元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その3

深野奥原隧道探索(その1)・(その2)からの続きです。

ついに深野奥原隧道に到達しました。

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おそらくWEB上ではじめての公開という快挙をなしとげました。

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殆ど沢と同化している道より隧道を眺めます。

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古いトンネルにありがちな「高度を稼いでから尾根のチョイ下くらいに穿たれている隧道」を
想像していたのですが、様相は全く異なり、尾根のはるか下を穿つ隧道でした。
隧道の入り口には土砂などが堆積していていて隧道全体が見渡せません。

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入り口手前の土砂の堆積によって入口がずいぶんと狭く、隧道というより洞窟のようです。

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スケール代わりにナップザックを置いてみましたが、1mくらいしか開口部がありません。
土砂を取り除いたら1.5mくらい、人が立てるかどうかくらいの高さになるかもしれません。

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ご覧の通り隧道入り口はとうとうと水が流れ落ちており、
かつ、入り口に土砂がたまっているため水が隧道内に流入してしまっています。
おかげで隧道内は水たまり状態です。

「島根の近代化遺産」のリストでは「土造」としてあったので
その語感から、もっとドライなイメージを想像していましたが、水浸しです。
これだけ尾根から下った距離があれば、地下水の浸潤も半端ない量になってしまいます。
作った当初から相当ウエットな隧道だったのではないかと推察されます。

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隧道内部を撮影してみました。内部も水がしたたり落ちていてなかなか撮影がしにくい状態です。
上記の写真からほんの少しだけ隧道内にカメラを突っ込んで撮影したものです。
上記の写真と色合いが全然異なりますが、これはブログ主のデジカメの操作上の問題です。
水が溜まっています。中まで入りませんでしたが、かなりの深さがありそうです。

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この隧道が掘られている地層はおそらく花崗岩だと思うのですが、入口付近・内部の様子をみるところ、
花崗岩の節理か小断層といった地層の弱い掘りやすいところに沿って掘り進めたのではないかと推察されます。

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さらに歩みを進めてみます(といってもほんの1m)。
水が滴っているのは入り口だけで、隧道の内部はそれほど漏水がないようです。
花崗岩という事もあるのか、崩壊しているような箇所もなさそうです。
隧道内は水がたまり、その下には堆積物(マサ土?)が厚くたまっている様子です。

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はるか向こうに明かりが。まだこのトンネルは貫通しています。
しかし、光が小さいことからわかる通り、かなり長いトンネルです。
前述の「tunnel web BLOG」さんによる地元の方への聞き取りでは
「30間(54.5m)くらいの長さ」とのことでしたが、もっと長いのではないかという感じがします。

廃道探索で有名な「山さ行がねが」さんなどでしたら、
このまま隧道になんの迷いもなく突入するのでしょうか(むしろこれからが本番なのでしょうが)、
この狭くて暗い水の溜まったトンネルを通る度胸も装備もないので、このまま帰る事にしました。
尾根を越えて向こう側の坑口も確認すべきだったのですが、
日ごろの運動不足がたたって体力的に難しい気がしたのであきらめました。


その4へ続きます。


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  1. 2017/12/18(月) 11:14:21|
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旧横田町森林組合(奥出雲町横田)

1
旧横田町の市街地は、出雲横田駅旧山陰合同銀行横田支店、横田相愛教会など、
昔ながらの町並みの中に近代建築が点在している桃源郷です。

2
その町並みの中、旧合銀横田支店と相愛教会の間に1軒洋風な建物が建物が残されています。
現在は商店の倉庫?作業場?のような使われ方をされているようですが、全体を見ますとなかなか立派な建物です。

これまでこの建物の出自が分からないでいたのですが、
島根県立図書館でたまたま見かけた、「横田歴史文化写真帖」という、
地元横田町で刊行された写真集に、この建物の手掛かりがありました。
写真のキャプションより元は「横田町森林組合」の事務所として使われていたという事です。

この件について奥出雲町の教育委員会に問い合わせをさせていただいたところ、次のような回答をいただきました。

・昭和14年の横田大火後に建設されたものと思われる(昭和14年から昭和15年の間)
・当初から横田町森林組合の事務所として建設されたものと思われる

横田町誌より「横田大火」を紐解いてみますと、昭和14年6月17日の16時頃出火、
全焼81戸、半焼11戸の被害を出して同日21時頃に鎮火したとのことでした。

「目で見る雲南・出雲の百年」には相愛教会の手前まで焼野原になった横田の町を写した写真がありました。
(つまり、この建物は大火後に建てられたという事が証明されるわけです)

3
商店風に1階正面は開口していますが、当時は役所風な玄関を持っていたことが当時の写真から確認できます。
横田町史より、森林組合は昭和30年代には移転をしているようですので、
それ以降は商店などに使われたのかもしれません。

【撮影】
平成25年9月

【参考文献】
「横田町誌」 昭和48年 横田町
「目で見る雲南・出雲の百年」 平成11年 郷土出版社
「横田歴史文化写真帖」  平成16年 横田町文化協会

*当該建物については奥出雲町教育委員会様より情報をいただきました。ありがとうございました。
  1. 2017/12/14(木) 21:30:46|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その2

深野奥原隧道探索(その1)からの続きです。

(第二次探索・平成29年4月)

前回の平成27年の第一次探索は完敗に終わりましたが、1年半後の平成29年4月、
深野奥原隧道に到達すべく、再度雲南の地に出撃しました。

第二次探索では、「夏は下草がすごくて道がわからなくなる」という戦訓を踏まえ、
まだ下草が出てこない早春の時期を狙うことにしました。
今回はペットボトルも3本持って、水不足への対策も万全としました。


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平成29年4月の隧道への入り口です。

図1
今回と前回との入り口付近の比較。やはり真夏と早春とでは山の様子はだいぶ異なります。

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下草が刈ってある!最近になって山に人が入った痕跡があります。
これは心強い!

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土橋を渡ります。

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歩きやすい山道を登っていきます(そうでもないか)。

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前回、間違えて上がってしまった沢の分岐点。

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ここです。

図2
黄色矢印、右側に伸びる道が前回間違えて進んでしまった谷。
赤矢印方向には道らしき痕跡が確認できます。
前回はこの赤矢印の方に道があるようには思えませんでしたが、
下草がないせいで何となく道が続いていることが分かりました。

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分岐を越えて先に進むとご覧の通り、きれいに道が続いていました。

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沢に沿った道ですが道のほうはどんどん高度を上げて沢から離れていきます。
やがて本流から西へ分岐する沢にぶつかりました。
道は本流方面には直進せず、分岐する沢に沿って西方向に向かいます。これはゴールも近い!

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地図でいうとこのあたりになりましょうか。

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いよいよ隧道への谷筋を進んでいきます。

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道の途中に倒木ゾーン。

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倒木ゾーンを越えると道はまたきれいに続くようになります。
高度も稼いだのか谷が浅くなってきました。いよいよ隧道も近いか?

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地図でいうとこの辺でしょうか(かなり適当)。

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やがて道と谷とが区別がつかなくなった少し開けた谷になりました。

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谷の終点が近づいてきました。いよいよ隧道のお目見えか?

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穴が開いている!!

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ついに隧道に到達することが出来ました。
これが(たぶん)ネット上では初公開の「深野奥原隧道」の姿です!

その3へ続きます。


  1. 2017/12/01(金) 18:40:47|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その1

1
平成17年に発刊された「島根の近代化遺産」の市町村別リストを見ると、
旧吉田村の項に「深野奥原隧道」という見慣れないトンネルがリストアップされています。
リストには「昭和10年・土造」とあり、昭和10年代にあっても「土造」、
すなわち手堀りの隧道という事だと思うのですが、これは一体どういうことなのか、
大変興味をそそられる物件です。

しかしながらこの隧道、ネット上で検索しても画像が出てこず、文献も見当たらず、
山陰地方のトンネルを紹介されているブログ、「tunnel web BLOG」さんにおいて、
当該隧道を「探索しかけた」ことが触れられている程度で、
まさに「幻の隧道」といっても過言ではない、島根県の隠された近代化遺産です。

この隧道にぜひお目にかかりたいと思いて幾数年、二度にわたって探索を行い、
ようやくたどり着くことができましたので、ご紹介したいと思います。

(第一次探索・平成27年8月)
まず、当該の隧道が一体どこにあるのか?という事ですが、
「深野奥原」というくらいなので旧吉田村の深野地区にあるのは間違いありません。
しかし、深野地区は広大であり手掛かりなしに徒手空拳で探し回っても時間が無くなるばかりです。

幸いにも、前述の「tunnel web BLOG」さんが、現地で聞き取り調査を行っており、
隧道へ通ずる道の入り口を明らかにしてくださっています。これが冒頭の画像の位置になります。

国土地理院
(国土地理院WEBより)
国土地理院WEBより地図を拝借して、隧道の位置を推定してみます。

参謀本部昭和7年「木次」
(昭和7年参謀本部「木次」より)
現在の地図では道は記されていませんが、昭和7年の参謀本部が作成した地図をみると、
隧道の推定位置のところに破線ながら道が記されています。
隧道の記号がないのが気にかかりますが、隧道が出来たのは昭和10年とされていますから、
昭和7年当時はまだ尾根を越える山道だったという事なのでしょう。

そんなわけで隧道までの道も何となくですが分かったこともあり、
平成27年8月に夏休みをとり、探索をしてまいりました。

1
ここからスタート。
8月と言えば植物が最も勢いを増す時期、入り口からして下草が繁茂して先が見通せず不安がよぎります。

図3
地図で見るとこの地点です。

2
舗装道から作業道に入ると上がるといったんこのような平場に出ます。

図4
地図ではこの赤丸で囲ったエリアになります。

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平場をてくてく歩いと行くとだんだん谷が狭まってきて、道も細くなってきました。

4
いよいよ直進できなくなり、道は土橋で沢を渡って、本格的な山道になります。
夏場なので草がすごい。

図5
地図でいうとこの辺りで沢を渡ります(かなりいい加減)。

5
山道といっても歩く人も少ないのか、途中で道が分からなくなってきました。
下草も多くて道なのかどうなのか判別がつきません。
隧道に通じる道なのか単なる斜面なのか確証が得られないままに、
地図で地形を見ながら歩いていきました。

暑い、そして日ごろの運動不足がたたって、非常に消耗してきました。

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途中で西へ向かう谷が出てきたので確証を得ないまま谷を登ってみましたがこんな状態。
これは隧道のある谷の手前にある浅い谷でした。完全に道を間違えたな。

図6
この浅い谷を登ってしまったのでした。

この谷をあきらめきれずウロウロしたことで体力を消耗して、疲労困憊、
呆れたことにペットボトルも500ml1本しか用意せず、既に水も無くなりかけています。
これ以上の探索は危険と判断せざるを得ませんでした。

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学生時代、地図を片手に山の中で地質調査をしていた。
という実績に基づくオノレの体力・能力への過信・慢心が、今回の失敗を招いたといわざるをえません。
地質調査から離れて10年以上が経過し、その間に体力も地図と地形を読み取る能力も
衰えてしまったことにどうして気が付かなかったのか、
「完敗」の二文字を背に負いつつ、雲南の山から逃げ去ったのでありました。

その2に続きます。

  1. 2017/11/25(土) 23:24:48|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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旧和栗銀行本店(JAいずも知井宮支店)その2

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山陰本線西出雲駅前の旧和栗銀行についての続報です。

大正15年4月16日付の山陰新聞をご覧ください。
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(山陰新聞 大正15年4月16日付)

当時の知井宮村の役場を、旧和栗銀行本店建物に移転したことが記されています。

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大正15年当時の旧和栗銀行の姿が写し出されていました。
現在はモルタル塗り風ですが、当時は石造り風の装飾の多いデザインだったことが分かります。
玄関庇部分はバルコニー風な感じです。

和洋折衷ではなく、本格的な様式建築であることから、地元の大工が建てたというものではなく、
大阪方面の著名な建築家に設計を依頼した可能性も考えられると思います。

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現在の姿。外装は変わってしまいましたが屋根の形状はほぼ当時のままのようです。

新聞記事には建物について下記の通り記されています。

役場庁舎既に老朽して改築の止むなきに迫られた時も恰も
和栗銀行は雲陽(実業)銀行と合併してその本店庁舎は不要となったので譲受の交渉を開始した結果
大正14年9月売買契約を締結して本年1月敷地を除く建物一切を一万三千円にて買収し
同(大正15年1月)21日移転したものであるがもとより和栗銀行本店庁舎であっただけあって
当時数万円を投じて新築のルネサンス式建築物とて
全国を通じてあまり類を見ないであろうと自他共に許している


以上のことから、大正14年に和栗銀行が雲陽実業銀行と合併解散後、空き家となっていたものを、
役場が腐朽していた知井宮村が買い取り、大正15年1月より知井宮村役場として使用開始した。
という事が分かり、これで建築から現在に至る迄の建物の歴史がつながる事となりました。

残念ながらこの旧和栗銀行の建物は、平成25年にJA知井宮支店が他のJA支店と統合となって、
西出雲駅の南側に新築移転し、建物はJAの史料から察するに平成26年頃に解体されてしまったようです。
島根県内でもかなり古い時代の本格的な洋風建築であり、
かつ、近代の地方小規模銀行の歴史を伝える物件として貴重な存在であったので、
これは非常に残念な結果となってしまいました。

改めて経歴をまとめてみます(赤字が建物の経緯)。
大正2年:和栗銀行開業
大正3年:和栗銀行本店として竣工
大正14年:和栗銀行解散
大正15年:知井宮村役場
昭和18年 知井宮村、布智村が合併して神門村成立
時期不明:神門村役場となる
昭和23年:神門村農協発足
昭和31年:神門村が出雲市と合併
時期不明:出雲市役所神門支所となる
昭和37年:神門農協事務所となる
昭和38年:神門農協解散、出雲市農協と合併、出雲市農協知井宮支店となる
平成26年:解体


島根のJAはここ最近再編が多い事もあるのでしょうが、
歴史的な建築物が近年になって立て続けに解体されており(柿木・鎌手・荘原・知井宮など)、
せっかくの地域の遺産なのですから、何とか町おこしなどで活用できなかったものなのかなぁ
と、残念に感じてしまいます(なかなか難しいのだとは思いますが・・・)。


  1. 2017/11/18(土) 22:44:55|
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鑓ヶ崎橋(出雲市大社町入南)

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一畑電鉄の浜山公園北口駅から少し北へ、
入南地区の外れの用水路?(川名不明)と高浜川が合流する地点に架かる橋です。
名前は「鑓ヶ崎橋」、昭和7年架橋の鉄筋コンクリート桁橋です。

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(国土地理院WEBより)
場所はココ。「島根県の近代化遺産」リストでその名は知っていましたが、
どこに架かる橋なのかさっぱりわからず、グーグルストリートビューでようやく見つけることが出来ました。
地図の通り、当てずっぽうでドライブしていても見つけられそうもない場所にあります。

25(昭和9ねん参謀本部大社)
(参謀本部昭和9年「大社」より)
今となってはなんでこんなところ(失礼)に戦前のRC橋が?という感じですが、
古い地図を見ればこの橋を通るルートは国道431号線の旧道であったことが分かります。
恐ろしく細い道ですが、元は大社と平田方面とを結ぶ重要な道だったのです。

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大社方面を臨みます。橋の直前でくの字に曲がる細い道。
橋の前後で退避できるのは右のあたりの広くなったスペースだけです。

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橋の上。オリジナルの親柱・高欄はすべて失われていて、白いガードレールが欄干の役割を果たしています。
橋名板なども設置されていないので、現地では橋の名前も分かりません。

6(071217槍が先橋tt)
(昭和7年12月17日付松陽新報より)

昭和7年12月の松陽新報に、鑓ヶ先橋竣工を伝える記事を見つけました。
記事から橋の情報を抜粋いたします。

・簸川郡遥堪村地内県道平田杵築線に架橋
・昭和5年災害復旧事業による整備
・昭和7年7月着工同年12月竣工、12月17日橋上にて竣工式
・長さ23.9m幅4m
・単桁2径間の鉄筋コンクリート構造 
・総工費3,300円
・工事請負は大社町の安田源次郎

復旧計画にあたっては、
現在の交通の趨勢に鑑み将来を考慮して更に半永久的構造とするとともに、
橋梁をして最も前後の路線形に則せしむる為め従来の架設地点をも更新し、
諸車交通に些の〇〇なきを期し・・・

とあります。

当来るべき自動車発達の時代を予測した最新の橋としたかったという事が記事から読み取れます。
半永久構造という点では架橋から90年近く経過しても今なお現役であることから先見の明があったといえましょう。
しかし自動車交通の発達は当時の予測をはるかに超えたものになってしまい、
今となっては自動車が通るにはいささか窮屈な線形と道幅となってしまっています。

7(071217槍が先橋ttt)
新聞記事より、架橋当時の橋の写真を抜粋しました。
欄干はコンクリート?柱と鉄製欄干との組み合わせのようです。小振りの親柱も確認することが出来ます。

9_20171118153403a2f.jpg
おおよそ同じアングルでの対比です。

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欄干や親柱が失われているため、一見して戦前の橋には見えませんが、
橋全体を観察してみますと、桁や橋脚に戦前のコンクリート造形美が見いだせる様な気がします。

【橋の諸元】
橋名:鑓ヶ崎橋
竣工:昭和7年12月
形式:RC桁橋
所在地:出雲市大社町入南
川:?
道路:?(旧県道平田杵築線)

【撮影】 
平成29年3月

  1. 2017/11/18(土) 16:35:34|
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旧白潟派出所(松江市伊勢宮町)

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松江市内、新大橋の南詰に近代建築っぽい建物がありました。
建物には「松江魚商協同組合」の看板が掲げてありました。
ちょっと昔のマップルでは「伊勢宮町会館」となっています。

戦後の建物のようにも見えるし、何とも言えない物件でしたが、
昭和15年の松陽新報を読んでいたら、
この建物が「派出所完成」として登場してきましたのでご紹介します。

150419白潟派出所ttttt
(昭和15年4月19日付松陽新報)
いかがなものでしょうか、「新築された松江署白潟派出所、中原派出所」のキャプションとともに、
当該の建物の写真が掲載されていました。当時は建物のそばに火の見櫓があったことも分かります。

150419白潟派出所tttt
建物の向かって左側に広い開口部が確認できます。
火の見櫓が併設されていることから、消防詰所も兼ねていたのでは・・・。という感じもしますね。
キャプションに「記事既報」とあるので、記事に詳細が記載されている可能性がありますが、
「既報」の記事を見逃しておりますから、また国会図書館へ行って新聞を読み直さなければなりません・・・。

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白潟派出所とともに紹介されている中原派出所。
画像が不鮮明ですがスクラッチタイル貼りなのでしょうか、かなりモダンなデザインです。
内中原小学校向かいに内中原交番がありますが、同じ場所なのでしょうか?

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(昭和8年2月26日付松陽新報)
戦前の松江市内の派出所はモダンなスタイルのものが多かったようです。
こちらの画像は白潟派出所の新築より7年ほど前、昭和8年に完成した東京橋たもとの派出所。
今の東京橋南詰、テラスになっている場所にあった派出所で、こちらもなかなかモダンなスタイルです。
松江市市制施行110周年記念写真集「松江今昔」の、
戦後の京橋周辺を撮影した写真にも、この派出所が写っているのが確認できます。

以上、旧白潟派出所のご紹介でした。
近年取り壊されてしまい、跡地は駐車場になっています。
松江在住当時はそれほど古い建物に見えず、写真もほとんど撮っていませんでした。
もっと早くこの建物の歴史に触れることが出来ていれば・・・と残念でなりません。


  1. 2017/10/25(水) 16:28:14|
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旧吉田小学校講堂(雲南市吉田町)その2

1
以前ご紹介した、旧吉田小学校講堂ですが、
建築当初の様子や学校の歴史などについて調べてみましたので、二回にわかってご紹介したいと思います。

旧吉田小学校講堂に関しては、松陽新報昭和12年12月21日付の記事にその詳細が記載されていますので、
必要な部分について抜粋してみます。

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松陽新報(昭和12年12月21日付)

「飯石吉田小学校 移転新築落成式挙ぐ」
飯石郡𠮷田村小学校は近時学童の著しい増加にともない校舎の狭隘を生じ、
これが改築移転の議起り、挙村一致去る昭和10年6月整地に着手、
一般村民、在郷軍人会、青年学校生と青年団員等の労力奉仕にて同9月中旬完了、
つづいて昭和11年2月20日、総工費7万円余をもって嘉村和市氏請負建築に着し、
この程完成したので21日午前10時より盛大なる落成式を挙行するが・・・
(後略)

「誓ふ教育報告 吉田村小学校長 曾田為市氏談」
(前略)
現在の校舎は大正7年7月に新築落成当時に於いては郡内稀な完備したものであったが、
本村は築年学齢児童が著しく増加するので改築の必要が迫った
現校地は拡張の余地がないので遂に移転改築の議成り、昭和10年6月から敷地土工に着手
、熱誠溢れる全村民諸君と村内各種団体員各位の奉仕及び寄付金とによって同年末土工は竣工した。
校地は元耕地で
(中略)
本年5月校舎建築の起工ありここに落成式を挙げらるるに至った
校舎は木造二階建、其他講堂屋内体操場などこの新築費惣工費6万数千円を要し、
講堂、普通教室、事務室、応接室、器具図書室、衛生室あり。
特別教室としては手工室、理科室、家事室、作法室、屋内体操場備わり、
付属建物としては使丁室、物置、便所など完備し、
殊に講堂作法室は真に児童生徒の精神道場として最も相応しい立派なものである
(中略)
移転新築の議が起こるや教育に深き理解と同情とを有せらるる田部家よりは、
敷地の無償提供、建築費へ金二万五千円の巨額並びに
備品などの御寄贈ありしのみならず工事に対しても多大のご援助を仰ぎ・・・
(後略)


記事冒頭の要約と、その次の校長先生談話とで、
建築年などに食い違いが見られますがおおよそ以下の事実を読み取ることが出来ます。

・従来の校舎(大正7年7月竣工)が老朽化し、児童も増えて手狭になった
・改築に際しては田部家が新しい土地と建築費用(2万5千円)、備品を提供してくれた
・敷地の整地にあたっては村民、村内各種団体の奉仕活動があった
・建築費は7万円前後
・建築請負は嘉村和市
・2月or5月に着工、12月ごろ竣工

𠮷田村は山林王田部家のおひざ元ですから、田部家から相当の協力があったことが窺えます。

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松陽新報(昭和12年12月21日付)

名刺広告のページを抜粋してみました。
田部長右衛門(22代)とその子息の田部朋之のお二人がトップを飾っています。
田部朋之は後の23代田部長右衛門となる人で、
戦後、3期にわたって島根県知事(昭和34年~昭和46年)を務めています。

田部家の下には「工事監督 落合伝四郎」、「請負業 嘉村和市」の名があります。
「落合伝四郎」は当時の新聞を確認すると、直江小学校(大正15年)、塩冶小学校(昭和3年)、
稗原小学校(昭和12年)、朝山小学校(昭和12年)などの工事監督に関わっていました。

「嘉村和市」は上津村(現出雲市)の人で、大正~昭和期の出雲地方の学校建築などにその名が見られます。
吉田小学校とほとんど同時期に、大社の大社高等家政女学校の校舎も手掛けています。
今ほど交通が便利ではなかった時代、
同時期に離れた工事現場を掛け持ちするのは大変だったのではないかと思います。

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建築当初のものと思われる絵葉書です。
2階建ての校舎の両翼より左手に現存する講堂、右手に特別教室?が張り出している形です。

5
講堂部分を拡大してみました。
現在の姿と比較してみますと、建築当初とほとんど姿が変わらないことが分かります。




  1. 2017/09/24(日) 13:30:24|
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西郷岬灯台(隠岐の島町岬町)その2

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以前ご紹介した、島後の西郷岬灯台について、戦前の絵葉書を手に入れましたのでご紹介します。

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古い絵葉書には灯台の外、官舎らしき寄棟の建物が確認できます。
灯台周辺は背の低い塀が廻らされているのも確認できますね。

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絵葉書に近いアングルで撮影した写真です。向かって右側が西郷湾側です。
もう少し引いて撮りたかったのですが、崖から落ちます。
昔の写真で国旗がたなびいている柱とほぼ同じ位置に、現在はアンテナ塔が建てられています。

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灯台全景。手前の空き地が官舎等の付属施設の建てられていた場所です。


  1. 2017/09/23(土) 17:06:24|
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旧白鳥村信用組合倉庫(市原市大久保)

CIMG3503.jpg
模型仲間とともに小湊鉄道の「里山トロッコ」を楽しんでおりましたところ、
上総大久保駅を出たところで車窓に気になる物件を見つけました。
JAの支店とその倉庫といった風情ですが、すでに看板をはずされ、ATMも動いていなさそうな雰囲気です。

CIMG3504.jpg
事務所棟の隣には農業倉庫。手前は新しい増築風ですが、その奥には昔ながらの倉庫のようです。

CIMG3504t.jpg
注目すべきは倉庫の「鉢巻」の部分に書かれている文字です。

CIMG3504ff.jpg
一部不鮮明ですが「保証責任白鳥信販購利組合農業倉庫」とあるようです。
「信販購利」は「信用販売購買利用」の略でありましょう。
信用販売購買利用組合、これはJAの前身となる戦前の産業組合の形態の一つです。

戦前の産業組合の歴史は非常にむつかしく、無学なブログ主にはいまだ理解できない点が多いのですが、
ウィキペディアなどの説明によれば、産業組合は昭和18年には戦時統制によって解散しているようです。
ということであれば、この倉庫に書かれた文字は、戦前の産業組合時代に書かれたものという事になります。

「白鳥」はこの地域の旧白鳥村のことでしょう。白鳥村は明治22年の町村制施行で成立し、
昭和28年に近隣の町村と合併して加茂村となっています。

以上、(多分)旧白鳥村の産業組合倉庫のご紹介でした。
戦前の産業組合時代からの倉庫の現存は各地にありますが、
当時の「信用購買販売利用」の文字が残されているという点で貴重な物件と思われます。

  1. 2017/08/28(月) 22:15:31|
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