元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

初代中山隧道(旧西郷町/旧五箇村)

隠岐のトンネルと言いますと、「福浦隧道」が有名ですが、
島後の南北を貫通する国道482号線、
旧西郷町と旧五箇村とを境する山脈にも、
明治時代にトンネルが掘られ、現在にも残されています。

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明治27年に完成した初代中山隧道です。
この写真は北側(旧五箇村側)から写したものです。

現在の初代中山隧道
(国土地理院HPより一部加工の上転載)
初代中山隧道の位置を赤丸で示しました。

五箇村誌からこの地域のトンネルの歴史を
ピックアップしますと、以下の通りになります。
明治27年 旧中山隧道完成
明治28年 島後の幹線北方道(現在の国道485号線)の開通
昭和10年 中山隧道(2代目)着工
昭和11年 中山隧道完成
昭和58年 五箇トンネル完成

昭和11年には二代目の中山隧道が完成しておりますので、
旧道(ないしは廃道)となって80年を経過しています。
完成から120年余、使われなくなってから80年経過しているわけですが、
大変きれいな状態でトンネルが残されています。

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上掲の旧五箇村側からトンネルを覗きます。
トンネル内部は崩落もなく、状態が良いです。
ただし、南側(旧西郷町側)入口は風化が進んでいて、
土砂が流れ込んでおり、入り口が狭くなっています。
  
トンネル入り口は石材やレンガで装飾されているわけではなく、
写真のとおりトンネル内も完全な素掘りとなっています。

この付近の地質は中新世前期(約2,300万年前から約500万年前)の
郡層大津久礫岩層という地層が分布するところで、
この地層は凝灰岩や凝灰質の礫岩などが互層をなしています。
凝灰岩は比較的やわらかく、ハンマーでたたくと容易に割ることができますので、
トンネル工事の際も掘りやすかったのではないかと思われます。

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入口上部にはL型のくぼみが7か所確認できます。
雨風がトンネル内に入らないようにするためか、落石除けのためにかの、
屋根が差し掛けられていた跡だったりするのでしょうか?

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全く利用されていない廃隧道ですが、
何故か林道整備の際に初代中山隧道への道が新設されました。

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上掲の写真をよく見ると、
トンネルに向かって左方向に旧道の跡が残っているのが確認できます。
この写真を撮影した当時(平成15年)には、
事の重大性が分かっておらず、
トンネルに接続する旧道にまで意識がなく、
結果、何の写真も撮っていなかったことは痛恨の限りであります。

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上掲のトンネルへの階段を登るとこのような情景が。
トンネルの左に旧道が続いているのが分かります。
画像左下には石垣が積まれているのも確認できます。
(もっとちゃんと調べればよかった・・・。)


【初代中山隧道開通のころの様子について】
このトンネルをご紹介するにあたり、
トンネル開削に至る経緯や完成当時の様子などを記載している資料を
探しましたが、見つけることは出来ませんでした。

昭和8年、隠岐支庁が発行した「隠岐島誌」に、
北方道の記載に付随して中山隧道の記載がありましたので、
少々長いのですが転記したいと思います。

隠岐島誌
「隠岐島総説―地理―交通」
陸路もまた地勢険悪にして交通不便なりしが、明治二十八年
島後の中央幹線たる北方道(きたがたみち)の改修完成し、
西郷町より中條村(なかすぢ)を貫通して五箇村大字北方に至る迄、
四里三十町の間、約二間幅(※)の車道開通し
明治三十三年度に至り、更に福浦港迄延長せり。
※二間=約3.6m

「中条村」
(前略)道路は島後の幹線たる北方道(西郷町より五箇村大字北方に通ずる改修道)は、
本村の中部を南北に貫通し、本村の北境、中山越に至り、
長三十余間(※)に亙れる岩石の隧道を開穿して
、五箇村に出で(後略)
※三十余間=55m程度か?

「五箇村」
本村は、島後の背面に僻在せるを以て、陸上の交通不便を極めしが、
明治二十八年に至り、島後の幹線たる北方道の開通以来、大いに便利を加えるに至れり。
北方道は、西郷中町を起点として、中条村を貫通し、
有名なる中山隧道を通過して、五箇村に出で、国幣中社水若酢神社の社前を過ぎ
、福浦港に達する車道にして、延長五里二十町あり。


以上、情報をかいつまんでみますと以下の通りです。
・明治28年に幅員3.6mの車道である北方道が開通した。
・トンネルの長さは約55mである。

昭和8年に刊行された本において、中山隧道をあえて「有名なる」と
表現したのはどのような理由からだったのでしょうか。
隠岐島後には中山隧道以外にも明治期に完成した隧道は少なくなく、
何を以てして「有名なる」としたのかには、非常に興味を覚えます。

いずれにしましても、
これまで海路に頼るところが大きかった島後の南北の交通が、
中山隧道の完成によって陸上交通に移行するきっかけとなったことは間違いありません。


【だれが中山隧道を掘ったのか】
上述のとおり、市町村誌関係の資料からは、
トンネル工事に関する記載は見つけられませんでしたが、
土木学会のHPに興味深い文章がありましたので
少々長いのですがこれを転記します。

「福浦隧道(初代、二代目)の解説シート」
島根県における本格的な道路改修は1879(明治12)年より行われたが、
松江と隣接県を結ぶ幹線道路(三大道路)の整備が優先され、
離島の隠岐に予算を割くことは難しかった。
地元穏地(おち)出身の県議会議員、中西荘太郎の尽力により、
西郷と北方を結ぶ北方道が開通したのは1895(明治28)年のことであった。
1885(明治18)年、隠岐と本土を結ぶ汽船運行が始まる。
島後の寄港地は島の反対側にある西郷港となり、福浦港は一線から退くことになる。
こうした状況のなかで島後を縦断する北方道の建設は島の北側の村々にとって不可欠であったに違いない。
中西は北方道の開通を見ることなく1892(明治25)年にこの世を去り、
次の選挙で県議会議員となったのが藤田辰次郎である。
藤田は北方道福浦延伸の予算獲得に成功し、
1898(明治31)年に二代目福浦トンネルが完成、翌々年に福浦までの道路が開通する。
掘削を担当したのは、石工の高井甚三郎である。
北方道建設の際、トンネル掘削のために広島県の山中から一族で呼び寄せられ、
彼だけが島後に残っていたという。


中国建設弘済会のHPにある福浦隧道の紹介にも下記のような記述があります。

(前略)このた め、 明 治 31 年(1898 年)に新し いトンネル が作られま した。
これ が 2代目の 福浦隧道で す。このトンネルには、
島後を縦断する北方道建設のため に
広島県から一族を率いて来ていた石工の高井甚三郎
があ たりました。(後略)


ということで、
中山隧道を掘ったのは広島県出身の石工、高井甚三郎、
ということがわかりました。

以上、初代中山隧道の紹介でありました。
昭和11年に完成した二代目中山隧道、
また、明治から昭和にかけての、この地域の道路の変遷に関しては、
次回以降整理をしていきたいと思います。


【参考文献】
・隠岐島誌 昭和8年 隠岐支庁
・五箇村誌 平成元年 安部勝

【参考WEB】
土木学会福浦隧道(初代、二代目)の解説シート
中国建設弘済会アーカイブ

【撮影】
平成15年11月

  1. 2016/06/19(日) 23:55:00|
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島根県内に現存する戦前築の教育施設

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島根県内に現存する、戦前築の教育施設について、表にまとめてみました。

木造校舎一覧

ブログ主が実地調査したもの、各種資料を取りまとめたものを表にしたものです。
分校や明治期に本格校舎を建築する前に仮校舎として使用していた建物などを含めると、
もっと現存例はあるのかもしれません。

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建築様式の変遷や、設計者の確認などはまだまだ研究の余地があります。

  1. 2016/06/02(木) 22:55:00|
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建物データの訂正・追記

これまでご紹介した物件について、その後の調べで内容の訂正が必要なもの、
新たに判明したものなどが出てきましたので、ここでご案内いたします。

①和栗銀行本店の建築年がわかりました。
waguri.jpg
長い間曖昧だった旧和栗銀行本店(JAいずも知井宮支店)
建築年が大正3年と判明しました。


②「旧大田市役所」を「旧大田町産業会館」に訂正しました。
ooda.jpg
大田市内に残る現大田市医師会・大田准看護学校の建物ですが、
建築当初は「大田町産業会館」でした。

確かに大田市役所だった時代もあるのですが、
建物の名前(使用者)は次のように移って行ったようです。
大田町産業会館→大田町役場→大田市役所→大田市商工会議所
→大田市医師会・大田准看護学校


③三隅の医院は昭和6年以降の建築
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三保三隅駅近くに残る洋風の医院ですが、
三隅町誌によると、この地に昭和6年に開業とありました。
よって、昭和6年以降の建築と思われます。


④旧矢上銀行本店の古い写真みつかる*
やがみ(今)
すっかり改装されてしまい、
オリジナルの姿がわからなかった旧矢上銀行本店でしたが、
山陰合同銀行五十年史に写真がありました。
*「みつかる」と書くとなにやら大発見をしたようですが、単にブログ主が見落としていたというだけの話です。
  1. 2015/01/26(月) 22:29:00|
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島根県内近代建築の話題

◇興雲閣は淡緑色だった◇

2009_0920島根10117

平成26年11月20日付の山陰中央新報に、
「興雲閣 建設当時の淡緑色に修復へ」という記事が掲載されていました。

解体修理中の興雲閣の部材を調べたところ、明治36年の建築当初は白色ではなく、
淡緑色のペンキが塗られていたということが判明したということであります。

実際に淡緑色を再現するとのことで、「白亜の洋館」のイメージが強い興雲閣ですが、
塗装が淡緑色になることで、雰囲気がだいぶ変わってしまうのかそうでないのか、
大変興味深いものがあります。

松江市のHPに詳細が掲載されています。
http://www1.city.matsue.shimane.jp/k-b-k/bunkazai/kounkaku/kounkaku_h26_hogoshin_kekka.html


◇豊川発電所・澄川発電所・匹見発電所が有形文化財に◇

平成26年11月21日付の日経新聞に、
文化審議会の登録有形文化財指定の答申に関する記事が掲載されていました。

文化庁の発表は下記のとおりです。
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/2014112101.pdf

島根県内で新たに登録有形文化財に指定されるのは、
豊川発電所(昭和3年)
澄川発電所(昭和18年)
匹見発電所(昭和3年)

以上の3件で、匹見川の古い発電所群が一挙に文化財に指定されることとなりました。

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豊川発電所

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匹見発電所

澄川発電所は昭和18年築と、戦時中に建設された物件で貴重ですが、
ブログ主はその建物を訪問しているにもかかわらず、写真を撮っていませんでした。
戦時下の建築とあって、あまりにも簡素な建物だったので、
あまり撮影する気が起きなかったのが正直なところです。
誠に不覚です。

蛇足ながら、匹見川から山を一つ南に越えた日原の高津川には
昭和13年に建設された日原発電所が現存していますが、
こちらは登録されませんでした。

niti0191.jpg
日原発電所

近くに位置して同じように貴重な物件なのになぜこちらは登録されなかったのか。
文化庁のガイドブックを読むところによると、
登録有形文化財の登録には、持ち主はもとより、
自治体の働きかけのようなものが必要なようです。

豊川・澄川・匹見の各発電所は益田市にあり、
日原発電所は津和野町の域にあります。
益田市は以前より、近代化遺産の保全・活用に力を注いでいらっしゃるようでしたので、
その辺りの成果がこのように現れたように思われます。

せっかくなので日原発電所も仲間に加えてあげてください。。。


  1. 2014/11/22(土) 17:17:00|
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建物の情報を更新しました

DSCF8267.jpg
「旧和栗銀行本店」の建物でした。 →ページへ

hikawa1.jpg
平成25年9月に解体を確認しました。 →ページへ

1_20120721204421.jpg
大正年間築の「入間特定郵便局」でしたが、平成26年4月に解体を確認しました。
→ページへ



  1. 2014/05/06(火) 09:54:00|
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