できます。
これは「関西工務所」を経営していた坂根惣太氏の邸宅だった建物のようです。

⑦020707関西工務所t
(昭和2年7月7日付松陽新報より)

昭和2年の松陽新報に、邸宅の写真と坂根惣太氏の紹介がありました。
新聞に掲載された邸宅は、絵葉書の洋館のそれです。

新聞記事によれば坂根氏は邑智郡矢上出身で、給仕から身をたて、
艱難辛苦の上に「関西工務所」という会社を経営するまでになった、
「今では那賀郡内でも長者の佐々田家に次ぐ多額納税者」になった成功者とのことです。

「関西工務所」詳細が今一つよく分かりません。
新聞記事中に「土方の大親分」とある事から、
土木請負業を生業とする会社だったのでしょう。
あまりにも情報が少ないので今後も調査が必要です。

浜田ホテルニューキャッスル
(グーグルマップより)

その後の坂根惣太氏邸がどのような経緯をたどったのかは不明です。
現在の場所でいえば「ホテルニューキャッスル」のあたりになりましょう。
 
⑧那賀医師会館
⑧那賀医師会館
浜田川に面して異彩をはなつ洋館は「那賀医師会館」の建物です。

⑧040510那賀医師会館
(昭和4年5月10日付松陽新報より)

新聞記事より、那賀医師会館は昭和の御大典記念として計画され、
工費五千五百円、昭和3年11月起工昭和4年3月竣工したものとあります。

⑨川口屋
⑨川口屋
看板建築風の建物2件が確認できますが、このうちの
向かって右側は現存する川口屋(昭和4年築)の建物と思われます。

⑨DSCF8493
川口屋の三階部分、バルコニー状の装飾が絵葉書のものと一致しますね。

【参考資料】
松陽新報
大日本職業別明細図 昭和12年 東京交通社
島根県の近代化遺産 平成14年 島根県教育委員会

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  1. 2018/05/06(日) 21:27:15|
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三成のワキ

1
木次線の出雲三成と亀嵩の間、線路に沿って国鉄時代の貨車が二両保存?されています。
国道432からも良く見えるのでご存知の方も多いでしょう。

2
昭和43年の銘板。

3
二両とも台車が残っており、線路も敷かれていています。

4
この貨車は国鉄のワキ10000形といい、Wikipediaによれば貨物列車の運転速度向上のため、
最高速度時速100 kmで走れるように開発された貨車だそうです。

6
ワキ10120。

5
ワキ10073。

8
橋の上から俯瞰。ワキ10000はおそらく木次線で運用されたことはないかと思いますが、
既に現役を退き、現存する車体もほとんどないので貴重な存在と言えます。

それにしても、川と国道・木次線に挟まれたこの敷地にどうやって運び込んだのか。
トレーラーで陸送したとなると、国道から木次線を狭い踏切で渡らなければならず、
大変な作業だったのではないかと推察します。

【撮影】
平成27年5月

  1. 2018/05/06(日) 17:50:18|
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浜田の絵葉書より(その1)

最近絵葉書ネタばかりですが、やはり今回も絵葉書ネタです。

img852.jpg
せんだってヤフーオークションで浜田市をうつした絵葉書を落札しました。
なかなかクリアな画質で建物がいろいろ確認することが出来る貴重な資料です。
この絵葉書に写されている個々の建物について、
ブログ主が持っている資料を基に考察を加えてみたいと思います。

図1
(国土地理院WEBより)
絵葉書の写真は浜田の北側の山より日本海の方向に向けて撮影されています。
写っている範囲はおおよそ上図の赤枠の範囲内でありましょう。

囲い①~⑤
まずは絵葉書の右上、殿町~松原町界隈の建物をみていきます。


①旧制浜田中学校
①浜田中
大柄の瓦屋根の建物が重なる部分は旧制浜田中学の敷地、現在の浜田市役所付近にあたります。

①img489t
浜田中学校は戦後の学制改革で浜田第一高校となり、
昭和24年には旧浜田連隊跡地へ移転、その後は浜田市役所として使用されたそうです。

①DSCF8512
浜田中学跡地には旧校舎玄関の部材の一部が保存されています。


②松原小学校
②松原小
町はずれにみえる学校のような建物は松原小学校の校舎です。

②080517原井小松原小
(昭和8年5月17日付松陽新報より)
絵葉書に写された校舎は昭和8年に新築されたものです。
絵葉書の写真と全く同じ校舎ですね。


③浜田高等女学校
③浜田高女
松原小学校の手前に写っている大きな洋風建築は浜田高等女学校の校舎です。
現在の石神社の隣、浜田警察署の敷地(平成28年移転)にありました。

③img491
浜田高等女学校の校舎は明治35年に建設されたもので、戦後浜田高女が浜田第二高校となり、
昭和24年に浜田高校に統合されて旧浜田連隊に移転した後は
浜田市立第二中学校の校舎として昭和46年まで使用され、その後解体されました。
絵葉書にも写る校門の門柱は浜田高校と移転した第二中へ移設され現存しています。


④旧浜田町役場
④浜田町役場
浜田高女の手前、入母屋屋根の建物は旧浜田町役場の建物です。

④151102浜田市成立
(昭和15年11月2日付松陽新報より)
昭和15年、浜田市が成立した際の新聞記事にこの役場の建物の写真が掲載されていました。


⑤浜田町立女子技芸学校(浜田町立実践女学校)
⑤技芸女学校
浜田大橋の北詰にある学校建築は、浜田町立女子技芸学校(浜田町立実践女学校)の校舎です。

⑤技芸学校
浜田女子技芸学校は大正9年創立で昭和8年に実践町立女学校と名前を変えています。
この絵葉書ではタイトルがが「技芸学校」となっていますから、昭和8年以前に撮影されたものでありましょう。



【参考HP・資料】
島根県立浜田高校HP
浜田市立松原小学校HP
松陽新報
大日本職業別明細図 昭和12年 東京交通社


  1. 2018/04/21(土) 18:42:38|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その6)

T14~S4
松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その3)
先代16代松江大橋に並行する水道管用橋の存在について指摘をしましたが、
今回はその続編です。

水道管
先代松江大橋の時代には、橋の上流側(宍道湖側)に
水道管用の橋が並行して架けられていたことが確認できる絵葉書があります。

水道管無
同じように見える絵葉書でも上記の水道管用の橋が見当たらないものもあります。


先代の松江大橋の架橋が明治44年、松江市における上水道の設置が大正7年ですから、
その間に松江大橋を撮影したものには、この水道管用の橋がないという事になり、
このことは大橋の撮影時期を特定するうえで重要な指標になるものと思われます。

松江市水道局のHPでは、給水開始が大正7年6月とされていますから、
大橋川を渡る水道管もそれ以前に建設されたという事が推察されます。
昭和16年に刊行された松江市誌では、松江市水道の開通について、
大正7年3月主要部分落成・6月給水開始と記してありました。

もう少し詳しく水道管用の橋の架橋時期が分からないかと
当時の山陰新聞を調べてみたところ次のような記事が見つかりました。

t060712水道管架橋
大正6年7月12日付山陰新聞

「市水道工事」
松江市敷設水道工事は殆ど全部終了したれば愈々十四日より
大橋川の難工事に着手の筈にて十日より準備工事に取懸りたる
同所の経費は約一万円の見積にて大橋西側に橋桁と平行に
直径十六吋(インチ)の鉄管を架設すべく
橋材は全部鉄筋コンクリートを用いる由にて竣工迄約四十日を要すと
因みに該工事を終えれば間も無く市内の吸引●成し得る見込み●●と


出てきました。
水道開通の1年前に大橋川を渡る水道管橋の工事が
開始されようとしていたことが判明しました。
・経費1万円
・直径16インチ(約40センチ)の鉄管を架設
・橋材は全部鉄筋コンクリートを用いる
・竣工迄四十日を要する
・大正6年7月14日から着手の予定
等という事が新聞記事よりわかります。

工事開始やその後の経過についても記事があると思ったのですが何故か見当たらず。
次に大橋川架設の記事が出てくるのは翌大正7年1月です。

t070123大橋管架橋
大正7年1月23日付山陰新聞

「水道は今に出来る 問題の架管橋工事も終わる」
(前略)大橋架管工事も頃日来の大雪の為に工事を休んでいたところへ
二十二日は久しぶりの快晴に街中の雪は殆ど消えてしまうほどの日和ときたので
早速工事を開始したので中央部の未成工事もようやく目鼻が付いて
同日午後にはついに最后のカアダア(ガーター?)を上げたから
23日には直ちに鉄管を上げてそこにめでたく問題の大橋管架橋も
まず完成することになった(後略)


大正6年7月の着工を伝える新聞記事では工期を40日としていたのに、
予定をはるかに上回る6か月後にようやく工事の目途がついたようなので、
相当の難工事だったのでしょう。
タイトルの「問題の架管橋工事」とあるくらいですから大変だったようです。

この新聞記事より、水道管を渡す橋を「架管橋」と呼んでいたことと、
大正7年1月23日ごろに架管橋が完成したことが分かりました。

記事中「カアダア」とありますが、これはガーター橋の「ガーター」のことでありましょう。
しかし、実際の架管橋はトラスで成されていることは絵葉書から明白です。

img562.jpg
古絵葉書を観察する限り、基本は上路式トラス橋、
中央部分2径間のみ下路式トラス橋が用いられています。

上路式トラスはトラスの上部に道路(ここでは水道管)が乗る型式で
トラスは道路の下に位置しますから構造物が景観の邪魔をしません。
その代わりに桁下(つまり橋から水面)の空間が十分にとれないという短所があります。
一方、下路式トラスはトラスの下部に道路が乗る型式であって、
トラス構造が道路より上にくるために桁下の空間が十分という長所と
景観が阻害されるという短所があります。

大橋の西側、つまり宍道湖側に架管橋を架ける際には景観の問題が発生します。
上路式であれば、大橋からの景観は阻害されません。
しかし水運が盛んだった当時であれば、上路式では桁下の空間が十分に取れず、
大きな船がくぐれなくなるという懸念もあったのでありましょう。
だからといって下路式だけで橋を架ければ、大橋からの景観が全く阻害される。
折衷案として船が通る部分だけを下路式としたのではないでしょうか。

余談が長くなってしまいましたが、当時の新聞記事より、
水道管を渡す橋(架管橋)は大正7年1月末に完成したことが分かりました。
これにより、建物や自動車からだけでなく
水道管の有無によっても撮影年代の絞り込みが出来ることになります。

img821t
水道管が写っているので、大正7年1月以降の撮影。

img548.jpg
水道管がないので工事着手前、大正6年7月以前の撮影。


  1. 2018/04/05(木) 23:49:19|
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三澤村の絵葉書

最近絵葉書ネタが続いていますが、久しぶりの更新も絵葉書ネタです。

1
ヤフーオークションで「三澤名勝」と題された絵葉書を落札しました。
「三澤」は現在の奥出雲町三沢地区です。
かつては三澤村という独立した村でしたが、
昭和30年に三成町・阿井村・亀嵩村・布勢村と合併して仁多町となり村はなくなりました。

2
三澤村の中心地を写した絵葉書です。右手前に立派な門構えのお屋敷があります。
突き当りの茅葺屋根がキャプションにある「蔭涼寺」でしょう。

この絵葉書の風景がいつ頃撮影されたのか、
画像からは時代を確認できるものが見いだせませんでした。
表の通信欄の罫線が全体の半分の位置でしたので、
測定法に依れば大正7年以降に作られた絵葉書。という事はわかります。



現在もこの風景が残っているのかどうか現地へ行ってきました。



3
素晴らしいことにお屋敷は残っていました。
絵葉書と同じアングルで写真を撮ってみました。バッチリ絵葉書が写された当時のままで感動。

4
三沢の中心部に広い敷地を構えるお屋敷。この地の旧家なのでしょう。

5
門柱だけが洋風。絵葉書にちらっと写っているのが確認できますが、
かつては門柱の上にアーチに鉄柱を渡して照明が設置されていたようです。

撮影した平成29年当時、人気がなく空き家のようでお屋敷の今後が心配になりましたが、
平成30年3月6日付の山陰中央新報に奥出雲町がこの物件を買い取り、
地域振興の一環として貸事務所として改修して起業支援に使う旨の記事が掲載されていました。
どのように改修されるのかは今後のお楽しみですが、建物は守られるようでひと安心です。

img149.jpg
ちなみに、絵葉書左奥に写っている商家風の建物。

8
こちらも当時の建物がきれいに残っているようでした。

7
いずれにしても、戦前に撮影された絵葉書の風景を、
現在にも見出せることが出来たのは感動的な出来事でした。

  1. 2018/03/16(金) 22:40:46|
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