元島根県民のお部屋

島根県の近代建築・近代化遺産と、路面モジュールのブログ

旧海潮村産業組合倉庫(雲南市大東町南村)

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海潮中学校前、JAしまね海潮店の敷地内に残る、産業組合時代の農業倉庫です。

15715海潮産業組合t
(松陽新報昭和15年7月15日付)
昭和15年の松陽新報で、海潮村産業組合が設立30周年を迎えたという記事があり、
その写真にこの倉庫が写っているのを確認することが出来ました。
倉庫の建築年代はわかりませんが、少なくとも戦前、記事が書かれた昭和15年以前に、
海潮村産業組合の倉庫として建てられたのは間違いないのではないかと思われます。

15715海潮産業組合tt
写真の拡大。写真が黒く潰れているのが残念ですが、倉庫前室の柱のあたりは現在と全く変わりません。

CIMG2916.jpg
新聞とほぼ同じアングルから。事務所は建て替えられていますが、倉庫は昔のままのように見えます。

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こちらの写真は平成15年頃に、ブログ主が撮影したもの。
当時は「貯金は農協え」の文字が書かれていました。

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この文字がいい味出していたんですけどねぇ。

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現在の姿。いつの間にか文字は消されてしまいました。
よく見ると屋根に突き出ていた換気用の煙突も失われています。

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前室のガラス戸も昔のままで素敵な風情です。

CIMG2921.jpg
表から見ると状態が良さそうなのですが裏手はこの通り、あちこちで壁が崩れてしまっています。
よく見ると倉庫そのものゆがみが生じているように見え、かなり状態は悪いのではないかと思われます。


【撮影】
平成29年4月
平成15年頃(古い写真)

【建物のプロフィール】
昔の建物名:旧海潮村産業組合倉庫
現在の建物名:JAしまね海潮店倉庫
竣工:戦前

【参考文献】
昭和15年7月15日付松陽新報
  1. 2018/02/11(日) 22:28:39|
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横田小学校校門門柱(奥出雲町横田町)

1_2017123111425740d.jpg
出雲横田駅からほど近く、横田小学校の門柱は大正10年に建造された歴史のあるものです。

2_20171231114258326.jpg
2mくらいあるのではないでしょうか。立派な門柱です。
「横田歴史文化写真帳」によれば、横田小学校の校舎増改築を記念して建てられたとのことです。
上記写真集には生徒総出で門柱を引っ張る写真が残されています。

【撮影】
平成29年4月

【参考文献】
「島根の近代化遺産」  平成14年 島根県教育委員会
「横田歴史文化写真帖」  平成16年 横田町文化協会

  1. 2017/12/31(日) 12:09:23|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その4)

(その1)(その2)(その3)の番外編です。

CIMG6696.jpg
(その4)では現在の松江大橋の絵葉書について考えてみたいと思います。

121019.jpg
(松陽新報 昭和12年10月19日付)

前回まで検証してきた16代目松江大橋は明治44年の架橋以来、
松江の橋南・橋北を結ぶ重要なルートとして重きをなしてきましたが、
年を経て老朽化が進み、昭和に入ると改架に関する議論が上がるようになりました。
紆余曲折の末、昭和12年10月18日に17代目となる現在の松江大橋が開通します。

【昭和13年以降の絵葉書】
img551t
ブログ主の所有する17代目松江大橋の絵葉書はこの1枚のみです。
開通時すでに大陸における事変は拡大しつつあり、内地の生活や経済にあっても、次第に影響がでつつある時期です。
資材統制の影響なのでしょうか、絵葉書の紙質が恐ろしく悪く、アルバムに収納しようとしたら角が欠けてしまいました。

img551tt
絵葉書の拡大。①~③の要素について考えてみます。

①松江キネマ倶楽部
絵葉書で目立つのは松江キネマ倶楽部の塔の部分がなくなっているという点です。
いつ撤去されたのかは不明なのですが、
開通時の絵葉書でも塔の部分がなくなっているのが確認できますので、
少なくとも昭和12年の段階では塔はなくなっていたようです。
16代目松江大橋を撮影した絵葉書は、
南詰東から北詰松江キネマ倶楽部を中央に据えて橋全体を写したものが多いのですが、
当代の松江大橋になると上記の構図の絵葉書はあまり見かけなくなります。
塔を撤去した松江キネマ倶楽部の姿が「見栄えが悪い」からなのではないかと思っています。


②松江市営バス
橋の上を走る「銀バス」は松江市営バスと思われます。

s1229
(松陽新報 昭和12年2月9日付)

松江大橋開通の年、松江市ではモダンな新型バスをデビューさせています。
松陽新報の記事では、旧松江公会堂前に整列した新型バスの写真を載せていますが、絵葉書にあるバスとそっくりです。


③橋上の灯篭型の照明
この絵葉書の年代を決める上で一番の決め手になるのは、橋中央のテラスに据えられた灯篭型の照明器具です。
現在もテラス上には灯篭型の照明器具が据え付けられてありますが、開通当初は設置されてありませんでした。

130407松江大橋t
(松陽新報 昭和13年4月7日付)

「松江大橋の照明燈」
水郷松江のシムボルである松江大橋は昨年改架以来照明設備が自局の影響で遅れていたが
五日夕方迄に東京電気製水銀燈装置の春日燈篭型の照明燈4個が橋の中央に装置され・・
(後略)


以上のように、橋中央の照明は昭和13年4月5日に設置されたとありますので、
絵葉書に照明があれば、昭和13年4月以降に撮影されたもの。という事が言えるわけです。


  1. 2017/12/27(水) 16:18:55|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その3)

(その2)からの続きです。

【昭和7年~昭和8年の絵葉書】
S7~S8
これまでの絵葉書と若干構図が異なり、川下に大橋館も写っています。

S7~S8t
①原田時計店
未だ改築されていないので昭和8年以前という事が分かります。

②大橋館
07818大橋館新築広告tt
松陽新報昭和7年8月18日付

前述の通り、大橋川沿いの旅館大橋館は昭和7年8月に新築開業していますので、
昭和7年8月以降の風景という事になると思います。

③市営バス
バス
市営バスの塗装が旧塗装ですので、昭和9年4月以前ということになります。

以上のことから、
この絵葉書は昭和7年夏以降から昭和8年までの間に撮影されたと考えられます。

【昭和8年~昭和9年の絵葉書】
絵葉書S8~S9
最後の絵葉書です。
一番目につくのは右端、真新しい原田時計店の時計台ですね。

絵葉書S8~S9t
①原田時計店
この絵葉書ではついに原田時計店が改築されてしまいました。
昭和8年9月2日付の山陰新聞に
「原田時計店8月31日より新築移転」という広告が掲載されていましたので、
この絵葉書は昭和8年9月以降の撮影と思われます。

②市営バス
市営バスはまだ旧塗装ですから、昭和9年4月以前という事になります。

以上のことから、この絵葉書は昭和8年の夏以降、
昭和9年の春ごろまでに撮影されたものという事が推定されます。


(まとめ)
以上、建物やバスの塗装の変化から松江大橋の絵葉書の撮影年代を推定してみました。
このように、建物や乗り物のバスの変化を見ることで、
絵葉書の写真が撮影された年代を大まかにですが特定することができるのではないかと思われます。

原稿を書いている途中で大橋の上流側に併設されている水道管の存在に気が付きました。
松江市水道局のHPによれば、松江市上水道は大正7年6月に給水開始となっていますので、
この辺りをもう少し詳しく調べますと水道管の有無でも年代が確認できるはずで、
まだまだ絵葉書の中に年代を特定できる要素はあるのではないかと思われます。


  1. 2017/12/24(日) 16:38:18|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その2)

(その1)からの続きです。

【昭和4年~昭和7年の絵葉書】
絵葉書S4~S8
(その1)で紹介した絵葉書と変化がないようにも思われますが、下記のような変化が見られます。

絵葉書S4~S8トリミング1
①原田時計店
原田時計店はまだ明治築のものですから昭和8年以前という事が分かります。

②橋の上を走っているバス
絵葉書S4~S8バストリミング
絵葉書のバスの部分の拡大です。
写真手前に文化自動車バス同様の古風なモニター屋根付きバス、
そのバスの前をやや近代的なバスが走っています。
塗装は文化自動車バスとは塗装が異なるようです。

昭和4年4月3日市営バス
松陽新報昭和4年4月3日付

松江市営バス開業時の新聞記事より、開業当初のバスの写真です。
昭和4年に文化自動車、松江自動車より営業権、バスを譲り受け、
松江市営バスが開業しました。開業当初の市営バスの塗装は下半分水色、
黄色い線に窓部分は黒色という姿でした。
絵葉書に写るバスは塗分けからして、開業当初の松江市営バスと考えられます。

昭和9年4月15日市営バス
松陽新報昭和9年4月15日付

市営バスの塗装は昭和9年4月頃から銀色に青線の「銀バス」に変更されますから、
塗装の変遷をみれば、昭和4年~9年、昭和9年以降と年代特定ができます。

この銀バス仕様も時代の特定に使えそうなのですが、
ただし、銀バスに関しては、同じ時代に走っていた一畑電鉄バスや本庄自動車なども
同様の塗装のため(白黒では区別がつかない)、注意が必要と思われます。

③大橋館
絵葉書③の部分ですが、橋詰に川岸に面して建物が確認できます。
昭和6年に末次大火が発生し、現在の東本町一帯が焼失しています。
当時の写真を見ると、大橋北詰の③のあたりは焼失を免れたようですが、
大火後の区画整理により、大橋~新大橋の間の大橋川岸に面して道路が新設されています。

07818大橋館新築広告t
松陽新報昭和7年8月18日付

昭和7年8月18日の松陽新報に大橋館新築の広告がありました。
この新築の写真を見ると、旅館前に道路があり、
昭和7年8月の段階では川岸の道路が新設されていたという事が分かります。
絵葉書では橋詰にも建物がありますので区画整理前に撮影されたものと考えられます。

以上のことからこの絵葉書は、松江市営バスが営業を開始した昭和4年から、
少なくとも昭和7年8月の大橋館新築前に撮影されたものということが推定できます。

(その3)へ続きます。
  1. 2017/12/24(日) 16:24:57|
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松江大橋をうつした絵葉書の年代測定法(その1)

1_20171224160327419.jpg
大橋川に松江大橋が架かる風景は、松江市の代表的な景観の一つであり、
明治時代より絵葉書の題材として多くのバリエーションがあります。

本稿では、数多く残されている松江大橋の絵葉書について、
絵葉書に写されている周辺の建物や自動車を分析することにより、
その絵葉書の写真の撮影年代を特定してみたいと思います。

〈平成30年2月追記と修正〉
大橋に併設された水道橋の時代考察について追記し、
「初代日銀」に関する記述を修正しました。

【条件】
・特定するのは先代松江大橋の絵葉書です。
先代松江大橋は明治44年に架橋され、
昭和10年頃に現在の松江大橋の架橋工事に伴って姿を消しました。
先々代のトラス型松江大橋を写した絵葉書もあるようですが、
残念ながらブログ主は所有していません。
また、当代の松江大橋も架橋が昭和12年、その年に事変が勃発し、
社会情勢にもゆとりがなくなったせいか、
絵葉書の数が少ないようで手持ちがあまりありません。

・撮影方向は橋南(大橋川の南側)から橋北方向を写したものに限ります。
この時代の松江大橋の絵葉書はほとんどが上記の向きで撮影されています。
お城なども映るので見栄えが良かったのでしょう。
ベンチマークとなるものも多いため、年代の特定がしやすいという事もあります。

・特定にあたっては建物の変化が中心です。
服飾や自動車の年式などに造詣が深い方があれば、より細かい特定が可能かもしれません。

【年表】
年表
特定にあたって、ベンチマークとなり得る建物やバスに関する出来事をまとめました。
これをベースに以下に絵葉書の年代特定を進めていきます。

大正7年~10年の絵葉書】【明治44年~大正7、8年頃の絵葉書】
T7~T10
まずはこちらの絵葉書です。
まだ周辺に洋風建築も少なく、かなり古い時代に撮影したものという雰囲気です。

トリミング
橋の向こう側の建物に注目してみると年代を特定する手掛かりがあります。

①原田時計店の時計台
洋風の時計台があります。これは原田時計店、現在の創美堂の旧旧店舗で、
時計台のある店舗は明治29年に新築されたものです。
その後、昭和8年に改築されてこの時計台は姿を消していますから、
この時計台があれば、明治29年~昭和8年の間という事になります。

②松江電信局
擬洋風の建物は、明治22年に設置された松江電信局の建物です。
その後大正10年にはこの位置に松江キネマ倶楽部の建物が新築されますので、
この建物があれば、明治22年~大正10年の間という事になります。

③初代日銀松江支店
不鮮明ですが洋風建築の屋根が確認できます。


③島根県農工銀行
最初は初代日銀松江支店の屋根かと思いましたが、改めて屋根の形状を確認してみますと、
そうではないような気がしてきました。
ではこの屋根は何の建物なのかと考えてみますと、県庁前に建っていた、
島根県農工銀行の屋根だったのではないかという考えに至りました。

島根県農工銀行
島根県農工銀行は明治31年に建てられた洋風建築で、かなり最近まで県庁前にその姿を留めていたものです。

図1
いかがなものでしょうか、この屋根は島根県農工銀行のものと考えた良さそうです。

屋根の形状や位置的に、大正7年に設置された日本銀行松江支店の建物と推定されます。
昭和12年末には二代目の建物(現カラコロ工房)に変わりますので、
この屋根が確認できれば大正7年~昭和12年頃までの間という事になります。


以上のことから、建物の年代を以下のように整理します。
原田時計店 明治29年~昭和8年
松江電信局 明治22年~大正10年
初代日銀松江支店 大正7年~昭和12年
島根県農工銀行 明治31年~戦後
3つの建物が重なる時期は大正7年から大正10年の間となりますので、
この絵葉書はこの間に撮影されたものと考えられます。

初代日銀松江銀行というベンチマークがなくなってしまいましたので、
この絵葉書の撮影された年代は古い方は
16代目松江大橋が架橋された明治44年まで時代の幅が広がってしまいました。

④水道管の存在
水道管
16代目松江大橋を写した写真で注意したいのは、大橋の上流(宍道湖)側に併設された水道管の存在です。
松江市誌(昭和16年)によれば、松江市の水道は、
大正7年に主要部分が完成し、大正8年に全部が竣成したとあります。

橋北へ忌部の水を送るためには、大橋川を通さなければならず、
大橋に並行して水道管を架設したものと思われます。
具体的にいつ水道管を大橋川に通したのか、今の段階では調べ切れていないのですが、
少なくとも、水道が開通した大正7~8年頃には架設されたものと考えられます。

水道管無
当該の絵葉書を見ると水道管がありませんから、この絵葉書の写真が撮られたのは、
大正7、8年以前という事になるのではないかと思われます。

以上のことから、絵葉書の年代特定のカギになるものを整理してみますと、
下記の通りになります。

原田時計店 明治29年~昭和8年
松江電信局 明治22年~大正10年
島根県農工銀行 明治31年~戦後
16代目大橋架橋 明治44年
水道管 大正7、8年頃

よってこの絵葉書の撮影された年代は明治44年から大正7、8年頃の間という事になります。




【大正14年~昭和4年の絵葉書】
T14~S4
次にこちらの絵葉書です。
松江大橋北詰西に三階建に塔屋のついた松江キネマ倶楽部の建物があります。
近代化の進んだ松江の景観として好まれたのでしょうか、
この構図での絵葉書はかなり多くの数がヤフーオークションなどで出回っています。

T14~S4t
①松江キネマ倶楽部
大正10年に新築された松江キネマ倶楽部の建物です。
いつまであったのかは不明なのですが、
昭和12年に現在の松江大橋が完成した際の写真には現存が確認されます。

②文化自動車のバス
橋の上にバスが確認できます。

img326t.jpg
かなりクラシカルな形態のバスです。

021017若槻男歓迎t
松陽新報昭和2年10月17日付

車体前部左右に「文」、「化」の文字看板が確認できます。
これは大正14年に運行を開始した、文化自動車のバスと考えられます。
文化自動車は松江初のバス事業者である一文字屋自動車部から事業を引き継ぎ、
大正14年に運行を始め、その後、昭和4年に松江市営バスへ営業を譲渡します。


以上のことからこの絵葉書の写真は、
大正14年から昭和4年の間に撮影されたものと推察されます。

(その2)へ続きます。

  1. 2017/12/24(日) 16:15:29|
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旧出西小学校その3(出雲市斐川町出西)

1_2017122111512956d.jpg
以前ご紹介した出西小学校について、
「出西村教育八十年史」より校舎の変遷についてまとめたいと思います。

以下青字部分は「出西村教育八十年史」より校舎の情報を抜き出したものです。

明治校舎
明治41年4月1日着工
明治41年12月1日落成
本館(2階建て)+屋内体操場(平屋)+付属建物
工費 ¥11,300-
請負 松江市 和泉豊吉

昭和校舎
(前略)
これより先き現校舎の西に6畝28坪を借り受け埋め立てをなし屋内体操場を建築し、
現校地に旧校舎の前を隔つること十間、増築校舎を新築することとし
(後略)

工費 ¥34,700-
請負 出西村番匠会代表矢田甚兵衛
   (平田町岡伊三郎これが代理者となって工事を進めることになった)


3r
松陽新報(昭和4年4月5日付)

ということで、昭和4年に建てられた校舎の後ろにあったのは、
明治41年に建てられた旧校舎だったことが分かりました。

「興雲閣修理復元・基本計画(平成21年)」では、
興雲閣を請け負った和泉利三郎(松江市寺町)の作品として、出西小学校を挙げているのですが、
上記資料では松江市の和泉豊吉が請け負ったとしています。

T13420山陰新聞美保関町制記念t
山陰新聞(大正13年4月20付)

大正13年4月の山陰新聞、美保関の町制記念の名刺広告に和泉豊吉の名前がありました。
和泉豊吉氏の住所は松江市朝日町とあります。
朝日町は和泉利三郎氏の寺町の隣ですし、苗字も同じなので、
和泉豊吉氏は和泉利三郎氏の息子か親族かもしれませんね。

昭和22年
(国土地理院航空写真より)

国土地理院で公開している昭和22年当時の航空写真より、出西小学校を拡大してみました。

昭和22年開設
上記の建物の情報を航空写真に加えてみました。こういう感じなのではないでしょうか。

昭和51年
(国土地理院航空写真より)

昭和51年の出西小学校の様子です。
昭和46年に廃校となっておりますので、民間工場に転用されてからの姿です。
すでに明治校舎は取り壊されておりますが、昭和9年築の講堂は残されているようです。

昭和37年の航空写真では明治校舎裏の講堂?部分はなくなっていました。
昭和42年、廃校前の航空写真では明治校舎は残っています。
明治講堂は昭和37年以前、明治校舎は昭和42年以降昭和52年以前に解体されたようです。

DSCF0006.jpg

(まとめ)
・明治41年に二階建て校舎・平屋建て校舎が建設された
・明治校舎の請負は和泉豊吉
・昭和4年に明治校舎の前(南側)に現存する昭和校舎が建設された
・昭和校舎と同時期に校舎敷地西側の敷地を購入して講堂を建設した
・昭和37年以前に明治講堂を解体
・昭和46年、出西小学校廃校、民間企業へ転用
・昭和42年~52年の間に明治校舎解体

【参考文献】
松陽新報・山陰新聞
「出西村教育八十年史」 昭和30年 出西村敎育委員会
「興雲閣修理復元基本計画」 平成21年 興雲閣修理復元・活用検討委員会



  1. 2017/12/21(木) 11:57:27|
  2. 島根県の近代建築・出雲市
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その4

深野奥原隧道探索(その1)・(その2)・(その3)からの続きです。

1_201712182357544ec.jpg
ついに全貌をあらわした深野奥原隧道ですが、
今回はその歴史や掘られた理由などについて考察をしたいと思います。

2_201712182357551f4.jpg
(参謀本部 昭和7年「木次」・「頓原」より)

改めて戦前の地形図で隧道の位置を確認してみます。
昭和7年の地図では隧道はなく、隧道があるべき位置には道が記されています。
昭和10年に完成したとされる隧道ですから、この地図の破線は尾根を越える旧道ということになるのでしょうか。

赤文字で隧道周辺の町を記しました。
徒歩道にトンネルを穿つのであれば、
「ここに隧道があれば近道になる」・「隧道が無ければどうしても先に進めない」
などといった要素があるような気がします。

ところが隧道を通る山道は山中で複雑に入り組んでおり、
隧道を通ってもどの町からどの町へ行くのにも近道にはなり得ませんし、
隧道の周囲にはしっかりした道があるしもっと早く行けるルートがあります。
なんとなくですが、ここにトンネルを作る必然性がいまひとつ感じられません。

一つ考えられるとしたらこの地は昔から林業・炭焼きが盛んな地であるはずですから、
その作業道の充実のために作られた??ということが考えられるかもしれません。

疑問点
・誰が掘ったのか
・何のために掘ったのか
・費用はどうしたのか
・どの程度利用されていたのか
・いつまで使われていたのか

以上のように様々な謎を残したままの深野奥原隧道でしたが、
後日、思いもよらぬところから解明のヒントになるような資料が出てきました。
国会図書館で松陽新報のマイクロフィルムを眺めていたら、
次のような記事が視界に飛び込んできました。

松陽141013t
昭和14年10月15日付松陽新報より

「稀な木馬道 田井村奥原谷に」
飯石郡田井村地内奥原谷の田部長右衛門氏所有の山林の一部の立木を、
今春簸川郡上津村嘉村和市氏が購入し、今夏以来木馬道四十町(4.4㎞)の工事中、此程完成した。
この木馬道は中途〇〇九十間(163.6m)の岩石のみの隧道あり、
これのみにても一万余円の巨費を投じ総工費一万三千余円実に木馬道しては稀有な大工事であった。
幾十人の労務者に依って枕木製材木馬出し製炭飯場事務所の建築等非常な殷盛を呈している



いかがなものでしょうか、ここに出てくる隧道が、「深野奥原隧道」なのではないでしょうか。

「昭和14年に田井村奥原谷に」
田井村は現在の吉田村深野のエリアです。
奥原谷が地域を示すのか、谷そのものを示しているのかわかりませんが、
深野奥原隧道を含む当該地域だということは明確だと思われます。
「島根県の近代化遺産」のリストで隧道の年代を昭和10年としているのに対し、
この新聞記事が昭和14年と時間差があるのが気になりますが。誤差の範囲でしょうか?

「上津村の嘉村和市氏が田部長右衛門氏より山の一部を購入」
嘉村和市氏といえば当ブログでおなじみ、島根県内の近代建築を多く請け負った人物です。
田部長右衛門氏は言わずと知れた出雲の山林王、
嘉村和市氏は昭和12年に吉田村の吉田小学校を手がけていますので、
その縁で吉田の山林王である田部長右衛門氏と嘉村和市氏とのつながりができたのかもしれません。

「4.4㎞の木馬道を作って木を切り出し始めた」
「木馬道」(きうまみち・きんばみち)、見慣れない単語ですが、
林道やトラックなど、木材を運搬する設備の未発達だった時代に山から木を搬出する際には、
山中に木を枕木のように並べ、そこに木材を積んだソリを滑らせる。という手段を使っていたそうです。
ソリを滑らせるために木でこしらえた諸施設を「木馬道」というそうなのですが、
そうであれば、隧道の存在意義が明確になってきます。
つまり、木材を橇に積んで安全に下まで降ろすためにスロープが必要になります。
隧道を掘って距離を稼ぎながら緩やかに降りるルートを確保した・・・。ということなのでしょう。

トンネルといえば「目的地への短絡」が存在意義と考えてしまいますし、
そう考えるとこの隧道の意味が不明になるのですが、山奥から木を切り出して搬出する、
上述のように「木馬道」として緩やかなルートを確保するという観点から考えれば、
この隧道の存在意義が良くわかります。

3_20171218235757497.jpg
そのような知識のもとに、隧道への道の画像を観察してみますと、
何となくソリを滑らせた緩やかな木馬道が浮かんでくるような気がします。


「木馬道の途中には全て岩に掘られた長さ50間(90m)の隧道がつくられた」
「全て岩に掘られた」という記述は、深野奥原隧道の現況からもよく理解できます。
90mという長さも、実測したわけではありませんが、そのくらいありそうです。
それにしても総工費12000円のうち、隧道工事に1万円投じたとあり、
どれだけの立木を購入してどれだけの木材を切り出したのか、
木材の切り出しでこれだけ設備投資をして採算があったのか、
今となってはわかりませんが興味深いところではあります。

「枕木製材木馬出し製炭飯場事務所の建築等非常な殷盛を呈している」
「どこに」事務所や飯場が作られていたのかは明らかではありませんが、
隧道への道の入り口の場所が開けていたのは、ここに作業場あったからだったからという可能性がでてきました。


以下に新聞記事の情報をまとめました。
・「深野奥原隧道」は、昭和14年に、木材運搬の木馬道用の隧道として掘られたものである可能性が高い。
・起工は昭和14年春、竣工は14年10月頃である。
・施工主は上津村の嘉村和市である。
・一連の木馬道整備にかかった費用12,000円のうち、隧道工事の費用は10,000円であった。


島根大学法文学部文化人類学研究室がまとめた、「𠮷田村深野の民俗」という資料においては、
隧道に関する直接的な記述はありませんが、
深野地区においては林業(木炭の製造)が盛んであった旨が記されており、
「山の奥の方の木炭は樫の木で作られた木馬(クンマ)と呼ばれるソリに載せられて麓まで運ばれた」
という記述がありました。
嘉村和市氏の事業がいつまで続いていたのかは不明ですが、
地域の住民による木炭作りはおそらく戦後の燃料革命頃までは続けられていたと思われますから、
隧道も戦後もしばらくの間は木炭製造のための作業道、運搬道として、活用されていた可能性が考えられます。


以上、深野奥原隧道の歴史と掘られた理由についてまとめました。
旧吉田村にあっては近代のまとまった資料がほとんど見当たらない状況であり、
隧道について記された資料は皆無でしたが、たまたま該当する新聞記事を発見できたのはラッキーでした。



【木馬道参考URL】
和歌山木材協同組合
愛知県県有林事務所


【参考文献】
松陽新報 昭和14年10月15日付記事
𠮷田村深野の民俗 平成12年 島根大学法文学部文化人類学研究室

  1. 2017/12/19(火) 00:06:24|
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深野奥原隧道(雲南市吉田町深野)その3

深野奥原隧道探索(その1)・(その2)からの続きです。

ついに深野奥原隧道に到達しました。

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おそらくWEB上ではじめての公開という快挙をなしとげました。

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殆ど沢と同化している道より隧道を眺めます。

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古いトンネルにありがちな「高度を稼いでから尾根のチョイ下くらいに穿たれている隧道」を
想像していたのですが、様相は全く異なり、尾根のはるか下を穿つ隧道でした。
隧道の入り口には土砂などが堆積していていて隧道全体が見渡せません。

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入り口手前の土砂の堆積によって入口がずいぶんと狭く、隧道というより洞窟のようです。

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スケール代わりにナップザックを置いてみましたが、1mくらいしか開口部がありません。
土砂を取り除いたら1.5mくらい、人が立てるかどうかくらいの高さになるかもしれません。

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ご覧の通り隧道入り口はとうとうと水が流れ落ちており、
かつ、入り口に土砂がたまっているため水が隧道内に流入してしまっています。
おかげで隧道内は水たまり状態です。

「島根の近代化遺産」のリストでは「土造」としてあったので
その語感から、もっとドライなイメージを想像していましたが、水浸しです。
これだけ尾根から下った距離があれば、地下水の浸潤も半端ない量になってしまいます。
作った当初から相当ウエットな隧道だったのではないかと推察されます。

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隧道内部を撮影してみました。内部も水がしたたり落ちていてなかなか撮影がしにくい状態です。
上記の写真からほんの少しだけ隧道内にカメラを突っ込んで撮影したものです。
上記の写真と色合いが全然異なりますが、これはブログ主のデジカメの操作上の問題です。
水が溜まっています。中まで入りませんでしたが、かなりの深さがありそうです。

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この隧道が掘られている地層はおそらく花崗岩だと思うのですが、入口付近・内部の様子をみるところ、
花崗岩の節理か小断層といった地層の弱い掘りやすいところに沿って掘り進めたのではないかと推察されます。

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さらに歩みを進めてみます(といってもほんの1m)。
水が滴っているのは入り口だけで、隧道の内部はそれほど漏水がないようです。
花崗岩という事もあるのか、崩壊しているような箇所もなさそうです。
隧道内は水がたまり、その下には堆積物(マサ土?)が厚くたまっている様子です。

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はるか向こうに明かりが。まだこのトンネルは貫通しています。
しかし、光が小さいことからわかる通り、かなり長いトンネルです。
前述の「tunnel web BLOG」さんによる地元の方への聞き取りでは
「30間(54.5m)くらいの長さ」とのことでしたが、もっと長いのではないかという感じがします。

廃道探索で有名な「山さ行がねが」さんなどでしたら、
このまま隧道になんの迷いもなく突入するのでしょうか(むしろこれからが本番なのでしょうが)、
この狭くて暗い水の溜まったトンネルを通る度胸も装備もないので、このまま帰る事にしました。
尾根を越えて向こう側の坑口も確認すべきだったのですが、
日ごろの運動不足がたたって体力的に難しい気がしたのであきらめました。


その4へ続きます。


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  1. 2017/12/18(月) 11:14:21|
  2. 島根県の近代化遺産(その他)
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旧横田町森林組合(奥出雲町横田)

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旧横田町の市街地は、出雲横田駅旧山陰合同銀行横田支店、横田相愛教会など、
昔ながらの町並みの中に近代建築が点在している桃源郷です。

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その町並みの中、旧合銀横田支店と相愛教会の間に1軒洋風な建物が建物が残されています。
現在は商店の倉庫?作業場?のような使われ方をされているようですが、全体を見ますとなかなか立派な建物です。

これまでこの建物の出自が分からないでいたのですが、
島根県立図書館でたまたま見かけた、「横田歴史文化写真帖」という、
地元横田町で刊行された写真集に、この建物の手掛かりがありました。
写真のキャプションより元は「横田町森林組合」の事務所として使われていたという事です。

この件について奥出雲町の教育委員会に問い合わせをさせていただいたところ、次のような回答をいただきました。

・昭和14年の横田大火後に建設されたものと思われる(昭和14年から昭和15年の間)
・当初から横田町森林組合の事務所として建設されたものと思われる

横田町誌より「横田大火」を紐解いてみますと、昭和14年6月17日の16時頃出火、
全焼81戸、半焼11戸の被害を出して同日21時頃に鎮火したとのことでした。

「目で見る雲南・出雲の百年」には相愛教会の手前まで焼野原になった横田の町を写した写真がありました。
(つまり、この建物は大火後に建てられたという事が証明されるわけです)

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商店風に1階正面は開口していますが、当時は役所風な玄関を持っていたことが当時の写真から確認できます。
横田町史より、森林組合は昭和30年代には移転をしているようですので、
それ以降は商店などに使われたのかもしれません。

【撮影】
平成25年9月

【参考文献】
「横田町誌」 昭和48年 横田町
「目で見る雲南・出雲の百年」 平成11年 郷土出版社
「横田歴史文化写真帖」  平成16年 横田町文化協会

*当該建物については奥出雲町教育委員会様より情報をいただきました。ありがとうございました。
  1. 2017/12/14(木) 21:30:46|
  2. 島根県の近代建築・出雲地方
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