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島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

美保関五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)その2

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以前ご紹介した五本松公園の慰霊塔について、
当時の新聞記事より設計者が判明しましたのでご紹介します。


S4年6月26日慰霊塔
昭和4年6月26日付松陽新報

「本社が建設する慰霊塔の敷地踏査」
「斯界の権威吉田博士、龍居文学士、勝部本社副社長と美保関へ」

本社が八束郡美保関に建設するかの美保関沖海軍殉難将士の慰霊塔の敷地実地踏査のため
我が国の斯界の権威者たる吉田工学博士は特に建設予定地との関係を考慮し
、庭園学の泰斗龍居文学士と同道、二十五日午前六時三十八分、松江駅着、
勝部本社副社長、錦織通信部長らの出迎えを受け旅館差廻しの自動車にて直に皆見館に入り、
小憩の上午前九時十分松江桟橋発美保関行機船で
勝部副社長及斯道に造詣深き鴻池組中島技師を同行、
唄の港の名所として天下に冠たる五本松公園の慰霊塔建設予定地の実況を詳細に亘って踏査するところがあった


建設にあたっての実地調査として、
「吉田工学博士」と「庭園学の泰斗」である「龍居文学士」が、
美保関を訪問した旨が記事になっていました。
さらに、「鴻池組の中島技師」も同行していることがわかります。


S4年6月29日慰霊塔
昭和4年6月29日付松陽新報

「美保関海軍殉難将士『慰霊塔』設計図」
我社が広く全国より基金を募集し美保湾頭五本松公園に建設する海軍殉難将士の慰霊塔設計は
かねて斯界の権威である早大建築科吉田教授に依頼し、
爾来同教授の手にて○心設計されていたが
この程龍居文学士とともに来陰建設地を実地踏査の結果、図の如き成案が出来た。
此案は別項吉田教授の談にもある如く、代表的様式で軍艦のマストを形象し、
「時代の個性」というものがよく表現されて永久に残される記念物としては申し分なくできている。
図は側面であるが、正面には東郷元帥の揮毫になる「慰英霊」の文字を篆刻することになっているから
竣工の暁は美保関頭の一偉観となるであろう。


この記事により、「早大建築科の吉田教授」が
慰霊塔の設計者ということが明確になりました。

「吉田教授(工学博士)」は、この後の竣工の際の記事などにも
一貫して下の名前が出てこないので、新聞記事からは誰であったのか確定ができません。

戦前の建築家で「吉田」、かつ早大建築科の教授ということで調べたところ、
該当するのは「吉田享二」という建築家でした。

吉田亨二をウィキペディアで調べてみますと、
次のような人物であったことが記されています。

吉田享二
兵庫県出身で明治20年生まれの昭和26年没
建築材料学の権威
大正元年に東京帝大建築学科を卒業
のち早大建築学科に勤務

主な設計
城崎温泉一の湯、まんだら湯
小野田セメント本社(大正6年・現存)
工業技術院東京工業試験所(大正11年・解体・現在の初台の新国立劇場)
京浜ホテル(昭和5年・解体)
菅原電気商会ビル(昭和9年・現存)
など

吉田享二は、建築家というよりも、
建築材料学の研究者としての業績のほうが大きかったようで、
作品は少なく、かつ現存する建物も少ないようですから、
この美保関慰霊塔は、吉田享二の現存する作品として、
極めて貴重な物件といえるのではないかと思われます。


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銀座の旧菅原電気商会ビルは、数少ない吉田享二の設計の一つです。

かなり長くなるのですが、上記慰霊塔のイラスト記事と同じ面に、
吉田享二と龍居文学士のコメントが掲載されているので、
これを下記に引用します。


S4年6月29日慰霊塔2
昭和4年6月29日付松陽新報

「マストを形象し時代の個性を表す」
「設計者吉田早大教授語る」
(前略)これが慰霊塔建設について努力を払いつつあるが、
予定の計画は至極順調に進捗し、
先に塔の設計を依頼せる斯界の権威吉田早大教授並びに
建設予定地たる八束郡美保関五本松公園との関係を考慮に加え、
庭園学の泰斗たる龍居文学士の実地踏査を乞うこととなり、
既報の通り両氏は去る二十五日来松し、
勝部本社副社長及び鴻池組松江出張所主任中島技師と同道し
仔細に実地につき研究調査の結果案成って二十六日午後四時八分、
松江駅発の列車により両氏とも帰郷の途についたが
その帰京に際し吉田教授は今回の設計に関し大体左の如く語った

僕はこの永遠に記念さるべき御社建設の遭難海軍将士慰霊塔の建設にあたり、
その設計を依頼されたことを真に光栄に存じて居る。
案の大体は先に御社にお送りしておきましたが、
今回実地を親しく見たらばのお奨めもあり
傍龍居君と同道してやって来たのでしたが、
さて来てみると私がかねて東京でこの塔はこうしたならばと
心に描いて居った事を町の人がやりつつあったことを嬉しく思う。
構造は鉄筋コンクリートとなし、その様式は近代派のものを選んだ。
この案についてはいろいろ御批判もあろうが
僕の趣旨としては時代から時代へ永久に残される記念物としては
其の時代を表現したものが最も当を得た記念建設物だと固く信じて居る。
この種の或る建設物に偶々見出すような徒らに歴史的の過去に執着をもたず
その時代の世界の建築界がもてる個性を表すという信念で生まれたのが
この美保関の慰霊塔である。
それから一般の人々に塔自身が親しまれるものであり
多少は利用されるものがいいと考えて居たのに
其点において今回選ばれた位置が美保関で最も高地に属し
眼界茫々たる有名な五本松の上にある事がたまらなくよいと思ふ。
塔の下位には眺望台をとって大惨事のあった海上を近く指呼し得るようにしたのも
その意味に外ならない。
設計の細目に亘っては一寸話しても徹底しまいが上部にはグロシズで彫刻し、
大体の型を軍艦の櫓式マストに型どって多少その間に因縁を結んで居る。
只今少し予算があれば僕の思う通りの理想を表現することが出来たのだったがと
それのみ遺憾に思って居るが設計に際しては
詩的というのか劇的というのかなんとも云われない心の衝動にかられながら
精神を込めたものを造ったつもりである。
それも余り小事に拘泥せず大マカなところに
僕の心に満ち溢れる精神的の表現がある事を申し上げておく

云々。

「位置については申分がない」龍居文学士語る
尚龍居文学士は四囲の地形との関係につき

最初は五本松を背景にして建設される筈であったが
斯る偉大なる記念物を建てるに五本松を背景では余りにスケールが小さ過ぎて
却って五本松まで蹴ってしまう恨みがあるので
それよりか蒼空を背景にして今少し高所に建設すれば万事引き立つと信じ、
現在の位置に変えたのである。
そうすれば塔の場所としても日本海を一眸眼界に収め得るし又、
航海する人々にとっても慰霊塔をそれと指摘し得るなどの諸点から
工事としては難工事であるけれども
それらの支障を排して現位置に確定した心意気をかって貰いたい

云々


以上、どこまで新聞社の脚色が入っているのかは不明ですが、
慰霊塔に対する吉田亨二の設計思想がよく理解できる資料と思います。
上記記事により、龍居文学士が五本松公園における慰霊塔の位置関係について、
相当の関与をしていたことが示唆されますが、
この龍居文学士とは戦前期の造園学者である龍居松之助と思われます。
さらに、施工が鴻池組松江出張所であったこともわかります。
鴻池組松江出張所、ならびにこの出張所の責任者であった中島信技師は、
島根県の戦前の建築物の施工者としてよく名前が出てきます。

【まとめ】
・美保関慰霊塔の設計者は吉田享二
・慰霊塔の建設位置について龍居松之助が関与
・二人は昭和4年6月に美保関にて実地調査を行った
・施工は鴻池組松江出張所(中島信)



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  1. 2016/07/31(日) 23:57:03|
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