元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

村上家資料館(海士町大字海士)

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海士町の旧海士村役場裏手に、隠岐の豪族村上家の資料を公開している、「村上家資料館」があります。
村上家は中世からの隠岐の豪族で、
隠岐に御配流となられた後鳥羽上皇のお世話をしたことでも有名な歴史のある家柄です。

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村上家資料館の建物は、もとの村上家のお屋敷であり、平成21年から平成25年にかけて復元整備を行い
平成26年に資料館として再活用されることになりました。
同年の第23回しまね景観賞では公共建築物部門の奨励賞を受賞しています。

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第23回しまね景観賞の資料によれば、現在の建物は明治33年に建てられたものとのことです。
建物は純和風で外観に洋風建築の要素はありませんが、玄関部分の意匠は、
明治・大正期に県内に建てられた小学校校舎の玄関の意匠にも類似しています。

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こちらは戦前の村上家を写した絵葉書です。
この絵葉書は実際に使用されていて、
貼られている切手は田沢型切手の一銭五厘(大正2年~昭和12年)、消印の日付は10-8-11となっていますので、
大正11年か昭和11年かのどちらかの年に使用されたことが推察されます。

ただ上記はあくまで郵便が出された時期であって、
絵葉書の年代測定法に基づいて絵葉書の仕様を観察してみますと、
通信欄の罫線がないので、絵葉書自体の発行は明治6年〜明治40年3月の間となります。
村上邸の再建が明治33年ですから、絵葉書に写された写真は明治33年から明治40年の間、
再建されてから間もない時期の姿ということが推察されます。


【撮影】 
平成26年9月

【参考資料】
海士町資料
第23回しまね景観賞

  1. 2017/07/01(土) 19:35:22|
  2. 島根県の近代建築・隠岐地方
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朝山医院(安来市広瀬町)

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広瀬町の歴史的な街並みの中に、洋風な医院建築が残されています。
朝山医院の建物で、島根県近代化遺産リストによれば昭和7~8年の築との事です。

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建具は新しくなっていますが、きれいにペンキが塗られた現役の医院です。

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門柱もクラシカルで昔ながらの医院らしい風情です。

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建物の左手にはこのような張り出し部分があります。レントゲン室でしょうか?

【撮影】
平成26年9月

【参考文献】
「島根の近代化遺産」  平成14年 島根県教育委員会

  1. 2017/07/01(土) 13:52:01|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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旧久木小学校校門(出雲市斐川町福富)

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斐川町の「原鹿の豪農屋敷(旧江角邸)」の向かいに、古い門柱が2基保存されています。

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デザインからして戦前のものと思われます。

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向かって右側の門柱。

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ボロボロですが「郡」とか「久木」といった文字が読み取れます。
「簸川郡久木村立小学校」と記されていたのでしょうか。
上記のことや位置からして、昭和45年までこの地にあった久木小学校の校門と思われます。
久木小学校は昭和45年までこの地にあった小学校で、
現在は直江小学校と合併して出雲市立中部小学校となっています。

S37
(国土地理院WEBより引用)
昭和37年の航空写真です。赤い囲いの位置に久木小学校があります。

図2
(グーグルマップより引用)
現在の航空写真です。久木小学校の跡は市営住宅地になっています。

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向かって左側の門柱。

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「島根縣簸川郡久木村立青年學校」と記されています。
青年学校は昭和10年から昭和23年までの間に設置された学校で、
小学校卒業後の農村の男女を対象とした教育機関でした。
小学校に併置されたケースが多かったようです。

戦後の学制改革によって消滅した教育機関ですが、
そのような学校の名前が校門に残されているのはかなり貴重なのではないでしょうか。


【参考文献・HP】
Wikipedia「青年学校」の項
出雲市立中部小学校HP

【撮影】
平成27年9月

  1. 2017/06/18(日) 22:29:51|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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国士館大学大講堂(世田谷区世田谷)

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国士館大学の構内、近代的な校舎が立ち並ぶ中で異彩を放つ、大正8年築の「大講堂」の建物です。

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寺院風・純和風なこの建物は大正6年に青山の地に創立した国士舘が
大正8年に、世田谷の当地に移転した際に講堂として建設された建物です。

完成当初はまさに講堂として、この建物内で講義が行われたそうで、
頭山満や中野正剛といった錚々たる人物がこの講堂で講演に立ったそうです。

昭和20年5月の空襲(山の手空襲か)で隣接校舎は罹災したものの、
学生・教員の尽力により大講堂は焼失を免れ現代に至ります。

A
(国土地理院WEBより引用)

昭和19年の国士館周辺の航空写真です。
不明瞭なるも赤丸の部分に講堂らしき建物が確認できます。

B
(国土地理院WEBより引用)

昭和22年の航空写真では周囲の校舎が焼けてなくなっているのに対して、
大講堂の建物がしっかり残っているのが確認できました。

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鬼瓦には国士舘の校章があしらってありました。

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張り紙がべたべた貼ってあるのは塀ではなく、塀風の掲示板です。

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建物の裏側。出っ張っている部分は奉安庫の跡でしょうか?

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こうしてみるとお寺の本堂のようにも見えます。

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安田講堂や大隈講堂のような華やかさはありませんが、
国士館大学の象徴として大切にされているたてものでした。

【参考資料】
現地の案内板を参考にさせていただきました。

【撮影】
平成29年6月
  1. 2017/06/12(月) 22:54:01|
  2. 島根県以外の近代建築
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吉田橋(安来市飯島町)

1
松江方面から国道9号線の旧道を安来に向けて走りますと、安来の市街に入る直前でこの橋を渡ることになります。
コンクリートの欄干を持つ、歴史を感じさせる橋です(画像は安来側から撮影しています)。

S9参謀本部
(参謀本部昭和9年「米子」より)

戦前の地図で見るとこの位置です。
西にはこれも戦前架橋で現役の飯梨橋、飯梨橋を渡ると以前ご紹介した赤江村役場のマークも確認できます。

国土地理院
(国土地理院WEBより)

現在の国道9号線(桃色の道)は元国道の北側を走っていることが分かりますね。

2
親柱は安来市街側上流の1基のみ残っています。
橋名などが記されておらず、いろいろ不明な橋でしたが、たまたま見つけた安来市の資料から
昭和12年に架橋された「吉田橋」であることが分かりました。

3
装飾と言えるのかどうかという程度の素朴なデザインです。

4
彫りが浅くて読み取りにくいのですが、昭和二十四年三月竣工と彫られているような気がします。
安来市の資料には昭和12年架橋とあったのですが・・・。あれ?

5
親柱と欄干。

6
橋の全景。中間橋脚2本の桁橋ですが、よく見ると手前(安来側)の一径間は形が異なります。

7
現地ではあまり意識していませんでしたが、ブログ記事作成にあたって改めて画像を確認してみますと、
手前の橋脚の形状、桁橋のスタイルがだいぶ異なることに気が付きました。これはいったいどうしたことでしょうか?

A
現在の航空写真(グーグルアース)と昭和22年の航空写真(国土地理院)とを比べてみます。
縮尺が合わなかったので正確な比較ではありませんが、
安来側の橋の付け根部分で川岸の形状が変化し、川幅が広がっているように見えます。

B
国土地理院の航空写真、昭和37年(左)と昭和22年(右)とを比較してみます。
37年には川幅が広がっています。川下の堰も作り替えられている様子です。

C
昭和37年の航空写真では橋脚らしきものが確認できます(黄色矢印)。

D
昭和22年以降に吉田橋周辺の川幅を広げたために吉田橋も延長せざるを得ず、
安来側の橋台(橋の付け根部分)を中間橋脚にして橋を延長したのではないでしょうか。

結果として安来側の延長部分は橋桁の形状がオリジナルのものとは異なるものになったのではないか、
という推察が出来る様な気がします。

親柱にある「昭和二十四年三月竣工」は、橋の延長を行った年を示しているのかもしれません。

【橋の諸元】
橋名:吉田橋
竣工:昭和12年?(昭和24年改修?)
形式:RC桁橋
所在地:安来市
川:吉田川
道路:市道安来港飯島線

【撮影】 
平成26年9月
  1. 2017/06/11(日) 00:03:36|
  2. 島根県の近代橋梁
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大森の羅漢町橋(大田市大森町)その2

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以前ご紹介した大森の「羅漢町橋」は、
架橋年も明確になっていない謎多き橋なのです。

島根県の近代化遺産の集大成ともいえる、「島根県近代化遺産総合調査報告書」にあっても、
羅漢町橋に解説のページを割いてはいるものの、架橋年に関しては一切触れられておらず、
どうにもこうにも「資料がない。」ということが推察されます。

せんだってヤフーオークションで、
羅漢町橋が写された絵葉書を落札しましたので、
これをもとに羅漢町橋について考察を加えたいと思います。

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大森の羅漢寺方面からより、羅漢町橋方面を写した絵葉書です。
キャプションには「石見大森羅漢町ヨリ見タル警察署」とあります。
正面の擬洋風の建物が大森警察署で、現在この場所は駐車場になっています。
この擬洋風の庁舎は明治18年に建設され、後の昭和12年、新庁舎建設のために解体されるまで
大森警察署として使用されていたそうです(昭和13年松陽新報記事より)。

絵葉書の年代ですが、絵葉書年代測定法によれば、通信欄の罫線が3分の1だったので、
「絵葉書が発行された」年代としては明治40年から大正7年の間ということが分かります。

絵葉書を見ると、電信柱・電線が確認できます。
大森に電気が通った年が明確ではないのですが、明治38年頃に大森鉱山に発電所が出来たとのことですから、
この点からも、絵葉書の写真は明治末~大正初くらいに写されたものであることが推察されます。

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グーグルアース様より画像をお借りしまして、現在と絵葉書との対比をしてみました。
警察署は無くなりましたが、橋周辺の民家は昔と比べてもあまり変わっていないように思われます。

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さて、本題の羅漢町橋についてです。
現在の羅漢町橋には、コンクリート製の親柱と欄干が据えられています。
前回も言及しましたが、石造アーチの橋本体に対して、
この親柱と欄干は時代的にデザインが不釣り合いな感じがします。

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絵葉書の羅漢町橋を確認しますと、当時の親柱・欄干の様子が
現在とは明らかに異なることがわかります。

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さらに絵葉書を拡大してみます。
石の角柱を等間隔に並べてあるように見えます。

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赤枠で囲った一回り大きい石柱、これが親柱のかわりだったのでしょうか。
いずれにしても装飾性がなく、原始的な親柱・欄干であり、
石造アーチの本体の築造と一体で設えられたものと考えてもよさそうです。

※そもそも絵葉書に写っている羅漢町橋は石造アーチなのかどうか、という議論も出てくるのですが、
木造橋であれば欄干などは本体同様木で据え付けられるはずです。
ですから、ここではすでに石造アーチであるとみなして話をすすめます。


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では、現在にみられる親柱・欄干に改装されたのはいつだったのでしょうか?
材質はコンクリートに洗出しの仕上げ、昭和の戦前期によくみられるスタイルです。

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欄干の比較をしてみました。
上:羅漢町橋
中:宝来橋(粕淵・昭和12年)
下:鍛冶屋谷橋(日原・昭和9年)

いかがなものでしょうか、このように比較してみますと、昭和の時代に架けられた橋のデザインとよく似ています。
大正・明治の比較対象となりうる資料を提示していないので、今一つ説得力に欠けるのですが、デザイン的に見ると、
おそらく昭和に入ってから改装されたのではないか・・・、ということがいるのではないかと思います。

【まとめ】
・古絵葉書より、羅漢町橋の当初の親柱・欄干は石柱を並べた簡素なものだった
・現在の親柱・欄干に改められたのは絵葉書が写された明治末~大正初以降である
・デザイン的に昭和戦前期に改装された可能性がある


【参考文献】
島根県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 平成14年 島根県教育委員会
島根県を中心とした産業発展の歴史 明治・大正編Ⅲ
    平成25年 エネルギア地域経済レポート 中国電力㈱エネルギア総合研究所
島根とお雇い外国人技術者たち 平成27年 岡﨑秀紀


  1. 2017/06/03(土) 23:54:19|
  2. 島根県の近代橋梁
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旧赤江村役場その2(安来市赤江町)

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以前ご紹介した、安来市赤江町の旧赤江村役場について、
建物が建設された当時の新聞などから、情報を整理してみたいと思います。

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昭和3年12月12日付松陽新報

「満山錦を飾るけふの赤江の賑ひ」
「飯梨川畔に甍並べて落成した村役場と信組事務所」

新聞記事中に建物に関する具体的な記述はありませんが、
新築は「御大典」を記念したものと記されています。
昭和3年は昭和天皇のご即位の大礼が京都で行われた年であり、
「御大典」の記念として各地で様々な催し物が行われたり、
これを機会として官公庁、学校等が新築されたりしています。

島根県内も例外ではなく、昭和3年当時の新聞記事を確認しますと、
御大典を機として、学校や信用組合、役場などが
相次いで新築されていることが確認できます。
新聞記事では、赤江村役場のほか、
信用組合事務所も同時に新築されたことが記されていますが、
信用組合の建物の方は現存していません。

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新聞記記事にある、新築時の役場です。

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当時の写真と比べると、窓や玄関がアルミサッシ化されていますが、
それ以外は現在まで当時の姿を保っているように思われます。

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昭和3年12月12日付松陽新報

設計者などの情報は、新聞下段の名刺広告にありました。
広告には、下記の情報が記されていました。
「建築・設計・監督 長谷川工務所 長谷川治之助」
「赤江村役場改築・信用組合事務所改築
 工事請負 長谷川辨次郎、小松原伴次郎、大櫃丈四郎」

この情報から、赤江村役場の設計は、長谷川工務所の長谷川治之助、
工事請負が長谷川辨次郎他、ということがわかりました。

長谷川治之助の名前は、以前ご紹介した井尻村産業組合事務所他、
安来・能義郡エリアの近代建築の設計者として時々名前が出てくる人物です。
昭和12年に刊行された「郷土の光‐能義郡誌」を読んでいたところ、
後半の能義郡の名士紹介の項目で、「長谷川治之助」の紹介があるのを発見しました。
以下に「郷土の光‐能義郡誌」より、長谷川治之助の項を引用します。

長谷川工務所長 長谷川治之助氏 能義郡赤江村

明治30年11月岳父辨二郎氏(※1)の次男に生まれ学校卒業と同時に
広島市土木請負業森田福一商会(※2)に入り、全国各都市の支店出張所に勤務し
立川飛行場を始め各方面に於ける土木設計監督の実際を修練して棋道の蘊奥を極め、
去る大正15年4月、帰郷と共に現在の地に長谷川工務所を開設一般の需に応じている。

氏は地方稀に見る新進の設計監督者として棋界にその名を知られ、
現に島根、鳥取の両県各地に進出して大に技能を発揮しているが、
同所に於いて取り扱った主なるものを挙げれば赤江村小学校を始めとして(※3)、
西伯郡地方小学校中建築美の粋を集めた加茂村小学校、本郡能義小学校、
本郡能義村役場、同井尻村役場、同産業組合、同山佐村役場、同産業組合、安来町停雲楼等々は
その代表的なものであり、開業以来人気輻輳して非常な隆昌を極めている。
(以下略)


※1)赤江村工事請負の長谷川辨次郎が父と推定されます。
※2)戦前に広島で土木請負業を起し、後に衆議院議員となった森田福市の経営していた「森田組」と推定されます。
※3)「能義郡誌」のほか、戦前の新聞記事等で確認した物件も加え、長谷川治之助が手掛けた作品を下記に記します。

図1
赤字で示しているのは現存する建物です。
能義郡誌で作品としてあげられていた「安来町停雲楼」は、
現在も安来で「料亭停雲」として盛業中ということがわかりました。
しかし、長谷川治之助が設計した当時の建物が残っているのかどうかは未確認です。


以上、赤江村役場の設計者である長谷川治之助の情報を中心にまとめてみました。
長谷川治之助以外にも、戦前に島根県内で活躍した地元の建築家が少なからず存在する筈であり
、今後も引き続き調査を進めていきたいと思っています。


【建物のプロフィール】
竣工当時の建物名:赤江村役場
竣工:昭和3年
構造:木造
設計者:長谷川治之助(長谷川工務所)
施工者:長谷川辨次郎・小松原伴次郎・大櫃丈四郎

【参考文献・HP】
郷土の光‐能義郡誌 昭和12年  能義郡刊行会
料亭停雲


  1. 2017/05/13(土) 22:02:35|
  2. 島根県の近代建築・安来市
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御便殿その2(浜田市)

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以前ご紹介した浜田市の「御便殿」について、
浜田市のHP資料と、山陰行啓を記録した資料、
「行啓記念春日の光」(明治40年)から、情報を整理したいと思います。


【建設の経緯、設計者など】
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御便殿は明治39年10月に起工し、翌40年5月に竣工しました。
浜田市の資料(「浜田市役所HP『浜田城』歴史の散歩道その11」)
や、「行啓記念春日の光」によれば、
御便殿は、旧浜田藩主である、松平子爵が浜田営造株式会社に建築を依頼したとあります。
「浜田営造株式会社」という会社が、どのような会社だったのか、
仔細は不明ですが、「営造」という名をつけているので、
建築・土木に類する事業を行なっていた会社であることが推察されます。

浜田市の別の資料(「平成28年度第4回浜田城周辺整備検討会委員意見要旨」)
には、次のような記載がありました。

三隅の宮大工によって建てられた。
これについては、以前、期成同盟会での活動の際に、
三隅の方から資料をご寄附いただいている。
建築会社としては、俵三九郎氏が運営していた
浜田営造株式会社に依頼したと記録されている。


御便殿は、三隅の宮大工が手がけたとあり、前述の資料には
同浜田営造から大工に宛てた感謝状の画像があり、
「門手喜七」という名が確認できます。

浜田営造株式会社は「俵三九郎」という人物が経営していたとのことで、
この「俵三九郎」でネット検索をしますと、
元浜田市長、浜田市名誉市民の俵三九郎氏がヒットしますが、
明治29年生まれで、御便殿建設時は10歳であり、時代が合いません。
浜田営造の三九郎氏は元浜田市長の三九郎氏ではないようです。

浜田出身で島根選出の戦前の衆議院議員に、俵孫一という方がいますが、
この方の係累を確認しますと、父が俵三九郎、元浜田市長俵三九郎の甥とあり、
浜田営造を経営していた俵三九郎は、元浜田市長の父親であることが推察されます。

以上のことから、御便殿の建設に当たっては、
浜田営造株式会社が松平子爵家より委嘱を受け、
実務には三隅の宮大工である門手喜七があたった。
ということがいえるのではないかと推察されます。


【建物の使用の変遷】

御便殿は、明治40年5月に完成し、
同年6月に東宮殿下のご宿泊所として、使用されました。
その後どのような用途に供されたのかを改めて整理してみました。

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以上のように、
戦後は長きにわたり宗教法人(立正佼成会)の施設として利用されてきました。
その後、施設の新築に伴い、御便殿の建物は浜田市に寄付され、
本来の位置より北西へ曳家の上、保存され現在に至ります。

下記に、航空写真より、建物の位置、周辺環境の変化について確認してみたいと思います。

5_20170508224518e63.jpg
周辺環境の変化としては、昭和30~40年代の、国道9号線の新道が開通したこと、
御便殿後方に位置していた江戸期以来の庭園が潰されたことが上げられます。
昔の航空写真と現在とを比較してみますと、
御便殿の原位置と、曳家による移転との位置が明確になり、
現在御便殿がある位置は、元の庭園の跡地であることがわかります。

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以上、建物の建築に関わった人々や、
建物周辺環境の変遷などについてまとめてみました。
建物の活用方法については、まだ議論がなされているようですが、
山陰行啓のご宿泊に使用されたという歴史的な意義が
しっかり記録される様な活用方法を期待しています。


【参考文献】
行啓記念春日の光 明治40年 上田仲之助編
浜田市HPより「『浜田城』歴史の散歩道その11」
浜田市HPより「平成28年度第4回浜田城周辺整備検討会委員意見要旨」
浜田市御便殿リーフレット

  1. 2017/05/08(月) 22:52:34|
  2. 島根県の近代建築・浜田市
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旧簸川銀行本店その3(出雲市今市町)

新築本店
その2に引き続き、出雲市の「旧簸川銀行本店」について、
資料をもとに考察を加えたいと思います。

<落成式を伝える山陰新聞>

現在残る建物が建築された当時の新聞記事に、建物に関する記載がないか、
下記のような記事をみつけました。
t9217s.jpg
山陰新聞大正9年2月17日

「簸川銀行落成式」
簸川郡今市町簸川銀行は昨年末竣工と共に移転せるが
来る二十一日午後一時より簸川郡会議事堂に於いて落成式を挙行する由



いかがなものでしょうか、注目すべきは、
「昨年末竣工と共に移転せるが」という箇所です。
さまざまな資料で、旧簸川銀行本店の竣工年を大正9年としていますが、
この新聞記事からすると、実際に建物が完成して使われ始めたのは、
大正8年の12月ごろということになります。

近代建築や近代化遺産といった分野を研究する上で、
竣工をもって竣工年(完成年)とするのか、
正式な竣工式の開催をもって竣工年とするのか、
そのあたりのルールや定義のようなものがあるのかどうかは知らないのですが、
単純に建物が完成して使われ始めた。という点で竣工年を考えると、
旧簸川銀行本店の竣工は、従来大正9年とされてきましたが、
実際のところは大正8年という事になるのではないかと思います。

前年(大正8年)暮れに完成したとのことだったので、
大正8年12月の山陰新聞も調べてみたのですが、
それらしい記事を見つけるに至っていません。

ご参考まで?、落成式の記事もご紹介します。
図1s
山陰新聞大正9年2月23日

「簸川銀行落成式」「昨日盛大に挙行」
簸川郡今市町簸川銀行新築落成式を22日午後1時より簸川郡役所に於て挙行せり
当日銀行は門前に幔幕を張り国旗を交差して装飾を施し
午後一時数発の煙火を合図に関係者は式場郡会議事所に集合せり
(以下略)


落成式は300余名も集めて華々しく挙行されたと記事にあります。

tizus.jpg
落成式の行われた「簸川郡役所」ですが、
落成記念絵葉書にその位置が記されていました。
地図の位置からして、現在の県道277号線沿いにあったと思われますが、
今は跡形もありません。

(まとめ)
これまで旧簸川銀行本店の建築年は、大正9年とされてきたが、
当時の新聞では大正8年の暮れには完成していたことがわかった。


  1. 2017/04/30(日) 23:35:04|
  2. 島根県の近代建築・出雲市
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六郷水門近くの近代建築(大田区南六郷)

1
六郷水門の近くに気になる建物を見つけました。

2
増改築の激しい建物ですが、立派な玄関が、ただものではない雰囲気を漂わせています。
車寄せ上部に「常盤軒」の切り文字が据えられています。
調べてみると、仕出し弁当や、ケータリング事業をおこなっている、
常盤軒フーズの工場ということが分かりました。

3

4
とにかく玄関が立派です。

この建物がどのような歴史を持っているのか、
大田区誌などをいろいろ調べてみましたが、よくわかりませんでした。
そこで、思い切って常盤軒さんに質問をしてみたところ、下記のような回答をいただくことが出来ました。

(いただいたメールより抜粋・要約)
・常盤軒フーズでは平成25年2月から使用して いる
・それ以前は株式会社常盤軒という会社が平成17年3月から建物を改修して使用していた
・その前は印刷工場だったときいている
・ビルの竣工は昭和13年とのこと
・軍需関係の研究所として建てられたものだとのこと
・平成14年に印刷工場として使用した時に改装されているとのこと


大変貴重な情報をいただきました。
昭和13年築、やはり戦前からの建物だったことがわかりました。
「軍需関係の研究所として建てられた」ということですが、これは非常に興味深い話です。
この建物の向かいには、URの大きな団地がありますが、この団地の敷地はもともと、
特殊製鋼という工場の敷地だった場所だそうですから、
そのすぐ目の前にという立地から「特殊製鋼」の関連施設だったのかもしれません。
この特殊製鋼という会社、今はもうないようで、あまり資料が出てきません。
羽田空港のそばにあった日本特殊鋼のことなのか、それとは別の工場なのか、
そのあたりも含めて、調べてみると何か新しい発見ができるかもしれません。



最後に国土地理院の航空写真から、建物の状況を確認してみたいと思います。

S11 
昭和11年の航空写真では、建物がなく、空き地のようになっています。

s19
これが昭和19年の航空写真になると、不明瞭な写真ではありますが、
当該建物らしきものが写っていることが確認できます。


S22
終戦後、昭和22年の航空写真は画像が鮮明です。
周囲が焼野原になるなか、爆撃を免れた工場のその隣に、
当該建物がしっかりと確認できます。

5
現在の建物の特徴である車寄せと、正面右手の階段塔?と思われる3階部分ですが・・・。

S22拡大
昭和22年の航空写真を拡大してみると、車寄せと階段塔がバッチリ確認できます。



【撮影】
平成29年2月

【参考WEB】
大田区役所「六郷昔ばなし」
http://www.city.ota.tokyo.jp/kamata/ts_rokugou/katsudou/rokugou_mukashibanashi.html

【御礼】
本記事作成に当たっては、常盤軒フーズ様に貴重な情報をいただきました。
御礼申し上げます。



  1. 2017/04/30(日) 10:18:24|
  2. 島根県以外の近代建築
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