元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧本郷青年倶楽部(大田市温泉津町湯里)

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以前ご紹介した旧湯里村役場前の通りを海方向へ、歩いていくと、こんな建物に出会いました。

民家にしては大柄で何となく明治~大正期の小学校の講堂にも見える建物です。
気になる建物でしたが、旧湯里村の歴史を記した「ふるさとアルバム」という資料に、
昭和初期に「本郷青年倶楽部」として建てられたものという記述がありました。

2
映画を上映したり、会合などに使われたとありました。
「青年倶楽部」というくらいですから、主に地元の青年団が利用していた施設なのかもしれません。

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伝統的な建築手法の延長線上ある建築で近代建築的な要素はありませんが、
戦前に地方の農村で建設された集会所施設の現存例として貴重な物件と思われます。

【撮影】
平成27年1月

【参考文献】
ふるさとアルバム 平成8年 山本隆慶
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  1. 2017/08/16(水) 22:19:03|
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温泉津温泉薬師湯旧館(大田市温泉津町)

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温泉津温泉のしっとりとした町並みに彩りを添える、
薬師湯旧館の建物です。

元々は明治5年の浜田地震の影響により湧きだした
新湯(震湯)の浴場として大正8年に建設された建物で、
現在は薬師湯の付属施設、1階は「カフェ内蔵丞」として、
2階は休憩室として活用されています。

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全体をみれば「洋風建築」といっていいのでしょうけれども、
和風のアーチが連続し、2階は廊下を挟んで和室のしつらえがのぞいており、
伝統的な旅館建築の面影も残ります。

「カフェ内蔵丞」のHPによれば、
建物の普請にあたって地元の大工さんを神戸まで勉強に行かせたとあり、
洋風建築の技法を持たない地元の大工が見よう見まねで洋風を作ったという点では、
いわゆる「擬洋風」建築の一種といえるのではないかと思われます。

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元の玄関部分です。
現在の浴場(新館)が昭和29年に建てられて以降、
浴場としては使用されなくなりました。
現在は玄関部分、内装が、大きく改修されており、
建築当時の姿とは異なります(後述)。

5_201603280038297ad.jpg
隣接する新館より、石州瓦で葺かれた屋根を眺めることができ、
かつての換気塔が2つ設置されているのを観察することができます。

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長命館の3階客室より眺めた薬師湯旧館です。
旧館の奥、パラソルが設置されている建物は現在の薬師湯(新館)です。

◆建築当初と現在との相違点
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前述の通り、
昭和29年の新館建築により、
浴場としての役目を終えています。

現在に見る姿は建築当初とは異なる姿であり、
以下に相違点、変遷について整理をしたいと思います。

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ヤフーオークションで手に入れた絵葉書です。
年代は大正8年~昭和4年の間と推定され(※)、
建築当初の姿であると思われます。
キャプションには「石見温泉津新湯の景」とあり、
当時「新湯」と称されていたことがわかります。

現在の姿と比べると、
①1階の平屋の張り出し部分がない(後年の増築)
②浴場入り口が男女(?)2か所設置されている
③2階の中央部分がバルコニー状に張り出している
④2階開口部にガラス窓が入っていない
などの相違点が見られます。
特に1階部分は現在とかなり様子が異なることがわかります。
塗装についても、現在は薄灰色一色ですが、
絵葉書では窓枠や柱部分が壁とは異なる濃い色で
塗り分けられていたように見受けられます。

※絵葉書の年代の根拠
http://www.tanken.com/ehagaki.html
「きかは便郵」の表記は明治33年から昭和8年2月まで、
昭和8年以降は「きがは便郵」と表記が変わったそうです。


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松陽新報昭和4年7月14日付

昭和4年の松陽新報の「温泉津特集」的な
記事に掲載されていた写真です。
写真をみると、軒下に「温泉文化休憩所」の看板が
設置されているのがわかります。
看板設置以外にはあまり改造がないように思われます。

当時の新聞の写真は使いまわされているケースがあるので、
この写真も記事が昭和4年だからといって
昭和4年のこの時に写したものとは断定できませんが、
おおよそ昭和に入ってからのものではあると思われます。

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比較のために上記の時代の姿を並べてみました。
このほか、「温泉津: 1999 : 伝統的建造物群保存対策調查報告書」では、
正確な時代はわかりませんが、
建物右側に売店のような小屋が増築されている写真が掲載されていました。

薬師湯の向かいにある山県屋旅館のHPには、
ページの下の方に1975年と記載のある、新湯の写真が掲載されています。
小さい写真なのですが、よく見るとバルコニーが残っており、
中央の玄関部分も原形をとどめた姿が確認できます。
建物左側は手前に増築されているようで雑貨屋のような雰囲気です。
山県屋旅館の画像から、少なくとも昭和50年頃までは
建物は原型をとどめていた。ということがわかりました。

玄関部分の改装は、新館ができて使われなくなった時期と想像していたのですが、
意外と最近の改装ということでちょっとびっくりです。

以下に、建物の改装についてまとめます。
1:大正8年~昭和初期・原形の姿
2:昭和4年頃・「温泉文化休憩所」の看板が取り付けられている
3:時期不明戦前・建物右側に売店が増築されている
4:昭和50年・建物左側に増築され雑貨屋が開店している
5:時期不明・改装(玄関・バルコニー撤去、窓ガラス取り付け)
6:現在・「震湯カフェ内蔵の丞」

※根拠
1・絵葉書より
2・松陽新報昭和4年記事
3・「温泉津: 1999 : 伝統的建造物群保存対策調查報告書」
4・山県屋旅館HP


◆設計・施工
 「中国地方の西洋館」や、「興雲閣修理復元基本計画」などの資料では、
この建物の設計を和泉利三郎としています。
和泉利三郎は松江城山の興雲閣を手掛けた人物です。
しかし、「温泉津: 1999 : 伝統的建造物群保存対策調查報告書」では
この建物の棟札について記載があり、

棟札によれば、
上棟:大正8年3月
施主:内藤金五郎、山根権四郎
大工棟梁:山崎仁作、松本伊作

と、いうことになっています。
上述の通り、建物建設に当たっては大工を神戸に勉強に行かせたとありますから、
山崎仁作氏か松本伊作氏のどちらか、あるいは両名が神戸へ行き、
神戸の洋館を手本にして建てた。ということになるかと思います。

◆名前の変遷
建物(温泉)の名前の変遷は以下の通りです。
新湯:建築当時
震湯:昭和10年頃
藤の湯(藤乃湯):町営時代
薬師湯:現在

◆まとめ
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以上、薬師湯旧館についてまとめてみました。
文献やネットで建築年や施工者がまちまちでありましたが、
その点についても情報を整理する事が出来たと思います。
もう少し具体的に、いつ頃どのような改修が行われてきたのか、
絵葉書などの古写真を探せれば面白いのかな。と考えています。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:新湯
現在の建物名:カフェ内蔵丞
竣工:大正8年
構造:木造2階建
施工者:山崎仁作、松本伊作

【撮影】
平成19年8月
平成21年9月

【参考文献】
中国地方の西洋館 平成3年 白石直典
温泉津: 1999 : 伝統的建造物群保存対策調查報告書 平成11年 温泉津町教育委員会 
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 平成14年  島根県教育委員会
興雲閣修理復元基本計画 平成21年 興雲閣修理復元・活用検討委員会











  1. 2016/03/28(月) 00:52:00|
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温泉津の洋風建築(大田市温泉津町)

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しっとりとした町並みが素敵な温泉津にも、
若干の洋風建築が残されています。

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旧大嶋屋。
「温泉津: 1999 : 伝統的建造物群保存対策調查報告書」によると、
大正末期の築とのことです。

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旧大嶋屋の建物は全体的には伝統的な塗屋形式を取っていますが、
角の面だけが看板建築になっている不思議な建物です。

竣工当初からこのような形だったのでしょうか。
上掲の資料にはその点について記載がありませんでした。

この建物は温泉津のメインストリートが直角に曲がる角地にありますので、
当初は通常の町屋建築だったものが、
昭和に入ってバスや自動車が乗り入れるようになった際に、
その通行の支障にならぬよう、角を箭除することとなって、
その時に箭除した面を洋風のファサードにした。ということも考えられます。

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こちらは上掲の写真の2年前(平成19年)の姿。
比べると窓枠の木製化など、
ずいぶんきれいに整備されたことがわかります。

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こちらは昭和10年築の旧岸本時計店の建物です。
1階は住居に改装されていますが、
元々はショウウインドウを備えた店舗建築でした。

【撮影】
平成19年8月
平成21年9月

【参考文献】
「温泉津: 1999 : 伝統的建造物群保存対策調查報告書」 平成11年 温泉津町教育委員会 

  1. 2016/02/14(日) 23:21:19|
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旧久手信用購買販売利用組合会館(高砂会館)その2

大田市久手駅前の気になる建築、「高砂会館」ですが、
昭和9年の松陽新報から、「久手産組事務所落成」という記事を見つけ、
色々なことがわかってきました。

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【建物に関する考察】
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松陽新報(昭和9年8月12日付)より抜粋

新聞記事にばっちり建物の写真が掲載され、
当時の姿が判明しました。

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松陽新報写真の拡大。

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現在の姿。

竣工当時の写真と、現在の写真とを比べてみますと、
塔の部分1階3階のアーチ窓が失われている点、
塔の正面側に後年の補強がある点を覗くと、
思ったより改変の度合いは少ないように思われます。

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特に、塔の4階部分のスパニッシュな装飾は、ほぼ原形をとどめているようです。

当時の写真から、1階窓下回りがタイル貼りであるほか、
外装はおそらくモルタル塗りということがわかります。

現在は建物全体が暗い赤色で塗装されておりますが、
塔の4階部分だけ暗いクリーム色になっていて、
当時の白黒写真と見比べると、
元々は全体が暗いクリーム色で塗られていたのではないかと思われるのであります。

1階窓下回りのタイルについては、現在で一部が残存しています。

建物本体は装飾の少ないモルタル塗りであるのに対して、
付属の塔屋の4階部分だけがしっかりとスパニッシュスタイルになっているという、
一風変わった建物なのですが、竣工当時の写真を見ても、
この塔屋の存在に「とってつけた感」がないのは、設計者の技量によるものでしょうか。


【建設の経緯・建築のプロフィール】5_20150628191948722.jpg

「事務所新築事情」という項があり、これをまとめますと、
『組合設立以来借入事務所で営業し、今日まで21年を経過したが、
事務所建設積立金も1万円以上となり、かつ、社会状況の変化に際し、
産業組合の活動の重要性も一層の期待がかかっている中で、
借家では十分な活動ができないので新築を決行した。』
ということになりましょう。

建物の詳細も記載されています。
・本館2階建塔屋つき西洋造一棟
・1階51坪、2階51坪、塔屋3階4坪、塔屋4階4坪
・設計者:岡田現組合長息工学士岡田孝男氏
・工事監督:大田町近藤常次氏
・請負者:株式会社鴻ノ池組
・工事請負金額:8,800円
・起工:昭和9年2月
・竣工:昭和9年7月31日


【設計者岡田孝男について】
設計者の岡田孝男について調べてみましたところ、
次のようなことがわかってきました。

日本建築学会論文集、牧田知子
「近代住空間の形成-大阪・三越住宅建築部と岡田孝男の活動‐(H7年)
によりますと、岡田孝男は明治31年島根県生まれ、
昭和2年に京都帝国大学建築学科に入学し、
武田五一教授の私設秘書を務めながら昭和4年に卒業、
昭和5年の大阪・三越住宅建築部の開設と共に、
同建築部の設計技師に就任し、
昭和16年の同建築部閉鎖まで住宅設計をしてきたとのことでした。

岡田孝男の他の作品には以下のようなものがありました。

旧山本清邸(近藤寿一朗邸):昭和13年築
(西宮市HP)
http://www.nishi.or.jp/homepage/shicyo/koho/shiseinews/2013/13_1010/201310101421_1203.html

旧根雨公会堂:昭和15年築
(文化遺産オンライン)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/113237
(日野町HP)
http://www.town.hino.tottori.jp/1287.htm

近藤寿一朗は根雨出身の実業家で大阪を中心に活躍していた人物です。
同じく大阪で活動していた同じく山陰出身の岡田孝男に自邸の設計を依頼し、
さらに郷里に寄付した公会堂の設計も依頼したのでありましょう。

岡田孝男の経歴をまとめますと下記のようになります。

明治31年   島根県に生まれる
昭和2年   京都帝国大学建築学科入学
昭和4年   卒業
昭和5年6月  大阪・三越住宅建築部開設 設計技師に就任
昭和9年   久手信用購買販売利用組合会館設計
昭和13年   近藤寿一郎邸設計
昭和15年   根雨公会堂設計
昭和16年   三越住宅建築部 閉鎖

このほか、山陰では戦後、
境港の旅館「美保の松」の別館の設計を行っています。

岡田孝男の作風を、前述の論文から引用しますと、
「雑誌への寄稿では諸外国の様々な住宅スタイルを紹介した岡田だが、
 実際には極端な洋風は採用していない。洋風では褐色のS字瓦、
クリーム色の壁、アーチ形の開口、パーゴラ、バルコニーなどの要素を多く採用し、
和風では黒色のS字瓦、外壁の腰タイル、白壁に柱梁を表す、
丸窓といった手法で新しい和風を表現した」
とあります。

住宅である近藤邸はもちろんですが、
根雨公会堂、久手信用購買販売利用組合会館(塔屋以外)には
上掲の岡田孝男のデザインの共通性を感じさせます。


【なぜスパニッシュなのか】

以上のように、華美な装飾性を排した、モダンな作品性をもつ岡田孝男が、
なぜ、久手信用購買販売利用組合会館の塔屋ではスパニッシュな装飾を用いたのか。

結論としては、
「設計者がスパニッシュ様式を日本に紹介した、武田五一の弟子だったから。」
ということになりましょう。

岡田孝男の師匠である武田五一は関西の建築界の重鎮で、
スパニッシュ様式を日本に紹介した人物としても知られているそうです。

現存する武田五一の建物から、「スパニッシュ」な建物はないかと
探してみたところ、京都の「東方文化学院京都研究所」がありました。

旧外務省東方文化学院京都研究所(文化遺産オンライン)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/181833
(昭和5年 武田五一・東畑謙三)

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いかがなものでしょうか、塔のデザインがそっくりではないでしょうか。

三越住宅建築部において普段はクライアントの注文に沿った
設計をしていた岡田孝男が、郷里で産業組合長をしている父親から
組合会館の設計を頼まれ、郷里という気楽さから、
通常の顧客ありきの設計とは異なる自由度の中で、
師匠が手掛けていた「スパニッシュスタイル」を、
試してみたというところなのではないでしょうか。


【まとめ】
長くなりましたが、
松陽新報の記事より竣工当時の建物と現在の状況との比較、
設計者と塔屋がなぜスパニッシュ様式になったかの考察をしました。

岡田孝男の設計した建築物は文化財に指定されているものが多いですが、
当該の建物も、山陰地域にあってスパニッシュ様式が表現された希少性、
また、その設計が武田五一の影響を受けているという点から、
かなり貴重な建物であると思われます。

これからもお元気で、と願います。




【参考文献】
松陽新報記事 昭和9年8月12日付 松陽新報社
新建築 昭和31年10月号 新住宅社
新版日本近代建築総覧 昭和58年 日本建築学会
近代住空間の形成‐大阪・三越住宅建築部と岡田孝男の活動‐
平成7年 牧田知子 日本建築学会論文集
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 平成14年 島根県教育委員会

  1. 2015/06/28(日) 19:36:05|
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旧湯里村役場(大田市温泉津町湯里)

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山陰本線の温泉津駅から松江方面へ一駅目、湯里駅のすぐ近くに、
昭和7年築の旧湯里村役場の建物が残されていました。

国道9号線のすぐそばで、何度も通過していたはずなのですが、
まさか戦前築の村役場が残っているとは気がつきませんでした。

湯里地区の郷土誌「ふるさとアルバム」に
この建物が現存していることがさらっと記載されているのに気がつき、
あわてて訪問した次第です。

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木造モルタル2階建て、堂々とした役場建築です。
「ふるさとアルバム」によりますと、2階は大広間となっていて、
地域の「公会堂」としての機能を意図していたそうです。
御覧の通り、現在は2階の窓はすべてふさがれており、使用されていないようです。

湯里村は昭和29年に温泉津町と合併して消滅しています。
合併後もしばらくは町の出張所などとして使用されていたのかもしれませんが、
現在はJA石見銀山の「湯里購買店舗」として今なお現役です。

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「ふるさとアルバム」より転載

前述の「ふるさとアルバム」には
戦前の役場時代の写真が掲載されていました。
この写真と現在の姿とを見比べてみますと、
現在といくつかの違いが見られます。

①玄関部分
当初は立派な車寄せが付いていたようです。
現在は簡単な庇に改変されています。

②建物左側の出入り口
戦前の写真では出入り口がありませんので、後年増設されたことがわかります。 

③建物前の門柱
門柱が設置されているのがわかります。「ふるさとアルバム」によると、
門柱は後年、湯里小学校の門柱として移転したとあります(未確認)。

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現在の玄関部分です。庇はだいぶ簡略化されています。
立派な車寄せはどうして撤去されてしまったのでしょうか?

現在は玄関両脇に飾り柱が持ち上がっていますが、
これは玄関部分を改築した際に設けられたものでしょうか。

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建物右側にある出入り口です。
庇の部分をみると、以前は一回り大きい庇がついていたような痕跡が見られます。

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湯里の集落のはずれより建物を眺めます。
集落に頭一つ出た寄棟屋根の建物があったら、
何らかの近代建築が隠されていると考えてよいでしょう。

なぜ、こんな大物物件が近代化遺産リストから漏れているのでしょうか。
県内にはまだまだ人知れず残されている近代建築がありそうです。


【撮影】
平成27年1月

【参考文献】
ふるさとアルバム 平成8年 山本隆慶


  1. 2015/01/14(水) 20:58:41|
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