元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その1)

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大橋川に松江大橋が架かる風景は、松江市の代表的な景観の一つであり、
明治時代より絵葉書の題材として多くのバリエーションがあります。

本稿では、数多く残されている松江大橋の絵葉書について、
絵葉書に写されている周辺の建物や自動車を分析することにより、
その絵葉書の写真の撮影年代を特定してみたいと思います。

〈平成30年2月追記と修正〉
大橋に併設された水道橋の時代考察について追記し、
「初代日銀」に関する記述を修正しました。

【条件】
・特定するのは先代松江大橋の絵葉書です。
先代松江大橋は明治44年に架橋され、
昭和10年頃に現在の松江大橋の架橋工事に伴って姿を消しました。
先々代のトラス型松江大橋を写した絵葉書もあるようですが、
残念ながらブログ主は所有していません。
また、当代の松江大橋も架橋が昭和12年、その年に事変が勃発し、
社会情勢にもゆとりがなくなったせいか、
絵葉書の数が少ないようで手持ちがあまりありません。

・撮影方向は橋南(大橋川の南側)から橋北方向を写したものに限ります。
この時代の松江大橋の絵葉書はほとんどが上記の向きで撮影されています。
お城なども映るので見栄えが良かったのでしょう。
ベンチマークとなるものも多いため、年代の特定がしやすいという事もあります。

・特定にあたっては建物の変化が中心です。
服飾や自動車の年式などに造詣が深い方があれば、より細かい特定が可能かもしれません。

【年表】
年表
特定にあたって、ベンチマークとなり得る建物やバスに関する出来事をまとめました。
これをベースに以下に絵葉書の年代特定を進めていきます。

大正7年~10年の絵葉書】【明治44年~大正7、8年頃の絵葉書】
T7~T10
まずはこちらの絵葉書です。
まだ周辺に洋風建築も少なく、かなり古い時代に撮影したものという雰囲気です。

トリミング
橋の向こう側の建物に注目してみると年代を特定する手掛かりがあります。

①原田時計店の時計台
洋風の時計台があります。これは原田時計店、現在の創美堂の旧旧店舗で、
時計台のある店舗は明治29年に新築されたものです。
その後、昭和8年に改築されてこの時計台は姿を消していますから、
この時計台があれば、明治29年~昭和8年の間という事になります。

②松江電信局
擬洋風の建物は、明治22年に設置された松江電信局の建物です。
その後大正10年にはこの位置に松江キネマ倶楽部の建物が新築されますので、
この建物があれば、明治22年~大正10年の間という事になります。

③初代日銀松江支店
不鮮明ですが洋風建築の屋根が確認できます。


③島根県農工銀行
最初は初代日銀松江支店の屋根かと思いましたが、改めて屋根の形状を確認してみますと、
そうではないような気がしてきました。
ではこの屋根は何の建物なのかと考えてみますと、県庁前に建っていた、
島根県農工銀行の屋根だったのではないかという考えに至りました。

島根県農工銀行
島根県農工銀行は明治31年に建てられた洋風建築で、かなり最近まで県庁前にその姿を留めていたものです。

図1
いかがなものでしょうか、この屋根は島根県農工銀行のものと考えた良さそうです。

屋根の形状や位置的に、大正7年に設置された日本銀行松江支店の建物と推定されます。
昭和12年末には二代目の建物(現カラコロ工房)に変わりますので、
この屋根が確認できれば大正7年~昭和12年頃までの間という事になります。


以上のことから、建物の年代を以下のように整理します。
原田時計店 明治29年~昭和8年
松江電信局 明治22年~大正10年
初代日銀松江支店 大正7年~昭和12年
島根県農工銀行 明治31年~戦後
3つの建物が重なる時期は大正7年から大正10年の間となりますので、
この絵葉書はこの間に撮影されたものと考えられます。

初代日銀松江銀行というベンチマークがなくなってしまいましたので、
この絵葉書の撮影された年代は古い方は
16代目松江大橋が架橋された明治44年まで時代の幅が広がってしまいました。

④水道管の存在
水道管
16代目松江大橋を写した写真で注意したいのは、大橋の上流(宍道湖)側に併設された水道管の存在です。
松江市誌(昭和16年)によれば、松江市の水道は、
大正7年に主要部分が完成し、大正8年に全部が竣成したとあります。

橋北へ忌部の水を送るためには、大橋川を通さなければならず、
大橋に並行して水道管を架設したものと思われます。
具体的にいつ水道管を大橋川に通したのか、今の段階では調べ切れていないのですが、
少なくとも、水道が開通した大正7~8年頃には架設されたものと考えられます。

水道管無
当該の絵葉書を見ると水道管がありませんから、この絵葉書の写真が撮られたのは、
大正7、8年以前という事になるのではないかと思われます。

以上のことから、絵葉書の年代特定のカギになるものを整理してみますと、
下記の通りになります。

原田時計店 明治29年~昭和8年
松江電信局 明治22年~大正10年
島根県農工銀行 明治31年~戦後
16代目大橋架橋 明治44年
水道管 大正7、8年頃

よってこの絵葉書の撮影された年代は明治44年から大正7、8年頃の間という事になります。




【大正14年~昭和4年の絵葉書】
T14~S4
次にこちらの絵葉書です。
松江大橋北詰西に三階建に塔屋のついた松江キネマ倶楽部の建物があります。
近代化の進んだ松江の景観として好まれたのでしょうか、
この構図での絵葉書はかなり多くの数がヤフーオークションなどで出回っています。

T14~S4t
①松江キネマ倶楽部
大正10年に新築された松江キネマ倶楽部の建物です。
いつまであったのかは不明なのですが、
昭和12年に現在の松江大橋が完成した際の写真には現存が確認されます。

②文化自動車のバス
橋の上にバスが確認できます。

img326t.jpg
かなりクラシカルな形態のバスです。

021017若槻男歓迎t
松陽新報昭和2年10月17日付

車体前部左右に「文」、「化」の文字看板が確認できます。
これは大正14年に運行を開始した、文化自動車のバスと考えられます。
文化自動車は松江初のバス事業者である一文字屋自動車部から事業を引き継ぎ、
大正14年に運行を始め、その後、昭和4年に松江市営バスへ営業を譲渡します。


以上のことからこの絵葉書の写真は、
大正14年から昭和4年の間に撮影されたものと推察されます。

(その2)へ続きます。

  1. 2017/12/24(日) 16:15:29|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その4

深野奥原隧道探索(その1)・(その2)・(その3)からの続きです。

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ついに全貌をあらわした深野奥原隧道ですが、
今回はその歴史や掘られた理由などについて考察をしたいと思います。

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(参謀本部 昭和7年「木次」・「頓原」より)

改めて戦前の地形図で隧道の位置を確認してみます。
昭和7年の地図では隧道はなく、隧道があるべき位置には道が記されています。
昭和10年に完成したとされる隧道ですから、この地図の破線は尾根を越える旧道ということになるのでしょうか。

赤文字で隧道周辺の町を記しました。
徒歩道にトンネルを穿つのであれば、
「ここに隧道があれば近道になる」・「隧道が無ければどうしても先に進めない」
などといった要素があるような気がします。

ところが隧道を通る山道は山中で複雑に入り組んでおり、
隧道を通ってもどの町からどの町へ行くのにも近道にはなり得ませんし、
隧道の周囲にはしっかりした道があるしもっと早く行けるルートがあります。
なんとなくですが、ここにトンネルを作る必然性がいまひとつ感じられません。

一つ考えられるとしたらこの地は昔から林業・炭焼きが盛んな地であるはずですから、
その作業道の充実のために作られた??ということが考えられるかもしれません。

疑問点
・誰が掘ったのか
・何のために掘ったのか
・費用はどうしたのか
・どの程度利用されていたのか
・いつまで使われていたのか

以上のように様々な謎を残したままの深野奥原隧道でしたが、
後日、思いもよらぬところから解明のヒントになるような資料が出てきました。
国会図書館で松陽新報のマイクロフィルムを眺めていたら、
次のような記事が視界に飛び込んできました。

松陽141013t
昭和14年10月15日付松陽新報より

「稀な木馬道 田井村奥原谷に」
飯石郡田井村地内奥原谷の田部長右衛門氏所有の山林の一部の立木を、
今春簸川郡上津村嘉村和市氏が購入し、今夏以来木馬道四十町(4.4㎞)の工事中、此程完成した。
この木馬道は中途〇〇九十間(163.6m)の岩石のみの隧道あり、
これのみにても一万余円の巨費を投じ総工費一万三千余円実に木馬道しては稀有な大工事であった。
幾十人の労務者に依って枕木製材木馬出し製炭飯場事務所の建築等非常な殷盛を呈している



いかがなものでしょうか、ここに出てくる隧道が、「深野奥原隧道」なのではないでしょうか。

「昭和14年に田井村奥原谷に」
田井村は現在の吉田村深野のエリアです。
奥原谷が地域を示すのか、谷そのものを示しているのかわかりませんが、
深野奥原隧道を含む当該地域だということは明確だと思われます。
「島根県の近代化遺産」のリストで隧道の年代を昭和10年としているのに対し、
この新聞記事が昭和14年と時間差があるのが気になりますが。誤差の範囲でしょうか?

「上津村の嘉村和市氏が田部長右衛門氏より山の一部を購入」
嘉村和市氏といえば当ブログでおなじみ、島根県内の近代建築を多く請け負った人物です。
田部長右衛門氏は言わずと知れた出雲の山林王、
嘉村和市氏は昭和12年に吉田村の吉田小学校を手がけていますので、
その縁で吉田の山林王である田部長右衛門氏と嘉村和市氏とのつながりができたのかもしれません。

「4.4㎞の木馬道を作って木を切り出し始めた」
「木馬道」(きうまみち・きんばみち)、見慣れない単語ですが、
林道やトラックなど、木材を運搬する設備の未発達だった時代に山から木を搬出する際には、
山中に木を枕木のように並べ、そこに木材を積んだソリを滑らせる。という手段を使っていたそうです。
ソリを滑らせるために木でこしらえた諸施設を「木馬道」というそうなのですが、
そうであれば、隧道の存在意義が明確になってきます。
つまり、木材を橇に積んで安全に下まで降ろすためにスロープが必要になります。
隧道を掘って距離を稼ぎながら緩やかに降りるルートを確保した・・・。ということなのでしょう。

トンネルといえば「目的地への短絡」が存在意義と考えてしまいますし、
そう考えるとこの隧道の意味が不明になるのですが、山奥から木を切り出して搬出する、
上述のように「木馬道」として緩やかなルートを確保するという観点から考えれば、
この隧道の存在意義が良くわかります。

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そのような知識のもとに、隧道への道の画像を観察してみますと、
何となくソリを滑らせた緩やかな木馬道が浮かんでくるような気がします。


「木馬道の途中には全て岩に掘られた長さ50間(90m)の隧道がつくられた」
「全て岩に掘られた」という記述は、深野奥原隧道の現況からもよく理解できます。
90mという長さも、実測したわけではありませんが、そのくらいありそうです。
それにしても総工費12000円のうち、隧道工事に1万円投じたとあり、
どれだけの立木を購入してどれだけの木材を切り出したのか、
木材の切り出しでこれだけ設備投資をして採算があったのか、
今となってはわかりませんが興味深いところではあります。

「枕木製材木馬出し製炭飯場事務所の建築等非常な殷盛を呈している」
「どこに」事務所や飯場が作られていたのかは明らかではありませんが、
隧道への道の入り口の場所が開けていたのは、ここに作業場あったからだったからという可能性がでてきました。


以下に新聞記事の情報をまとめました。
・「深野奥原隧道」は、昭和14年に、木材運搬の木馬道用の隧道として掘られたものである可能性が高い。
・起工は昭和14年春、竣工は14年10月頃である。
・施工主は上津村の嘉村和市である。
・一連の木馬道整備にかかった費用12,000円のうち、隧道工事の費用は10,000円であった。


島根大学法文学部文化人類学研究室がまとめた、「𠮷田村深野の民俗」という資料においては、
隧道に関する直接的な記述はありませんが、
深野地区においては林業(木炭の製造)が盛んであった旨が記されており、
「山の奥の方の木炭は樫の木で作られた木馬(クンマ)と呼ばれるソリに載せられて麓まで運ばれた」
という記述がありました。
嘉村和市氏の事業がいつまで続いていたのかは不明ですが、
地域の住民による木炭作りはおそらく戦後の燃料革命頃までは続けられていたと思われますから、
隧道も戦後もしばらくの間は木炭製造のための作業道、運搬道として、活用されていた可能性が考えられます。


以上、深野奥原隧道の歴史と掘られた理由についてまとめました。
旧吉田村にあっては近代のまとまった資料がほとんど見当たらない状況であり、
隧道について記された資料は皆無でしたが、たまたま該当する新聞記事を発見できたのはラッキーでした。



【木馬道参考URL】
和歌山木材協同組合
愛知県県有林事務所


【参考文献】
松陽新報 昭和14年10月15日付記事
𠮷田村深野の民俗 平成12年 島根大学法文学部文化人類学研究室

  1. 2017/12/19(火) 00:06:24|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その3

深野奥原隧道探索(その1)・(その2)からの続きです。

ついに深野奥原隧道に到達しました。

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おそらくWEB上ではじめての公開という快挙をなしとげました。

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殆ど沢と同化している道より隧道を眺めます。

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古いトンネルにありがちな「高度を稼いでから尾根のチョイ下くらいに穿たれている隧道」を
想像していたのですが、様相は全く異なり、尾根のはるか下を穿つ隧道でした。
隧道の入り口には土砂などが堆積していていて隧道全体が見渡せません。

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入り口手前の土砂の堆積によって入口がずいぶんと狭く、隧道というより洞窟のようです。

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スケール代わりにナップザックを置いてみましたが、1mくらいしか開口部がありません。
土砂を取り除いたら1.5mくらい、人が立てるかどうかくらいの高さになるかもしれません。

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ご覧の通り隧道入り口はとうとうと水が流れ落ちており、
かつ、入り口に土砂がたまっているため水が隧道内に流入してしまっています。
おかげで隧道内は水たまり状態です。

「島根の近代化遺産」のリストでは「土造」としてあったので
その語感から、もっとドライなイメージを想像していましたが、水浸しです。
これだけ尾根から下った距離があれば、地下水の浸潤も半端ない量になってしまいます。
作った当初から相当ウエットな隧道だったのではないかと推察されます。

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隧道内部を撮影してみました。内部も水がしたたり落ちていてなかなか撮影がしにくい状態です。
上記の写真からほんの少しだけ隧道内にカメラを突っ込んで撮影したものです。
上記の写真と色合いが全然異なりますが、これはブログ主のデジカメの操作上の問題です。
水が溜まっています。中まで入りませんでしたが、かなりの深さがありそうです。

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この隧道が掘られている地層はおそらく花崗岩だと思うのですが、入口付近・内部の様子をみるところ、
花崗岩の節理か小断層といった地層の弱い掘りやすいところに沿って掘り進めたのではないかと推察されます。

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さらに歩みを進めてみます(といってもほんの1m)。
水が滴っているのは入り口だけで、隧道の内部はそれほど漏水がないようです。
花崗岩という事もあるのか、崩壊しているような箇所もなさそうです。
隧道内は水がたまり、その下には堆積物(マサ土?)が厚くたまっている様子です。

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はるか向こうに明かりが。まだこのトンネルは貫通しています。
しかし、光が小さいことからわかる通り、かなり長いトンネルです。
前述の「tunnel web BLOG」さんによる地元の方への聞き取りでは
「30間(54.5m)くらいの長さ」とのことでしたが、もっと長いのではないかという感じがします。

廃道探索で有名な「山さ行がねが」さんなどでしたら、
このまま隧道になんの迷いもなく突入するのでしょうか(むしろこれからが本番なのでしょうが)、
この狭くて暗い水の溜まったトンネルを通る度胸も装備もないので、このまま帰る事にしました。
尾根を越えて向こう側の坑口も確認すべきだったのですが、
日ごろの運動不足がたたって体力的に難しい気がしたのであきらめました。


その4へ続きます。


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  1. 2017/12/18(月) 11:14:21|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その2

深野奥原隧道探索(その1)からの続きです。

(第二次探索・平成29年4月)

前回の平成27年の第一次探索は完敗に終わりましたが、1年半後の平成29年4月、
深野奥原隧道に到達すべく、再度雲南の地に出撃しました。

第二次探索では、「夏は下草がすごくて道がわからなくなる」という戦訓を踏まえ、
まだ下草が出てこない早春の時期を狙うことにしました。
今回はペットボトルも3本持って、水不足への対策も万全としました。


1
平成29年4月の隧道への入り口です。

図1
今回と前回との入り口付近の比較。やはり真夏と早春とでは山の様子はだいぶ異なります。

2
下草が刈ってある!最近になって山に人が入った痕跡があります。
これは心強い!

3
土橋を渡ります。

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歩きやすい山道を登っていきます(そうでもないか)。

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前回、間違えて上がってしまった沢の分岐点。

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ここです。

図2
黄色矢印、右側に伸びる道が前回間違えて進んでしまった谷。
赤矢印方向には道らしき痕跡が確認できます。
前回はこの赤矢印の方に道があるようには思えませんでしたが、
下草がないせいで何となく道が続いていることが分かりました。

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分岐を越えて先に進むとご覧の通り、きれいに道が続いていました。

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沢に沿った道ですが道のほうはどんどん高度を上げて沢から離れていきます。
やがて本流から西へ分岐する沢にぶつかりました。
道は本流方面には直進せず、分岐する沢に沿って西方向に向かいます。これはゴールも近い!

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地図でいうとこのあたりになりましょうか。

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いよいよ隧道への谷筋を進んでいきます。

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道の途中に倒木ゾーン。

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倒木ゾーンを越えると道はまたきれいに続くようになります。
高度も稼いだのか谷が浅くなってきました。いよいよ隧道も近いか?

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地図でいうとこの辺でしょうか(かなり適当)。

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やがて道と谷とが区別がつかなくなった少し開けた谷になりました。

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谷の終点が近づいてきました。いよいよ隧道のお目見えか?

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穴が開いている!!

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ついに隧道に到達することが出来ました。
これが(たぶん)ネット上では初公開の「深野奥原隧道」の姿です!

その3へ続きます。


  1. 2017/12/01(金) 18:40:47|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その1

1
平成17年に発刊された「島根の近代化遺産」の市町村別リストを見ると、
旧吉田村の項に「深野奥原隧道」という見慣れないトンネルがリストアップされています。
リストには「昭和10年・土造」とあり、昭和10年代にあっても「土造」、
すなわち手堀りの隧道という事だと思うのですが、これは一体どういうことなのか、
大変興味をそそられる物件です。

しかしながらこの隧道、ネット上で検索しても画像が出てこず、文献も見当たらず、
山陰地方のトンネルを紹介されているブログ、「tunnel web BLOG」さんにおいて、
当該隧道を「探索しかけた」ことが触れられている程度で、
まさに「幻の隧道」といっても過言ではない、島根県の隠された近代化遺産です。

この隧道にぜひお目にかかりたいと思いて幾数年、二度にわたって探索を行い、
ようやくたどり着くことができましたので、ご紹介したいと思います。

(第一次探索・平成27年8月)
まず、当該の隧道が一体どこにあるのか?という事ですが、
「深野奥原」というくらいなので旧吉田村の深野地区にあるのは間違いありません。
しかし、深野地区は広大であり手掛かりなしに徒手空拳で探し回っても時間が無くなるばかりです。

幸いにも、前述の「tunnel web BLOG」さんが、現地で聞き取り調査を行っており、
隧道へ通ずる道の入り口を明らかにしてくださっています。これが冒頭の画像の位置になります。

国土地理院
(国土地理院WEBより)
国土地理院WEBより地図を拝借して、隧道の位置を推定してみます。

参謀本部昭和7年「木次」
(昭和7年参謀本部「木次」より)
現在の地図では道は記されていませんが、昭和7年の参謀本部が作成した地図をみると、
隧道の推定位置のところに破線ながら道が記されています。
隧道の記号がないのが気にかかりますが、隧道が出来たのは昭和10年とされていますから、
昭和7年当時はまだ尾根を越える山道だったという事なのでしょう。

そんなわけで隧道までの道も何となくですが分かったこともあり、
平成27年8月に夏休みをとり、探索をしてまいりました。

1
ここからスタート。
8月と言えば植物が最も勢いを増す時期、入り口からして下草が繁茂して先が見通せず不安がよぎります。

図3
地図で見るとこの地点です。

2
舗装道から作業道に入ると上がるといったんこのような平場に出ます。

図4
地図ではこの赤丸で囲ったエリアになります。

3
平場をてくてく歩いと行くとだんだん谷が狭まってきて、道も細くなってきました。

4
いよいよ直進できなくなり、道は土橋で沢を渡って、本格的な山道になります。
夏場なので草がすごい。

図5
地図でいうとこの辺りで沢を渡ります(かなりいい加減)。

5
山道といっても歩く人も少ないのか、途中で道が分からなくなってきました。
下草も多くて道なのかどうなのか判別がつきません。
隧道に通じる道なのか単なる斜面なのか確証が得られないままに、
地図で地形を見ながら歩いていきました。

暑い、そして日ごろの運動不足がたたって、非常に消耗してきました。

6
途中で西へ向かう谷が出てきたので確証を得ないまま谷を登ってみましたがこんな状態。
これは隧道のある谷の手前にある浅い谷でした。完全に道を間違えたな。

図6
この浅い谷を登ってしまったのでした。

この谷をあきらめきれずウロウロしたことで体力を消耗して、疲労困憊、
呆れたことにペットボトルも500ml1本しか用意せず、既に水も無くなりかけています。
これ以上の探索は危険と判断せざるを得ませんでした。

7_20171125230012046.jpg
学生時代、地図を片手に山の中で地質調査をしていた。
という実績に基づくオノレの体力・能力への過信・慢心が、今回の失敗を招いたといわざるをえません。
地質調査から離れて10年以上が経過し、その間に体力も地図と地形を読み取る能力も
衰えてしまったことにどうして気が付かなかったのか、
「完敗」の二文字を背に負いつつ、雲南の山から逃げ去ったのでありました。

その2に続きます。

  1. 2017/11/25(土) 23:24:48|
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