元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

千代富橋(安来市宇賀荘町)

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安来の中心地から南へ、伯太川に架かる千代富橋です。

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現在の地図と昭和9年の地図とを比較してみましょう。
県道257号線は千代富橋の上流に架かる宇賀荘大橋を通っており、
千代富橋あっては宇賀荘町側はともかく、西側は田んぼの中の細道を通るため、
あまり存在意義がないように思えます。

戦前の地図をみますと、当然宇賀荘大橋はなく、
千代富橋がかつての宇賀庄村と大塚村、能義村、飯梨村方面とを
繋ぐ重要な橋だったことが分かります。

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千代富橋できわめて特徴的なのが、「親柱がない」ということです。
橋名板は分厚いコンクリート製欄干の断面に直接くっついています。

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西側の橋名板です。
風化して読み取りにくくなっていますが、「昭和十二?年三月竣工」と読めます。

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こちらは宇賀荘町側の橋名板。「ちよとみはし」とあります。

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西側からの眺めです。幅は1.5車線程度です。

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西側の橋詰です。親柱が設置できるようなスペースはありますが、
果たしてもともと親柱があったのか、なかったのか不明です。

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橋の全景。中間橋脚は6本。なかなか長い橋です。

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橋桁と一体化した欄干です。
橋の断面は凹形となっていて、これが7つ連なっていることになります。
が、これは桁橋といっていいのでしょうか。

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欄干には3つ凹みが掘ってあり、単調さを和らげています。

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橋の上から。とにかく分厚い欄干が異様な感じです。

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定規がなかったので自宅のカギで厚さを測ってみました。

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欄干の厚みはおおよそ42㎝でした。
右側は千代富橋上流に架かる天野前橋のコンクリート製欄干の厚さを
比較のために測ってみたものです。おおよそ16㎝でしたので、
千代富橋の欄干の厚さがよくわかると思います。

欄干はコンクリートの塊ですが、
こんなに分厚いと重量も相当なものになると思うのです。
橋の耐久性上問題はないのでしょうか・・・。
どうしてこんなデザインにしたのか・・・。

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欄干の重量のせいかどうかはわかりませんが
宇賀荘町側から2本目の橋脚は若干沈下しています。

親柱無し、分厚いコンクリート製の欄干、そして欄干と一体化した桁、
同時期の橋に比べると異例なスタイルです。
どうしてこのような様式になったのか、大変興味を覚えます。


【橋の諸元】
橋名:千代富橋
竣工:昭和12年?3月
形式:RC桁橋?
所在地:安来市宇賀荘町
川:伯太川
道路:?

【撮影】 
平成26年9月



  1. 2016/05/01(日) 23:33:54|
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新町橋(安来市広瀬町)

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松江から国道432号線で旧八雲村から峠を越えますと、やがて広瀬の町に入ります。

新町橋は広瀬の古い町並みのはずれに近いところに架かる橋です。
国道432号線はこの橋を渡ると間もなく布部川の堤防にぶつかり、
安来からの県道45号線と合流します。

現在
(国土地理院webより一部加筆の上転載)
地図で見ますとこの位置に架かっています。

昭和7年
(大日本帝国陸地測量部 「松江」昭和7年より)
戦前の地図で比較してみます。
広瀬の町の形は基本的に変わっていません。
よく見ると町の北側に「いづもひろせ」の表記があります。
これは昭和3年に開業した広瀬鉄道の終着駅です。
広瀬鉄道は戦後に一畑電鉄広瀬線となり、
昭和35年に廃止になっています。

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中間橋脚を持つRCの桁橋です。

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橋の南側。南詰上流側は拡張されています。

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親柱は4基とも現存しています。
親柱の素材はおそらく、花崗岩、欄干はコンクリート製と思われます。
橋名板が現存しており、「新町橋」と刻まれていることから、橋名がわかりました。

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親柱に竣工年の記載がないので、確かな架橋年は不明です。
が、橋名板が破損していて、
もとの橋名板が嵌っていたと思われる跡が露出した親柱がありました。
この画像から推察すると、元は金属製の橋名板が凹みにおさまっていて、
金属供出で撤去、その後セメントで現在の橋名板が再現されたのではないかと思われます。

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欄干はご覧の通り、上部に後年のかさ上げがみられます。
株のオリジナル部分には鉄製の柵が入っていたような跡が残っています。

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親柱の橋名板、欄干の鉄柵が撤去されているように見える。
ということは、戦時中の金属供出の影響を受けているということになり、
橋の架橋年代も、おそらく戦前になるのではないかと思われます。

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広瀬の古い街並みにマッチした近代化遺産たるRC桁橋です。
親柱もモダンな雰囲気ですので、もう少しきれいに整備されると、
広瀬の町並みによりふさわしくなると思うのですが。

【橋の諸元】
橋名:新町橋
竣工:たぶん戦前
形式:RC桁橋
所在地:安来市広瀬町
川:祖父谷川
道路:国道432号線

【撮影】 
平成26年9月
  1. 2015/12/20(日) 23:17:25|
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横田舟橋その2(益田市横田町)

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益田の横田舟橋の架橋当時の新聞記事を見つけました。

図1
松陽新報昭和7年9月2日付

写真は出雲横田駅側(南側)から、
撮影されたものと思われます。
やけに上から目線の写真ですが
建物の2階から撮影したのでしょうか。

記事を書き出してみます。

松陽新報S7.9.2
「横田の舟橋渡り初め」
美濃郡豊田村大字横田地内を貫流する匹見川の支流、
横田川の村道に架設されてある横田舟橋の改架は、
県費補助千円の支給を受け、
工事費二千三百三十円にて大阪清水組に落札。
此の外セメント九百二十八円八十銭を費やして四月一日着工し、
八月二十五日を以て竣工したので、
村主催の下に一日午後二時半より渡初式を挙行した。
橋長二十八m五十cm、幅員五mの
最新式モダン鉄筋コンクリート橋で一異彩を放っている。
因みに渡初には豊田村小学校一年生全部を先頭とし、
式後余興として撒餅に興を添えるなど盛んであった。

(句読点を適宜挿入。送り仮名、現代仮名遣いへの修正を行った)

ポイントとしては・・・
・村道に架かる橋をコンクリート橋にした
当時の木橋からの改架は国道や県道が中心と考えていたので、
この時期に村道レベルの橋でも近代化が進んでいたことは意外でした

・県費補助千円の支給
景気の悪い時期で、当時の千円はかなりの金額です
農村救済の要素もあったのでしょうか

・工事費2,330円
工事費とセメント代928円を合わせて3,258円、
昭和10年頃の小田の下田橋が5,900円、
昭和11年の三刀屋の伊毘志橋が1,465円、
横田舟橋の規模が下田橋と伊毘志橋の中間くらいと考えると、
自然な金額のように思われます

・大阪清水組に落札
施工会社が大阪の清水組とわかりました
現在の清水建設とは異なる会社のようです

ら
新聞記事の写真を拡大してみますと、
欄干は2本の鉄柱とそれを支える鉄製の柱で構成されており、
オール鉄製だったように見受けられます。

3_201511052341509f9.jpg
親柱に丸い穴が2つ残っており、
欄干が鉄柱2本で構成されていたことがうかがえます。

オリジナルの欄干が残っていないのは、
おそらく、戦時中に金属供出を受けて撤去されたからでしょう。

さ
架橋当時の南側親柱/現在の南側親柱/現在の北側親柱

当時の画像を見ると、橋名板がはめ込まれていたようですが、
現在の南側(石見横田駅側)の親柱には
広い凹みに橋名・架橋年が彫られており、オリジナルと形状を異にします。
北側の親柱は、新聞の写真と同様のサイズのくぼみが残っています。

推察にすぎませんが、橋名板が金属供出か何かで撤去されたのち、
橋名・架橋年を親柱に直接彫ったのではないでしょうか。
立派な文字を彫るためには橋名板が嵌めてあったくぼみだけではたりず、
くぼみを拡大(整形)した上で文字を彫ったのではないでしょうか。

そうなると、
親柱が引っこ抜かれて基部が露出しているように見えるのは、
上記作業を行うために実際に一回引っこ抜いたから。
ということが理由と考えても不自然ではないように思われます。

以上、当時の新聞記事より、色々推察(妄想)してみた次第です。



  1. 2015/11/05(木) 23:54:28|
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吉田大橋(雲南市吉田町)

1_20151028220729ba2.jpg
旧吉田村の中心地である吉田町に架かる、吉田大橋です。
一見して戦後の橋のように見えますが、
昭和7年に架橋されたれっきとした戦前生まれの橋です。

ちなみに橋の向こうに見えます「吉田公園」は、
昭和4年に彫刻家内藤信の設計のもとに造られた公園です。
松江氏の名誉市民にもなっている内藤信は、
吉田の出身で、後年、松江大橋架橋の際、
橋のデザインについても大きな影響を残した人物でもあります。


2_201510282207316a5.jpg
(国土地理院WEBより一部転載)
場所は地図の通り、
民谷方面から来た場合の吉田町の玄関口にあたります。

3_201510282207326fb.jpg
(大日本帝国陸地測量部 「頓原」昭和10年より)
現在では新しい道・橋ができてしまい、
ほとんど吉田公園のエントランスとしての機能しかなさそうですが、
昔の地図を見ますと、吉田町の中央通りに通じる重要な橋であったことが読み取れます。

4_20151028220733d0e.jpg
吉田公園へ上る階段から橋を俯瞰した画像です。
橋の向こうが吉田町で、田部家の土蔵群や旧吉田村商工会館などがある通りです。

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上記の画像の反対側からの撮影です。
親柱も欄干も架橋当時のものではありません。

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(松陽新報昭和7年10月10日紙面より抜粋)
こちらは昭和7年の松陽新報に掲載されていた、開通当時の吉田大橋の写真です。
上記の現在の写真とほぼ同じアングルです。
欄干はコンクリート枠に鋳鉄の柵が入ったデザインで、
橋の中央付近には橋灯が設置されているのも確認できます。

島根県の近代化遺産リストでは「昭和7年頃」とされていましたが、
昭和7年10月の記事で「このほど竣工した」とありますので、
「昭和7年架橋」と断定してよいものと思います。

※記事では「吉田橋」となっていますが気にしないことにします。

7_20151028220810be0.jpg

7-1.jpg
オリジナルの親柱は、吉田公園側に2基現存しています。

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原型2基のうちの片方は頭の部分が失われていました。
一体成型ではなくて、パーツがわかれていたようです。

9_20151028220814eba.jpg
側面を観察してみます。
中間橋脚を持つ、単純なRC桁橋です。
橋脚をよく見ますと、上流側が継ぎ足されたようになっています。

10_2015102822083992f.jpg
上流側からの様子です。桁部分と合わせて観察してみますと、
奥がオリジナル、手前側のスッキリした桁部分が継ぎ足し部分と思われます。
オリジナル3:拡幅2くらいの割合でしょうか。
この拡幅の際に欄干なども改装されたのではないかと思われます(憶測)。

11_20151028220840808.jpg
欄干が改修されて、一見戦後の橋と見間違えてしまいますが、
戦前架橋のコンクリート橋がしっかり現存していました。
これからも末長く現役であるよう祈念します。

【橋の諸元】
橋名:吉田大橋
竣工:昭和7年
形式:RC桁橋
所在地:雲南市吉田町
川:吉田川
道路:市道?

【撮影】 
平成27年9月

【参考文献】
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 平成14年 島根県教育委員会

  1. 2015/10/28(水) 22:19:15|
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伊毘志橋(雲南市三刀屋町多久和)

昭和11年の松陽新報を読んでいたら、
こんな記事を見つけました。

1_201509231643291a9.jpg
松陽新報(昭和11年8月14日付)より

雲南市(かつての三刀屋町、その前は飯石村)の
飯石神社前に昭和11年に和風のコンクリート橋をかけたという記事です。

グーグルストリートビューで確認したところ、
現存していることが判明したので訪問してまいりました。

2_20150923164331946.jpg
昭和11年竣工の伊毘志橋です。

3_20150923164332a6f.jpg
松陽新報より

新聞の写真と現在とを比べてみると、
ほとんど変わっていない事がわかります。

4_20150923164333323.jpg
伊毘志橋は飯石神社の参道に架けられています。
手前が県道、奥の青い車が停まるあたりが神社となっています。
参道は神社で行き止まり。つまり、県道とかではなくて、
純粋に飯石神社への参拝のために架けられているというわけです。
飯石神社は出雲国風土記にも記される、歴史の古い神社であり、
それゆえに立派なコンクリート橋が架けられることになったのでありましょう。

上記の松陽新報昭和11年8月14日の記事を起こします。

「飯石神社境内前の伊毘志橋成る 地元にて盛んな竣工式」
飯石郡飯石村鎮座、
県社飯石神社境内前に架せる伊毘志橋は、本年5月15日起工、
若槻組の手により改架工事中の処、7月28日竣工したるにつき、
10日午前十時より地許飯石村に於て之が竣工式を挙行、
県より門司土木技師臨場其他木次土木管区所長、
阿部県会議員、松尾清三郎氏、三刀屋一宮、
中野各村長外各村団体員等多数参列。
佐藤飯石神社々司司祭の許に修祓式執行、参列員一同玉串奉奠を終って
参列者及小学校児童の渡橋式あり、午後一時終了した。

改架せる伊毘志橋は総工費1,465円にして
ラーメン式鉄筋コンクリート桁に花崗岩匂欄、
仝様親柱には青銅擬宝珠を附したる近代様式に
巧に古典味を加味したる頗る雅致深き様式のものである。


(ブログ主により句読点を適宜挿入)



以上より、橋のプロフィールを整理します。
起工:昭和11年5月15日
竣工:昭和11年7月28日
竣工式:昭和11年8月10日
施工:若槻組
工費:1,465円
形式:ラーメン式鉄筋コンクリート桁

工事を始めてから竣工まで2カ月半で済んでいます。
こんなに早くできるものなのでしょうか?

施工は「若槻組」とありました。
ネットで検索すると、「若槻」の名のつく建設会社が現在島根県下にいくつかあるようです。
ただ、若槻姓は若槻禮次郎閣下をはじめとして、
島根で多く見られる苗字ですから、
そのいずれかがかつての若槻組だったのかもしれませんし、
そうでないのかもしれません。

具体的な費用が1,465円と出ています。
戦前の貨幣価値を現在の水準で考えるのはなかなか難しいようで、
色々ネットで調べてみましたが、次のようなもので比較してみようと思います。
①朝日新聞の一か月の購読料:昭和10年で1円→平成27年で4,037円
②大工の一日の手間賃:昭和10年で2円→平成27年で19,000円
③国家公務員の初任給:昭和10年で75円→平成27年で18,3200円

①をつかうと1円の価値が4000倍:1,465円→591万円 
②をつかうと1円の価値が9500倍:1,465円→1千391万円
③をつかうと1円の価値が2443倍:1,465円→358万円

何が適正なのかよくわからなくなってきますが、
当時の工費1,465円を現在の貨幣価値に直すと、
②の1千391万円あたりが妥当なのではないかと思いました。


橋の形式は「ラーメン式鉄筋コンクリート桁」とあります。
5_201509231643356dc.jpg
うっかり現地でよく確認しなかったのですが、
確かに橋を見てみると単なる桁橋ではなく、
橋台と桁とが一体化しているように見えます。

そのほか記事を読んでいると、
来賓に県の技師が参加していることから、
設計はこの「門司土木技師」という人なのではないか?
という推測や、

そもそも工事費はどこが出したのか、
県社の参道に架かる橋なので県も出費したのか、
それとも地元が全額負担だったのかという疑問がわいてきます。

まったく余談ですが、
橋の竣工式典が10時スタートで13時までかかっているのは、
長すぎるのではないかと思ったのですがいかがなものでしょうか。
(しかも盛夏の8月です。)

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飯石神社側から。
親柱・高欄ともに花崗岩製、擬宝珠が取り付けられ和風の趣です。
親柱の左は「昭和11年7月竣工」、右は「いひ志はし」と刻まれていました。

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和風です。

8_20150923164405764.jpg
立派な擬宝支珠が取り付けられています。
新聞記事によると「青銅製」のものが取り付けられたとあります。
松江大橋の擬宝珠は戦時中の金属供出で取り外されておりますから、
この橋の擬宝珠も例外なく、現在のものは戦後の復元ではないかと思われます。

9_20150923164408670.jpg
県道から眺めた姿です。
こんな立派な橋が残されていたとは知りませんでした。
県内の和風デザインの近代橋としては、松江大橋よりも架橋年が古いわけで
貴重な文化財といえましょう。

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飯石神社の境内は大変清々しい雰囲気でした。
さすが、神国出雲の神社だと思いました、


【橋の諸元】
橋名:伊毘志橋
竣工:昭和11年
形式:RCラーメン橋
所在地:雲南市三刀屋町多久和
川:飯石川
道路:飯石神社参道

【撮影】 
平成27年9月

  1. 2015/09/23(水) 17:01:39|
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