元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その4)

(その1)(その2)(その3)の番外編です。

CIMG6696.jpg
(その4)では現在の松江大橋の絵葉書について考えてみたいと思います。

121019.jpg
(松陽新報 昭和12年10月19日付)

前回まで検証してきた16代目松江大橋は明治44年の架橋以来、
松江の橋南・橋北を結ぶ重要なルートとして重きをなしてきましたが、
年を経て老朽化が進み、昭和に入ると改架に関する議論が上がるようになりました。
紆余曲折の末、昭和12年10月18日に17代目となる現在の松江大橋が開通します。

【昭和13年以降の絵葉書】
img551t
ブログ主の所有する17代目松江大橋の絵葉書はこの1枚のみです。
開通時すでに大陸における事変は拡大しつつあり、内地の生活や経済にあっても、次第に影響がでつつある時期です。
資材統制の影響なのでしょうか、絵葉書の紙質が恐ろしく悪く、アルバムに収納しようとしたら角が欠けてしまいました。

img551tt
絵葉書の拡大。①~③の要素について考えてみます。

①松江キネマ倶楽部
絵葉書で目立つのは松江キネマ倶楽部の塔の部分がなくなっているという点です。
いつ撤去されたのかは不明なのですが、
開通時の絵葉書でも塔の部分がなくなっているのが確認できますので、
少なくとも昭和12年の段階では塔はなくなっていたようです。
16代目松江大橋を撮影した絵葉書は、
南詰東から北詰松江キネマ倶楽部を中央に据えて橋全体を写したものが多いのですが、
当代の松江大橋になると上記の構図の絵葉書はあまり見かけなくなります。
塔を撤去した松江キネマ倶楽部の姿が「見栄えが悪い」からなのではないかと思っています。


②松江市営バス
橋の上を走る「銀バス」は松江市営バスと思われます。

s1229
(松陽新報 昭和12年2月9日付)

松江大橋開通の年、松江市ではモダンな新型バスをデビューさせています。
松陽新報の記事では、旧松江公会堂前に整列した新型バスの写真を載せていますが、絵葉書にあるバスとそっくりです。


③橋上の灯篭型の照明
この絵葉書の年代を決める上で一番の決め手になるのは、橋中央のテラスに据えられた灯篭型の照明器具です。
現在もテラス上には灯篭型の照明器具が据え付けられてありますが、開通当初は設置されてありませんでした。

130407松江大橋t
(松陽新報 昭和13年4月7日付)

「松江大橋の照明燈」
水郷松江のシムボルである松江大橋は昨年改架以来照明設備が自局の影響で遅れていたが
五日夕方迄に東京電気製水銀燈装置の春日燈篭型の照明燈4個が橋の中央に装置され・・
(後略)


以上のように、橋中央の照明は昭和13年4月5日に設置されたとありますので、
絵葉書に照明があれば、昭和13年4月以降に撮影されたもの。という事が言えるわけです。


  1. 2017/12/27(水) 16:18:55|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その3)

(その2)からの続きです。

【昭和7年~昭和8年の絵葉書】
S7~S8
これまでの絵葉書と若干構図が異なり、川下に大橋館も写っています。

S7~S8t
①原田時計店
未だ改築されていないので昭和8年以前という事が分かります。

②大橋館
07818大橋館新築広告tt
松陽新報昭和7年8月18日付

前述の通り、大橋川沿いの旅館大橋館は昭和7年8月に新築開業していますので、
昭和7年8月以降の風景という事になると思います。

③市営バス
バス
市営バスの塗装が旧塗装ですので、昭和9年4月以前ということになります。

以上のことから、
この絵葉書は昭和7年夏以降から昭和8年までの間に撮影されたと考えられます。

【昭和8年~昭和9年の絵葉書】
絵葉書S8~S9
最後の絵葉書です。
一番目につくのは右端、真新しい原田時計店の時計台ですね。

絵葉書S8~S9t
①原田時計店
この絵葉書ではついに原田時計店が改築されてしまいました。
昭和8年9月2日付の山陰新聞に
「原田時計店8月31日より新築移転」という広告が掲載されていましたので、
この絵葉書は昭和8年9月以降の撮影と思われます。

②市営バス
市営バスはまだ旧塗装ですから、昭和9年4月以前という事になります。

以上のことから、この絵葉書は昭和8年の夏以降、
昭和9年の春ごろまでに撮影されたものという事が推定されます。


(まとめ)
以上、建物やバスの塗装の変化から松江大橋の絵葉書の撮影年代を推定してみました。
このように、建物や乗り物のバスの変化を見ることで、
絵葉書の写真が撮影された年代を大まかにですが特定することができるのではないかと思われます。

原稿を書いている途中で大橋の上流側に併設されている水道管の存在に気が付きました。
松江市水道局のHPによれば、松江市上水道は大正7年6月に給水開始となっていますので、
この辺りをもう少し詳しく調べますと水道管の有無でも年代が確認できるはずで、
まだまだ絵葉書の中に年代を特定できる要素はあるのではないかと思われます。


  1. 2017/12/24(日) 16:38:18|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その2)

(その1)からの続きです。

【昭和4年~昭和7年の絵葉書】
絵葉書S4~S8
(その1)で紹介した絵葉書と変化がないようにも思われますが、下記のような変化が見られます。

絵葉書S4~S8トリミング1
①原田時計店
原田時計店はまだ明治築のものですから昭和8年以前という事が分かります。

②橋の上を走っているバス
絵葉書S4~S8バストリミング
絵葉書のバスの部分の拡大です。
写真手前に文化自動車バス同様の古風なモニター屋根付きバス、
そのバスの前をやや近代的なバスが走っています。
塗装は文化自動車バスとは塗装が異なるようです。

昭和4年4月3日市営バス
松陽新報昭和4年4月3日付

松江市営バス開業時の新聞記事より、開業当初のバスの写真です。
昭和4年に文化自動車、松江自動車より営業権、バスを譲り受け、
松江市営バスが開業しました。開業当初の市営バスの塗装は下半分水色、
黄色い線に窓部分は黒色という姿でした。
絵葉書に写るバスは塗分けからして、開業当初の松江市営バスと考えられます。

昭和9年4月15日市営バス
松陽新報昭和9年4月15日付

市営バスの塗装は昭和9年4月頃から銀色に青線の「銀バス」に変更されますから、
塗装の変遷をみれば、昭和4年~9年、昭和9年以降と年代特定ができます。

この銀バス仕様も時代の特定に使えそうなのですが、
ただし、銀バスに関しては、同じ時代に走っていた一畑電鉄バスや本庄自動車なども
同様の塗装のため(白黒では区別がつかない)、注意が必要と思われます。

③大橋館
絵葉書③の部分ですが、橋詰に川岸に面して建物が確認できます。
昭和6年に末次大火が発生し、現在の東本町一帯が焼失しています。
当時の写真を見ると、大橋北詰の③のあたりは焼失を免れたようですが、
大火後の区画整理により、大橋~新大橋の間の大橋川岸に面して道路が新設されています。

07818大橋館新築広告t
松陽新報昭和7年8月18日付

昭和7年8月18日の松陽新報に大橋館新築の広告がありました。
この新築の写真を見ると、旅館前に道路があり、
昭和7年8月の段階では川岸の道路が新設されていたという事が分かります。
絵葉書では橋詰にも建物がありますので区画整理前に撮影されたものと考えられます。

以上のことからこの絵葉書は、松江市営バスが営業を開始した昭和4年から、
少なくとも昭和7年8月の大橋館新築前に撮影されたものということが推定できます。

(その3)へ続きます。
  1. 2017/12/24(日) 16:24:57|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その1)

1_20171224160327419.jpg
大橋川に松江大橋が架かる風景は、松江市の代表的な景観の一つであり、
明治時代より絵葉書の題材として多くのバリエーションがあります。

本稿では、数多く残されている松江大橋の絵葉書について、
絵葉書に写されている周辺の建物や自動車を分析することにより、
その絵葉書の写真の撮影年代を特定してみたいと思います。

〈平成30年2月追記と修正〉
大橋に併設された水道橋の時代考察について追記し、
「初代日銀」に関する記述を修正しました。

【条件】
・特定するのは先代松江大橋の絵葉書です。
先代松江大橋は明治44年に架橋され、
昭和10年頃に現在の松江大橋の架橋工事に伴って姿を消しました。
先々代のトラス型松江大橋を写した絵葉書もあるようですが、
残念ながらブログ主は所有していません。
また、当代の松江大橋も架橋が昭和12年、その年に事変が勃発し、
社会情勢にもゆとりがなくなったせいか、
絵葉書の数が少ないようで手持ちがあまりありません。

・撮影方向は橋南(大橋川の南側)から橋北方向を写したものに限ります。
この時代の松江大橋の絵葉書はほとんどが上記の向きで撮影されています。
お城なども映るので見栄えが良かったのでしょう。
ベンチマークとなるものも多いため、年代の特定がしやすいという事もあります。

・特定にあたっては建物の変化が中心です。
服飾や自動車の年式などに造詣が深い方があれば、より細かい特定が可能かもしれません。

【年表】
年表
特定にあたって、ベンチマークとなり得る建物やバスに関する出来事をまとめました。
これをベースに以下に絵葉書の年代特定を進めていきます。

大正7年~10年の絵葉書】【明治44年~大正7、8年頃の絵葉書】
T7~T10
まずはこちらの絵葉書です。
まだ周辺に洋風建築も少なく、かなり古い時代に撮影したものという雰囲気です。

トリミング
橋の向こう側の建物に注目してみると年代を特定する手掛かりがあります。

①原田時計店の時計台
洋風の時計台があります。これは原田時計店、現在の創美堂の旧旧店舗で、
時計台のある店舗は明治29年に新築されたものです。
その後、昭和8年に改築されてこの時計台は姿を消していますから、
この時計台があれば、明治29年~昭和8年の間という事になります。

②松江電信局
擬洋風の建物は、明治22年に設置された松江電信局の建物です。
その後大正10年にはこの位置に松江キネマ倶楽部の建物が新築されますので、
この建物があれば、明治22年~大正10年の間という事になります。

③初代日銀松江支店
不鮮明ですが洋風建築の屋根が確認できます。


③島根県農工銀行
最初は初代日銀松江支店の屋根かと思いましたが、改めて屋根の形状を確認してみますと、
そうではないような気がしてきました。
ではこの屋根は何の建物なのかと考えてみますと、県庁前に建っていた、
島根県農工銀行の屋根だったのではないかという考えに至りました。

島根県農工銀行
島根県農工銀行は明治31年に建てられた洋風建築で、かなり最近まで県庁前にその姿を留めていたものです。

図1
いかがなものでしょうか、この屋根は島根県農工銀行のものと考えた良さそうです。

屋根の形状や位置的に、大正7年に設置された日本銀行松江支店の建物と推定されます。
昭和12年末には二代目の建物(現カラコロ工房)に変わりますので、
この屋根が確認できれば大正7年~昭和12年頃までの間という事になります。


以上のことから、建物の年代を以下のように整理します。
原田時計店 明治29年~昭和8年
松江電信局 明治22年~大正10年
初代日銀松江支店 大正7年~昭和12年
島根県農工銀行 明治31年~戦後
3つの建物が重なる時期は大正7年から大正10年の間となりますので、
この絵葉書はこの間に撮影されたものと考えられます。

初代日銀松江銀行というベンチマークがなくなってしまいましたので、
この絵葉書の撮影された年代は古い方は
16代目松江大橋が架橋された明治44年まで時代の幅が広がってしまいました。

④水道管の存在
水道管
16代目松江大橋を写した写真で注意したいのは、大橋の上流(宍道湖)側に併設された水道管の存在です。
松江市誌(昭和16年)によれば、松江市の水道は、
大正7年に主要部分が完成し、大正8年に全部が竣成したとあります。

橋北へ忌部の水を送るためには、大橋川を通さなければならず、
大橋に並行して水道管を架設したものと思われます。
具体的にいつ水道管を大橋川に通したのか、今の段階では調べ切れていないのですが、
少なくとも、水道が開通した大正7~8年頃には架設されたものと考えられます。

水道管無
当該の絵葉書を見ると水道管がありませんから、この絵葉書の写真が撮られたのは、
大正7、8年以前という事になるのではないかと思われます。

以上のことから、絵葉書の年代特定のカギになるものを整理してみますと、
下記の通りになります。

原田時計店 明治29年~昭和8年
松江電信局 明治22年~大正10年
島根県農工銀行 明治31年~戦後
16代目大橋架橋 明治44年
水道管 大正7、8年頃

よってこの絵葉書の撮影された年代は明治44年から大正7、8年頃の間という事になります。




【大正14年~昭和4年の絵葉書】
T14~S4
次にこちらの絵葉書です。
松江大橋北詰西に三階建に塔屋のついた松江キネマ倶楽部の建物があります。
近代化の進んだ松江の景観として好まれたのでしょうか、
この構図での絵葉書はかなり多くの数がヤフーオークションなどで出回っています。

T14~S4t
①松江キネマ倶楽部
大正10年に新築された松江キネマ倶楽部の建物です。
いつまであったのかは不明なのですが、
昭和12年に現在の松江大橋が完成した際の写真には現存が確認されます。

②文化自動車のバス
橋の上にバスが確認できます。

img326t.jpg
かなりクラシカルな形態のバスです。

021017若槻男歓迎t
松陽新報昭和2年10月17日付

車体前部左右に「文」、「化」の文字看板が確認できます。
これは大正14年に運行を開始した、文化自動車のバスと考えられます。
文化自動車は松江初のバス事業者である一文字屋自動車部から事業を引き継ぎ、
大正14年に運行を始め、その後、昭和4年に松江市営バスへ営業を譲渡します。


以上のことからこの絵葉書の写真は、
大正14年から昭和4年の間に撮影されたものと推察されます。

(その2)へ続きます。

  1. 2017/12/24(日) 16:15:29|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その4

深野奥原隧道探索(その1)・(その2)・(その3)からの続きです。

1_201712182357544ec.jpg
ついに全貌をあらわした深野奥原隧道ですが、
今回はその歴史や掘られた理由などについて考察をしたいと思います。

2_201712182357551f4.jpg
(参謀本部 昭和7年「木次」・「頓原」より)

改めて戦前の地形図で隧道の位置を確認してみます。
昭和7年の地図では隧道はなく、隧道があるべき位置には道が記されています。
昭和10年に完成したとされる隧道ですから、この地図の破線は尾根を越える旧道ということになるのでしょうか。

赤文字で隧道周辺の町を記しました。
徒歩道にトンネルを穿つのであれば、
「ここに隧道があれば近道になる」・「隧道が無ければどうしても先に進めない」
などといった要素があるような気がします。

ところが隧道を通る山道は山中で複雑に入り組んでおり、
隧道を通ってもどの町からどの町へ行くのにも近道にはなり得ませんし、
隧道の周囲にはしっかりした道があるしもっと早く行けるルートがあります。
なんとなくですが、ここにトンネルを作る必然性がいまひとつ感じられません。

一つ考えられるとしたらこの地は昔から林業・炭焼きが盛んな地であるはずですから、
その作業道の充実のために作られた??ということが考えられるかもしれません。

疑問点
・誰が掘ったのか
・何のために掘ったのか
・費用はどうしたのか
・どの程度利用されていたのか
・いつまで使われていたのか

以上のように様々な謎を残したままの深野奥原隧道でしたが、
後日、思いもよらぬところから解明のヒントになるような資料が出てきました。
国会図書館で松陽新報のマイクロフィルムを眺めていたら、
次のような記事が視界に飛び込んできました。

松陽141013t
昭和14年10月15日付松陽新報より

「稀な木馬道 田井村奥原谷に」
飯石郡田井村地内奥原谷の田部長右衛門氏所有の山林の一部の立木を、
今春簸川郡上津村嘉村和市氏が購入し、今夏以来木馬道四十町(4.4㎞)の工事中、此程完成した。
この木馬道は中途〇〇九十間(163.6m)の岩石のみの隧道あり、
これのみにても一万余円の巨費を投じ総工費一万三千余円実に木馬道しては稀有な大工事であった。
幾十人の労務者に依って枕木製材木馬出し製炭飯場事務所の建築等非常な殷盛を呈している



いかがなものでしょうか、ここに出てくる隧道が、「深野奥原隧道」なのではないでしょうか。

「昭和14年に田井村奥原谷に」
田井村は現在の吉田村深野のエリアです。
奥原谷が地域を示すのか、谷そのものを示しているのかわかりませんが、
深野奥原隧道を含む当該地域だということは明確だと思われます。
「島根県の近代化遺産」のリストで隧道の年代を昭和10年としているのに対し、
この新聞記事が昭和14年と時間差があるのが気になりますが。誤差の範囲でしょうか?

「上津村の嘉村和市氏が田部長右衛門氏より山の一部を購入」
嘉村和市氏といえば当ブログでおなじみ、島根県内の近代建築を多く請け負った人物です。
田部長右衛門氏は言わずと知れた出雲の山林王、
嘉村和市氏は昭和12年に吉田村の吉田小学校を手がけていますので、
その縁で吉田の山林王である田部長右衛門氏と嘉村和市氏とのつながりができたのかもしれません。

「4.4㎞の木馬道を作って木を切り出し始めた」
「木馬道」(きうまみち・きんばみち)、見慣れない単語ですが、
林道やトラックなど、木材を運搬する設備の未発達だった時代に山から木を搬出する際には、
山中に木を枕木のように並べ、そこに木材を積んだソリを滑らせる。という手段を使っていたそうです。
ソリを滑らせるために木でこしらえた諸施設を「木馬道」というそうなのですが、
そうであれば、隧道の存在意義が明確になってきます。
つまり、木材を橇に積んで安全に下まで降ろすためにスロープが必要になります。
隧道を掘って距離を稼ぎながら緩やかに降りるルートを確保した・・・。ということなのでしょう。

トンネルといえば「目的地への短絡」が存在意義と考えてしまいますし、
そう考えるとこの隧道の意味が不明になるのですが、山奥から木を切り出して搬出する、
上述のように「木馬道」として緩やかなルートを確保するという観点から考えれば、
この隧道の存在意義が良くわかります。

3_20171218235757497.jpg
そのような知識のもとに、隧道への道の画像を観察してみますと、
何となくソリを滑らせた緩やかな木馬道が浮かんでくるような気がします。


「木馬道の途中には全て岩に掘られた長さ50間(90m)の隧道がつくられた」
「全て岩に掘られた」という記述は、深野奥原隧道の現況からもよく理解できます。
90mという長さも、実測したわけではありませんが、そのくらいありそうです。
それにしても総工費12000円のうち、隧道工事に1万円投じたとあり、
どれだけの立木を購入してどれだけの木材を切り出したのか、
木材の切り出しでこれだけ設備投資をして採算があったのか、
今となってはわかりませんが興味深いところではあります。

「枕木製材木馬出し製炭飯場事務所の建築等非常な殷盛を呈している」
「どこに」事務所や飯場が作られていたのかは明らかではありませんが、
隧道への道の入り口の場所が開けていたのは、ここに作業場あったからだったからという可能性がでてきました。


以下に新聞記事の情報をまとめました。
・「深野奥原隧道」は、昭和14年に、木材運搬の木馬道用の隧道として掘られたものである可能性が高い。
・起工は昭和14年春、竣工は14年10月頃である。
・施工主は上津村の嘉村和市である。
・一連の木馬道整備にかかった費用12,000円のうち、隧道工事の費用は10,000円であった。


島根大学法文学部文化人類学研究室がまとめた、「𠮷田村深野の民俗」という資料においては、
隧道に関する直接的な記述はありませんが、
深野地区においては林業(木炭の製造)が盛んであった旨が記されており、
「山の奥の方の木炭は樫の木で作られた木馬(クンマ)と呼ばれるソリに載せられて麓まで運ばれた」
という記述がありました。
嘉村和市氏の事業がいつまで続いていたのかは不明ですが、
地域の住民による木炭作りはおそらく戦後の燃料革命頃までは続けられていたと思われますから、
隧道も戦後もしばらくの間は木炭製造のための作業道、運搬道として、活用されていた可能性が考えられます。


以上、深野奥原隧道の歴史と掘られた理由についてまとめました。
旧吉田村にあっては近代のまとまった資料がほとんど見当たらない状況であり、
隧道について記された資料は皆無でしたが、たまたま該当する新聞記事を発見できたのはラッキーでした。



【木馬道参考URL】
和歌山木材協同組合
愛知県県有林事務所


【参考文献】
松陽新報 昭和14年10月15日付記事
𠮷田村深野の民俗 平成12年 島根大学法文学部文化人類学研究室

  1. 2017/12/19(火) 00:06:24|
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