元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧上府村役場(浜田市上府町)その2

①
以前ご紹介した浜田市上府町の旧上府村役場について、
当時の新聞記事より建築年が判明しました。

②山陰新聞 040714
昭和4年7月14日付山陰新聞

「上府村の役場新築 此十五日着工」
那賀郡上府村では既報の如く村役場庁舎新築の為
過般入札に付した結果、三千四百円にて下府村
森下治三郎氏に落札した
右新庁舎は本館六間半五間半三十五坪五合、
瓦葺二階建、階下は事務室宿直室とし、
階上広間は会議室及び村公会堂とするもので
七月十五日着工、十月三十日竣工の予定


山陰新聞より、昭和4年7月に着工したことが分かりました。
設計者は不明ですが請負は隣の下府村の森下治三郎氏、
いわゆる地元の大工の棟梁という事でしょうか。

一階を役場の事務所スペースとして、二階に村の公会堂の機能を持たせる。
このような部屋割りは当時の村役場で少なくないようです。
現存する旧湯里村役場も、二階が公会堂に充てられています。

③松陽新報 041227
昭和4年12月27日付松陽新報

「大正御即位の記念事業漸く成る」
「上府村役場落成す」
那賀郡上府村は戸数二百四十余戸人口千二百余名の小村ではあるが
大正御即位記念に村役場の新築を思い立って以来無理をせずに村民が
心を合わせて蓄積し得た金によって今昭和四年工費四千六百三十余円を投じ
洋館建ての広壮な村役場を新築し二十四日其落成式をあげ (以下略)


タイミング的に「昭和御大典」の間違いでは?
と、見出しだけ読むと感じてしまうのですが、
そうではありませんでした。

松陽新報では昭和4年12月24日に落成式を挙げた事が報じられています。
前述の山陰新聞記事では10月末日竣工予定とありますが、
実際の竣工日から落成式開催の日までの間が数か月開くことは
当時の建築事情ではよくある事ですので、上府村役場の実際の竣工も、
12月以前だったのかもしれません。

④041227上府村役場
落成式当日?の貴重な写真です。
浜田市教育員会様からの聞き取りで、
戦後になって小学校の敷地の丘の上に移築されたという事が分かっていますので、
この写真はそれ以前、現在の県道のあたりに建てられた当時の写真なわけです。
現場と比べますと玄関の位置が異なります。

⑤
旧玄関が確認できますね。

⑥
移築された際に玄関の位置が変更されたのでしょうか?

⑦
丘の下に建っている上府小学校の校門。

⑧
不鮮明ですが、上府村の写真にも似た姿の門柱が写っています。
現在の上府小学校の校門は上府村役場の門柱を転用したものである可能性があります。


当時の新聞より、移築前の村役場時代の姿を確認することが出来ましたが、
残念ながらこの村役場の建物は解体されてしまい、その姿を見ることは出来ません。
平成27年に上府小学校が廃校となり、校舎・旧公民館(上府村役場)を解体して保育園が建設されています。
戦前からの貴重な物件であり、それこそ地域のシンボルであった建物なのですから、
完全に取り壊さなくても旧役場を取り込んだ保育園の設計も出来たのではないかと思うのですが。。。




【旧上府村役場の年表】
昭和4年  上府村役場新築(7/15着工・12/24落成式)
昭和11年 青年学校校舎に転用
昭和28年 上府小学校敷地拡張・旧役場を丘の上に移築
平成27年 上府小学校閉校
平成28年 上府保育園新築の為解体

【建物プロフィール】
昔の建物名:旧上府村役場
現在の建物名:上府公民館
竣工:昭和4年(平成28年解体)
構造:木造2階建
設計者:不詳
施工者:森下治三郎

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  1. 2018/06/17(日) 12:02:50|
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御便殿その2(浜田市)

1_20170508224513778.jpg
以前ご紹介した浜田市の「御便殿」について、
浜田市のHP資料と、山陰行啓を記録した資料、
「行啓記念春日の光」(明治40年)から、情報を整理したいと思います。


【建設の経緯、設計者など】
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御便殿は明治39年10月に起工し、翌40年5月に竣工しました。
浜田市の資料(「浜田市役所HP『浜田城』歴史の散歩道その11」)
や、「行啓記念春日の光」によれば、
御便殿は、旧浜田藩主である、松平子爵が浜田営造株式会社に建築を依頼したとあります。

t41110山陰御大典
大正4年11月10日付山陰新聞より

「浜田営造株式会社」という会社が、どのような会社だったのか、
仔細は不明ですが、「営造」という名をつけているので、
建築・土木に類する事業を行なっていた会社であることが推察されます。

浜田市の別の資料(「平成28年度第4回浜田城周辺整備検討会委員意見要旨」)
には、次のような記載がありました。

三隅の宮大工によって建てられた。
これについては、以前、期成同盟会での活動の際に、
三隅の方から資料をご寄附いただいている。
建築会社としては、俵三九郎氏が運営していた
浜田営造株式会社に依頼したと記録されている。


御便殿は、三隅の宮大工が手がけたとあり、前述の資料には
同浜田営造から大工に宛てた感謝状の画像があり、
「門手喜七」という名が確認できます。

浜田営造株式会社は「俵三九郎」という人物が経営していたとのことで、
この「俵三九郎」でネット検索をしますと、
元浜田市長、浜田市名誉市民の俵三九郎氏がヒットしますが、
明治29年生まれで、御便殿建設時は10歳であり、時代が合いません。
浜田営造の三九郎氏は元浜田市長の三九郎氏ではないようです。

浜田出身で島根選出の戦前の衆議院議員に、俵孫一という方がいますが、
この方の係累を確認しますと、父が俵三九郎、元浜田市長俵三九郎の甥とあり、
浜田営造を経営していた俵三九郎は、元浜田市長の父親であることが推察されます。

以上のことから、御便殿の建設に当たっては、
浜田営造株式会社が松平子爵家より委嘱を受け、
実務には三隅の宮大工である門手喜七があたった。
ということがいえるのではないかと推察されます。


【建物の使用の変遷】

御便殿は、明治40年5月に完成し、
同年6月に東宮殿下のご宿泊所として、使用されました。
その後どのような用途に供されたのかを改めて整理してみました。

4_201705082245166df.jpg
以上のように、
戦後は長きにわたり宗教法人(立正佼成会)の施設として利用されてきました。
その後、施設の新築に伴い、御便殿の建物は浜田市に寄付され、
本来の位置より北西へ曳家の上、保存され現在に至ります。

下記に、航空写真より、建物の位置、周辺環境の変化について確認してみたいと思います。

5_20170508224518e63.jpg
周辺環境の変化としては、昭和30~40年代の、国道9号線の新道が開通したこと、
御便殿後方に位置していた江戸期以来の庭園が潰されたことが上げられます。
昔の航空写真と現在とを比較してみますと、
御便殿の原位置と、曳家による移転との位置が明確になり、
現在御便殿がある位置は、元の庭園の跡地であることがわかります。

3_201705082245156d6.jpg
以上、建物の建築に関わった人々や、
建物周辺環境の変遷などについてまとめてみました。
建物の活用方法については、まだ議論がなされているようですが、
山陰行啓のご宿泊に使用されたという歴史的な意義が
しっかり記録される様な活用方法を期待しています。


【参考文献】
行啓記念春日の光 明治40年 上田仲之助編
浜田市HPより「『浜田城』歴史の散歩道その11」
浜田市HPより「平成28年度第4回浜田城周辺整備検討会委員意見要旨」
浜田市御便殿リーフレット

  1. 2017/05/08(月) 22:52:34|
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浜田高校の門柱(浜田市黒川町)

1

浜田高校に古い門柱が残されています。

これは、旧制浜田高等女学校の校門だったものです。


2 

浜田高等女学校は明治33年創立、

明治35年に洋風新校舎へ移転(現浜田警察署敷地)しており、

この際、現在浜田高校に残る門柱も作られたものと思われます。

 

当該校舎は戦後浜田市立第二中学校となり、

昭和46年の中学校移転まで使われました。

校舎解体の際に、門柱は浜田高校、袖門柱(背の低いほう)は

原井町に移転した第二中の門として移築されています。


3 

上掲の絵葉書の拡大です。

門扉もなかなかおしゃれなデザインです。


4 

絵葉書と現状との比較です。完全に一致していますね。

 

左側の門柱も併せて浜田高校に移築されていましたが、

現在は根元から折れてしまい失われています。

 

5_20161119202236e89.jpg 

歴史的な門柱であり、浜田高等女学校関連のほぼ現存唯一の遺構ですが、

現地には説明版などはありません。

門柱のすぐ隣に歩兵第二十一連隊碑があり、哨舎が保存されているので、

浜田聯隊関連の門と誤解される恐れがあります。

 

ブログ主も絵葉書で気が付くまでは浜田連隊の遺構と思っていました。

できれば説明版などを設置していただけると、

浜田高女の記憶が後世に伝わっていくものと思います。

 

【参考文献】

創立九十周年記念 千鳥会誌 平成2年 千鳥会

 



  1. 2016/11/19(土) 20:28:00|
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浜田の洋風建築(浜田市)

浜田市内に残る洋風建築をご紹介します。
浜田は藩政時代以来の古い町であり、空襲なども受けていないので
古い町並みが残っていてもよいのですが、
道路の拡幅や空洞化による取り壊しなどで極めて
中途半端な町並みになっています。
その中にもわずかながら洋風の建物が残っています。

1
旧宮脇洋服店。
昭和2年築で、浜田市内に建てられた洋風建築の中でも、
もっとも古い部類に入るそうです。
現存建築としては最古なのかもしれません。

2
同じ建物の平成15年の様子。
上掲の写真は平成24年撮影ですから、
10年のうちにきれいに塗り替えられたことがわかります。
しばらくは安泰でありましょう。

3
看板建築風の川口屋は昭和4年築です。

4
3階建の建物で、3階部分はベランダ状の意匠です。

ご紹介できる現存建物はここまでです。

昭和4年の松陽新報に、
浜田の建築に関する興味深い記事がありました。

5
松陽新報(昭和4年9月7日付)

「平屋礼賛が亡び六十尺の高い家」
58年前の浜田地震でスッカリ平屋礼賛党が殖え、
震災復興当時の浜田は平屋建が大流行したものである。
その片影が今猶町内随所に見受けられ、
お年寄りの内には二階建に絶対反対を称えるものさえ
チョイチョイあると云う事だが、
時世はいつ迄もそうそう平屋礼賛を許さないので、
改築の都度二階建が増して行く。
殊に五六年この方三階建、四階建、
或いは露台までも設置した洋館建が急に、
沢山町並を抜きんでて天空へ高く聳え立つ様になって来た。
(中略)
この程新築した井上医院の如きは、
地上から屋上まで五十九尺八寸と云う延びようであって、
今の処町内随一の高い家屋である。
因みに平屋建で大きいのは旧郡役所と公会堂(旧藩主邸)、
又四階建は浪花食堂、洋館建で人目を惹くものは浪花食堂、
石州銀行、佐野呉服店、坂根商工会長邸、洗心閣、
宮脇洋服店、其他学校官公署等である。


「58年前の浜田地震」とは、明治5年に発生した大地震のことで、
この際に浜田の「畳ヶ浦」が隆起し、
温泉津では現在の薬師湯(当時の震湯)が湧くこととなりました。

当時の浜田町内においては民家の倒壊被害が著しく、
地震後の再建にあっては、地震の被害を教訓として、
軒の低い建物が増えたということを新聞記事では示しています。

本記事にて記される建物には現存するものもあります。
「公会堂(旧藩主邸)」とは以前ご紹介した「御便殿」でありましょう。
今回紹介した宮脇洋服店の名もあります。
四階建の「浪花食堂」は浜田大橋袂にあった洋風建築で、
当時のカフェーであったそうです。

6
松陽新報(昭和4年5月3日付)
他の日付の松陽新報に浪花食堂の写真がありました。

7
新聞に掲載されている写真は、
昭和4年に建設された「井上医院」であります。

「この程新築した井上医院の如きは、
地上から屋上まで五十九尺八寸(約18m)
と云う延びようであって、
今の処町内随一の高い家屋である。」

と、あります。

なかなか素敵なデザインの建物で、
低い建物が多かった町中では相当目立ったのではないでしょうか。
また、井上医院3階からの眺めも素晴らしかったものと思われます。

8
この井上医院、実は市内に現存していたのです。

9
3階部分が撤去され、円弧を描くファサードは
トタンで覆われてしまっていますが、原形はとどめています。

10
最初にこの建物を見た時には、
オリジナルな姿がさっぱりイメージできませんでしたが、
今回、新聞記事から建築当初の姿を見出すことができました。

11
浜田市役所駐車場からみた井上医院。
3階部分が失われた状態でも存在感抜群です。

こんな素敵なデザインだったのであれば、
復元してカフェなどに活用したら、
旧市内に観光客が呼べるのではと思いました。
が、今年になってグーグルマップで確認したら、
美事、更地になりたての風景が表示されてしまいました。



浜田市と云えば近年まで現役だった原井小、
長浜小の戦前築校舎を惜しげもなく解体し、
拙ブログでも紹介した「相生水源地」の建物も
最近になってきっちりと更地にしてしまいました。

祖先からの貴重な遺産を丹念に更地にしてゆく、
過去を振り返らない浜田市の確固たる姿勢には
感服するほかありません。

どんどん浜田から足が遠のきます。


【撮影】
平成15年3月(宮脇洋服店のみ)
平成24年9月

【参考文献】
松陽新報記事
「島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成14年 島根県教育委員会



  1. 2016/02/20(土) 23:42:32|
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有福小学校(浜田市下有福町)その2

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以前ご紹介した有福小学校について新たな情報が入りましたので、
その2をお送りします。



【建物の詳細】
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松陽新報(昭和9年11月8日付)

新聞では、昭和9年11月8日に竣工式を挙げる旨と、
建物の概要、有福村村長と有福小学校校長の談話が掲載されています。

講堂については、
「講堂の如きは小学校としては山陰第一称され、
鉄筋コンクリートのドッシリとした近代建築」

と記されています。

続いて建物の概要が記されていたので、概要をまとめます。

講堂
九間に十八間鉄筋コンクリート平家建基礎工事は
地下四尺、地上四尺のコンクリートとなし大玄関は正面に大円柱を現し
玄関両側に控室と下足室をつけ演壇は三方階段とし
後方に控室、生徒出入口合計二十四坪

増築校舎
旧校舎四教室を解いて二十二間に五間半の二階建、
階上普通教室四、階下職員室、普通教室二、唱歌室

経費総額
二万七千六百円建築費、設備費、監督費、雑費共
内一万九千円村債、二千百円本年度会計、
三千五百円学校積立金、三千円基本財産繰入

学校長の談話に次のような一文があります。
「この講堂の新築は実に私が就任以来の念願であつた
それは学校教育の上のみに止まらず従来本村に
全村民を一同に会合せしむべき適当の場所をもたず、
村政上不便利大なるものがあったからである
今後温泉を普く天下に紹介する上に於いても
此講堂を利用して各種の催しを計画し
或いは諸般の合同施設等に提供する事は
村の発展に資する処すくなからずを信ずる」


つまり、講堂の建築目的が
小学校の教育施設としての役割だけでなく、
村の公会堂、文化拠点として活用することも
踏まえていたことがわかるわけであります。



【有福小学校の設計者】
3_2015071123314149c.jpg
松陽新報(昭和9年11月8日付)

戦前の新聞には学校や郵便局などの新築の際に、
このようにその地域の名士や団体の名刺広告が掲載されていました。
この風習(?)がいつ頃まで続いていたのかは確認していませんが、
名刺広告から、建物の建築に関係した人物・団体はもちろん、
その村にどのような団体があったのか、
どのような人が名士としていたのかが、わかります。
郷土資料としても有用なのではないかと思います。


さて、赤枠の部分を拡大してみましょう。
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「有福校建築工事」「設計監督」
「秋鹿建築事務所」「秋鹿隆一」

ありがたいことに、設計した人物が名刺広告を出してくれて、
有福小学校の設計者が秋鹿隆一だったということがわかりました。
島根県内で秋鹿隆一が設計したことが(ブログ主の中で)分かっているのは、
藤忠ビル(昭和3年・現存せず)
旧吉田信用購買販売利用組合(昭和7年ごろ)
以上2件であります。

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藤忠ビル

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旧吉田信用購買販売利用組合

秋鹿隆一は戦前に島根県で活躍した建築家のようですが、
有福小学校も秋鹿隆一の設計だったとは(ブログ主の中では)新発見でした。

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旧吉田信用購買販売利用組合と松陽新報掲載の有福小学校校舎との比較

吉田の信用組合と有福小の窓回りのデザインを比較してみると、
何となく似ているような気がします。


昔の新聞記事から建物の設計者が割り出せるとは思いませんでした。
今後も、この方面から建築データを収集してみようと思います。


【参考文献】
松陽新報 昭和9年11月8日付新聞記事


  1. 2015/07/11(土) 23:42:14|
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