元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

美保関五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)その4

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その3では戦前の姿について記しました。
今回のその4では戦後の慰霊塔について記したいと思います。

2
戦後、慰霊塔は「平和祈念塔」と改称されました。

美保関町誌の記述は下記の通りです。

【美保関町誌上巻】
この事故の犠牲者については、のち昭和4年11月松陽新報社が主唱、
美保関町が後援して、五本松公園の一角に慰霊塔が建設された。
戦後平和祈念塔と改称され、今日なお祀られ続けている。


※美保関町誌における慰霊塔についての記載はわずか2行。
「近代の美保関」という項に記載があるのですが、
慰霊塔の記述の前段には3ページにわたって国共内戦、226事件、日中戦争起こる、第二次世界大戦起こると、
近代史が語られて、肝心の地元の出来事はわずか2行。
近代史の勉強はしかるべき専門書がたくさんあるわけですから、
郷土資料であるならばもっとしっかり地元の出来事について記載をお願いしたいものです。
島根県に限定されることなのかどうなのか知りませんが、
郷土資料の近現代部分については広義の歴史ばかりが語られて、
結局地元で何があったのかがさっぱりわからないというケースが往々にしてあり、
地元の近代建築の調査をする上での障害になっています。


それはともかく、戦後、慰霊塔は「平和祈念塔」と改称されたことがわかります。

【美保関地域観光振興協議会公式ホームページ】
終戦までは海軍元帥東郷平八郎の「慰英霊」の文字が刻まれた忠霊塔だったが、
戦後、忠霊塔などは壊すよう命じられたため、
やむなく文字盤だけ外し、昭和27年(1952)平和祈念塔とした。


「慰英霊」の文字を掲げたままだと撤去の恐れがあったので、
昭和27年に平和祈念塔と改称したと読めますね。
戦後、GHQの指導のもと多くの忠魂碑や
それに類する石碑、記念碑類が撤去されたり、名前の修正をされたりしたようですが、
この慰霊塔もその影響を受けて名前を変えたようです。

3
現在、塔には「平和記念塔」の文字のほか、
その下に写真のような文字も残されています。
「山陰新報社長 伊達源○○謹書」とあります。

「山陰新報」は戦前の松陽新報社の後身であり、
現在の山陰中央新報の前身でもある新聞社で、
昭和27年から32年までこの名前を名乗っていたそうです。

この当時の山陰新報社の社長は伊達源一郎、
松江市の名誉市民にもなっている方で、
明治7年井尻村の生まれ、国民新聞社長、ジャパンタイムスの社長などを経て、
昭和21年~28年の間、島根新聞(山陰新報)の社長を務めています。

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塔の側面には「山陰新報社建立」の文字も残されています。

建設の主唱は松陽新報社だったわけですが、
戦後の改称にあたっても引き続き、
その後身である山陰新報社がイニシアチブを取っていたようです。

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ヤフーオークションで平和祈念塔の絵葉書を購入しました。

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絵葉書の裏(表?)には切手は7円」と表示があります。
はがきが7円だった時代は昭和41年7月1日から昭和47年1月31日までですから、
絵葉書は昭和40年代のものと推定されます。

少なくとも昭和40年代までは、平和祈念塔はそれなりに手入れがされていて、
かつ、「絵葉書の題材になる」だけの存在感があったということが言えると思います。

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絵葉書を拡大してみますと、塔の入り口の上の部分に「慰英霊」のレリーフが確認できます。
当初この箇所には美保関事件を報じた新聞記事を銅板に刻んだものが設置されていました。

8
現在は「慰英霊」のレリーフは欠落しています。

図1
戦前、昭和40年代、現在のそれぞれの姿を比較してみましょう。

昭和40年代までは、「慰英霊」が「平和祈念塔」に変わった点、
入り口のレリーフが変わった点以外は原型を留めていますが、
それに比べると現在の姿はとにかく荒れています。
昭和40年代までは塔の周囲に生い茂っていた松も全くなくなってしまっています。
塔先端の国旗掲揚ポールを兼ねた彫刻も、
昭和40年には戦前と同じ姿で残されていますが、
現在は根元部分を残し欠落してしまっています。

当時を知る関係者も少なくなり、維持する力も関心もなくなってしまったのか、
少なくとも昭和40年代までは絵葉書になるくらいの存在であったのに、
現在では荒れるに任せた状態になっているとは、社会情勢の変化は大きいものがあります。

ブログ主が現地を訪問してからすでに10年が経過しており、
現在も現存していることはわかっていますが、痛みはひどくなっていることでありましょう。
このままいくと、「老朽化が激しく補修にも多額の費用が掛かるので撤去」という、
お決まりのコースをたどることは容易に想像できます。

慰霊塔には下記のような特徴があります。
・建築材料学の権威である吉田享二の数少ない設計作品であり、かつ現存例である
・昭和4年に鴻池組により施工された島根県内では比較的初期のRC建築
・軍艦のマストをモチーフとした当時としては斬新なデザイン
・美保関事件という歴史的経緯をしのぶ建築物
・皇族方の御下賜金をはじめとして多くの人々の寄付を基にして建てられた

等々、島根県の近代史を語る上でも、建築史を語る上でも、
きわめて貴重な物件と言えます。


【参考文献】
美保関町誌上巻 昭和61年 美保関町
松江今昔 平成11年 松江市

【参考HP】
日本新聞博物館
http://www.newspark.jp/newspark/archive/shinbunjin/no_51.html
山陰中央新報社
http://www.sanin-chuo.co.jp/kaisha/gaiyou/3.html
美保関地域観光振興協議会
http://www.mihonoseki-kankou.jp/see/see_gohonmatsu/

【ブログ内関連記事】
関の五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)
美保関五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)その2
美保関五本松公園慰霊塔(平和祈念塔)その3
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